

予報通りに雨になった。この伝で行くと明日は雪となる。天気図を見ると確かに低気圧から南方へ二股に分かれて人の字形になって伸びる前線が描かれる。
衛星画像では雲の動きがまるで雲の巣に捕らえられた日本列島みたいに絡め捕られた様な具合、軒を滴る雨音は暗い内から絶え間無く聞こえてはいた。しかも寒い、寒いから一旦起き出したものの又ゾロ布団に潜り込んでしまったら二度寝してしまい、それでも8時前には未だ聞こえるともなく聞こえる雨音の調べは鬱陶しい、雨は降るとは無しに降っていて、それは昨日一昨日の昼の弱々しい限りの朝日太陽の光すら無い雨天曇天。
それが薬を飲まなきゃナランて口実で家の北辺の台所に居るとモロにまともに北風が吹き来るのが聞こえる。
予報では北西の風8m〜強風だ。どおりで寒い筈で気温は6〜7度、日中の最高気温もせいぜいが8度と昨日に同じく二桁には届かない。
暦通りに二十四節気の云う処の小寒〜おぉサムこ寒! 段々と寒さ厳しく募る時期、そう言えば昨日の月さえも弱々しき上弦の半月、二十三夜月とか言い習わしたらしい。大昔はこの日は恵比寿講エベスさん、市が立ったらしいが当地ではド田舎〜伝統なんぞ無縁の貧しい土人ノ國〜廃れるも何も無いが、大都会では未だ諸所に見られる賑やかさ。今年は新型コロナの影響でそれもお流れと言う声も聞いたが、せめて今日の七草粥でも食って今年一年の無病息災と疫病退散を願おうか〜(^^)
「正月夜多く鬼鳥渡る」と聞いた。これだけ寒くてみぞれ混じりに近い雨が降り風強ければ、さしもの暴れん坊の渡り鳥らもキィ!とも鳴かない。
思い起こせば七歳になったと亡き母親に連れられてこの朝に一張羅の着物を着せられて鼻緒の下駄を履いて、部落の東西全て近所まわりをしたもの。小さなお盆は直ぐに満杯になってしまった筈だが、そこは要領良く鍋を一緒に下げた母親が移し替えてたらしい。お粥をお裾分けしてくれる家、お米や餅米やお餅を施してくれる家、小銭を載せてくれる家〜なとと様々なお祝いの方途に村落全体の共同体感覚が植え付けられたもの。
▼「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」春の七草と続く七草を昔は前日に摘み取り、翌朝の正月七日にお粥に炊き合わせて〜
若菜摘み、それは旧暦の正月七日の風習だから我々の新暦では大寒も峠を越した頃、昨日は藪祓いならぬ雑木伐採をこの際だからと行った。この木も渡り鳥等がもたらしたもの、所構わず飛び回り赤い実青い実と何でも食い散らかしては糞尿ヒリ散らかす。それに混じった種が落ちていつの間にか芽生えて生長したもの、酷くなると太さも20cmにもなり鋸を引くのも一苦労、チェーンソーは盗まれて久しいし、近所の何某かから借りるにはしょうがつそうそ正月早々に個人的過ぎてチト躊躇われる、頼めば応答してくれるが手を貸してくれとも取られ兼ねないので〜^_^
観音さまで燃やしまくろうと思ってた落ち葉焚きも出来なくなった、この日に荒れた天気ならば今年も又良からぬ気配かも。信心深い訳じゃ無いが、どうも歳を取る〜重ねるツウ事は日本人の性なのか、どうも迷信深くなりそうで、田舎よりも高い生活が長いクマでさえ草深い田舎の泥の神様仏様へも又少しく有り難みを感じるヨナ気分、寺のクソ坊主の金取りには付き合い兼ねるも宗教行事には一応は付き合わねばならん。今年は如月初めに、亡母の7回忌とか。
30分余りの読経で最低3万円ナリのお布施を寄越せチウ営業方針。天なる親鸞さまも地に堕ちたものよ〜悪人教なるや、浄土真宗よ。邪教やまだ般若心経を唱えて独りで位牌を拝んでた方が余程の供養になるとも愚考する。
つまり、
今日は人日の節句。
▼〜人日は、他の節供同様中国に由来するもの。
古代中国では正月一日から、「鶏、狗、猪、羊、牛、馬」の順に獣畜の占いを立て、七日になって人の占いを始めたということで、人日。ちなみに翌日八日は穀の占いを立てた。
この占いは、新しい一年の運勢を占うものである。なお、この日の天候もその一年を占うものであったらしく、晴れなら幸ありとされる。
また、唐の時代には「七種菜羮」を食べて無病のまじないとしたとのことで、日本の七草粥と通じる。
人は生まれて七歳となって初めて人としての人格を認知されたらしい。即ち一端イッパシの人間としてこの世に姓名を与えられるもの、大昔は七歳にならぬ子供は未だ一人前の人間とは見なされずに家畜等に同じ様な扱いでもあったらしい。多分に仏教の或いは又儒教的な考え方かも知れない。初詣でに昨日は近所の長谷観音(はせんかん.と呼ぶ〜)に行き、その足で瀬戸山神社、春日神社、田崎神社〜と廻った。古墓はその前に済ませていたが、子供の墓は独自にはナイ、全て親と一緒の家族墓。余程の事がない限り幼児の名前さえ記銘されない、女だらけとかこともが少ないとか〜
それで一時期は水子供養も流行ったりした。
七つのお祝い、とは一人前とは行かないが大人の仲間入りの前の少年少女への成長を許された新しい共同体の仲間入りを果たした通行手形なのであり、サンクチュアリー聖域への入場が村の皆んなから認知された端緒なのだ。
こうやって書いて来たら、どうやら風も収まり和らいで雨音さえしなくなった。寒さは変わらぬものの、災い転じて福と為す〜式に後で又お参りしようか、どうせ今日も何もする事はない。賀状も書き忘れてた人もいるのだが向こうからも何も無ければ何か有ったのやら知らぬが、朝のポストマンが来た後で追加で便りはシタタメテみるか〜

0