
▼ 「浮浪雲」「銭ゲバ」のジョージ秋山氏死去、77歳 作品に「泣かされた」ファンから追悼の声
https://www.j-cast.com/memorial/2020/165171.html
〜連載が44年続いた「浮浪雲」(はぐれぐも)などで知られる漫画家のジョージ秋山(本名・秋山勇二)さんが2020年5月12日に亡くなった。77歳だった。6月1日、「浮浪雲」が連載されていた「ビッグコミックオリジナル」(小学館)編集部が公式サイトで発表した。
いやぁ〜ホントに愕然とした!
ウソだろうと例の思い付き思いっきりギャグかとも。今日の漫画雑誌ビッグコミックには、氏への追悼特集で他の漫画家各氏の追悼漫画がコメントと共に追悼文らしくメッセージされてて、立読みしながら〜あぁ、ホントだったんだなぁ〜ナンデモ亡くなったンだ?と勘繰ったけれども、なぜか、死因は発表されてない。
は!まさか〜コロナ新型による感染死じゃあなかろうね、等とも思いたくなる。
▼ アートとカルチャー( 新潮社フォーサイト )
〜ジョージ秋山の作品世界は、安易な計算ずくの作劇術では醸し出せないエネルギーをはらんでいる。彼は「語りえないもの」を語れる、稀有な作家だったのだ。
▼ 孤高の人気漫画家として
〜ジョージ秋山がどんな漫画家だったか〜〜
▼〜1960年に、貸本漫画誌『風魔』(東邦漫画出版社)の創刊号でデビュー。忍者漫画のアンソロジーであり、そこに本名の秋山勇二の名で描いた『嵐と忍者』が掲載された。看板作家の白土三平から「秋山君の前途は明るい」とのお墨つきで、16歳の新鋭が登場した。
〜その後、ギャグ漫画家の森田拳次に師事し、間もなく少年漫画雑誌の人気作家として成長、DCコミックス『バットマン』をからかった(でも芯の部分では似通った)ようなメタヒーローマンガ『パットマンX』(講談社)で1968年に講談社児童まんが賞受賞。70年代になると、コロコロした三頭身のキャラクター造形はそのままに、物語は毒気を放ち、『銭ゲバ』(小学館)などの過激な話題作を連発。『銭ゲバ』は唐十郎の主演で映画化され、また、イラストレーターの和田誠はアラン・ドロンのポートレイトに重ねて描いた。寺山修司は、評論家の石子順造に「パットマンX」の扮装をさせて写真を撮った。永井豪は『ハレンチ学園』(集英社)に「デロリンマン」を登場させた。赤塚不二夫はライバル視をした。知識人にも愛される、時代の寵児だったが、露悪が過ぎて良識派の癇に触り、有害図書扱いされたりもした。
https://qjweb.jp/column/23682/
既に現役ではない、片足を棺桶に突っ込んだままで死に体の単なる老いたる自分だが、偶にコンビニやら書店へ立ち入っては新刊本や雑誌〜コンビニでは主に漫画の青年コミック誌ビッグコミックと兄弟誌オリジナルだ。そうでないのはブルータスとかポパイとか偶に見掛けるが、他に見ると直ぐに手を延ばすのは趣味系の奴なので、所ジョージの世田谷ベースなどか。本屋では他に色々〜
漫画少年になったのは小学生、確か高学年となってから月刊誌の冒険王だったと思う。近所の同級生は少年を買ってたからお互いに貸し比べ見比べをしたもの。既に年配の人らは少年ブックなどもっと古くから有る雑誌を買っており、それを読ませて貰うのが遊びの一つの目的でもあった。勉強はそっちのけで読み耽ってたもの、それに偶に少女漫画のリボン、なかよし、少女?クラブだったかなぁ〜確か手塚治虫がリボンの騎士を連載し出したので、そんなのにまで食指を延ばして無駄に時間を潰したもの。
やがて月刊誌が衰退したのだが、時代は次第に高度経済成長期に突入して行く中で、週刊少年サンデーと少年マガジンが発売されたのだった。コレは画期的な出来事、〜辺境の田舎町にあっては〜いつもヒト月は遅れて配本が為される月刊誌に比べて発刊サイクルが月単位でなく、週刊なんだからして、人気漫画ホンも少し早まって入荷する様になった気もする。街から1時間も遠くに住んでる子供の頃だから、無論本屋さんなぞ知る訳はない、けれども中学生となって学校生活自体の世界観が格段に広がると、街住まいの友達も出来て、遊びの世界が格段に山の中の学校みたいな空間から飛び出した感じもあった。
子供の成長、通過儀礼の思春期がヤハリ始まったのだ。
それをバックアップしたのが、友達の変化変容と共に漫画雑誌の月刊から週刊への転換でもあったろう。確か最後的に買ったのは、ボーイズライフ。少年ケニヤやサブマリン707等と絵と文有りの物語に漫画と他沢山の読物ニュースなど単なる少年漫画誌でもなかったのだ。
それはさて置いて、週刊漫画誌に中学生になって初めてリアルタイムで見られる様になったのだが、後年東京の友人に聞いた所では既に町中のアチコチに古本屋の他に貸本屋なる聴き慣れないお店が有って、5円玉や十円を握りしめて通ったと言う。そう田舎育ちの猿モドキと都会のいわゆるシティボーイとの差はれきぜんとしていて、カルチュアーショックは相当なモノだった。落差のどころでは無い、頭の中がヤハリ知恵遅れ等と暗にバカにもされたヨナ人生劇場、少年にして既にココロ朽ちたり〜が地で育った様な塩梅、山猿のドン臭さと洗練されたスマートさとは所詮は太刀打ち出来ない。
だからイモ侍の薩摩生まれの先祖らは遮二無二〜倒幕へと雪崩れ込んだのだなぁ〜オド〜マ薩州サツマのブニセ!良かニセに対する不二才、醜夫〜
マァ卑下するのはココロの内だけ、笑って誤魔化せ〜誠マコチ恥ずかしいゲン無ネ事ッチャ〜ワッハッハ〜
後から思えば冷や汗ものだが、都会育ちの友はしみじみと〜故郷と呼べる所が在るお前は幸せだなぁ等と奇妙なコトを呟いたのを今でも思い出す。ナニ言ってるンだい⁈お前の帰る処は両親の住む家だろうが〜贅沢言うなよ、お坊ちゃん〜などとフザケ合ったりもした。よくよく考えて見ればそれは魂の安らぐ処、日進月歩〜息つく暇もなく発展してゆく都会の荒波の中で育った友も、偶にはそうしたコンクリートジャングルを抜け出した荒れ放題の田舎暮らしを夢見たのかも知れない。良く田舎の話をアレコレ聴きたがったし、ソレは東北や信州などの温泉など一緒に遊んだ時にも聴いたのだったが、ヤハリ田舎育ちの私には通底しない心象風景だったのかも逆に知れないのだ。
さて、そんな上京して暫く経って都会の中にも信頼出来る友も少しは出来た頃に発刊されたのが、少年漫画よりも上級を目指す青年漫画誌の登場だった。その最たるものがビッグコミックであり、少年ジャンプの創刊の後だとソレは思うけども確かに内容的には子供向けでない、青年向けだった。青年コミックとしては既にエログロも織り混ぜた週刊誌も有り、又平凡パンチやプレイボーイなどと写真週刊誌ならぬ月刊誌も元から有り、漫画少年もいつの間にか漫画青年へと成長の度合は世の常、多分、その頃から漫画界も戦国ムードで色んな漫画雑誌が乱立して活気を呈してた。
でもヤハリ読んだ順番からサンデーマガジン、それにジャンプと来てそれからだったろう。
そんな中で、このジョージ秋山なる漫画家の登場はマタは画期的でも有った。
銭ゲバ!まぁ、少しは文学青年モドキも流れてた仲間内でも、生まれて〜来なければ〜ヨカった!〜などとオドロオドロしく描かれた醜態を晒した少年がストーリーといわゆる守銭奴の姿を描きながら、ギャーテイ〜ぎゃーてい、ハラ、ギャーテイ、ボーヂィ、ソーワーカ!などと空ブク、そう般若心経の最終行の文句が今でもズッと脳裏に焼き付いている。
漫画家はマンガ家でなくなり、サブカルチュアの担い手として哲学的にも文学的にも上昇していったのだ。
王様手塚治虫も大作火の鳥に取り組み、他の同時代の漫画家達もこぞって宗教色も出したり歴史色も勿論突っ込んでも行った時代、古い単なる風刺漫画やギャグ一辺倒じゃない文化の担い手の一ジャンルとして芸術的センスまで醸し出しつつあった。
迂闊なことに、今年水無月のなどかくは美しき〜等と言わね!嘆かわしくは、早も6月には、漫画家ジョージ秋山の訃報は知らされてたらしい、知らなかった!
だから何だ、何をかイワンや〜なんだが、兎も角もこうして遅ればせながら焼香替わりに訃報のお知らせとなった。今週のビッグコミックオリジナル、だったかな〜漫画家諸氏の追悼文追悼の漫画を添えた特集を読んだのだ。合掌

0