
曇り空が続くかと思ったが、雲が薄れて風があるものの日の光が射してヤヤ気温も上がった。
晴耕雨読、もう一つの気になるニュースにモウ6日も続く栃木県の山火事の報、冬の野山や枯れ野原でさぞや難攻不落となったのか。
▼栃木・足利の山火事 消しても飛び火 消防団員「切りがない」毎日新聞
〜〜6日目を迎えた山林火災は火の手が一時、織姫神社に迫った。延焼範囲は前日より約6ヘクタール拡大し、106ヘクタール。避難勧告の対象は98世帯増え、305世帯となった。
緊急消防援助隊として入った東京消防庁統括指揮支援隊、宇都宮市消防局など応援隊との連携消火は同日から本格化した。14市104人の応援要員を加えた地上消火隊は、織姫神社南、本城2(陽光台)に新たに防衛線を設け、計7カ所に各2市を配置する形で対応したという。
▼ 「自粛しない若者」像にうんざり 自粛する若者たちが抱く虚しさの背景とは〈AERA〉
〜大学生活は自粛一色なのに、「自粛しない若者」像ばかりがクローズアップされる。割を食っている──。若者たちが抱える虚しさの背景には、国や自治体のコミュニケーションの失敗と、若者たちの間で進む孤立化がある。AERA 2021年3月1日号から。
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自粛続きで、タイムワープしたような1年だった。
「2020年を振り返ったら、本当に何もなかった。時間が失われた感覚がしました」
神奈川県に住む大学生の女性(20)はコロナ禍の1年をそう振り返る。一度も大学に入構せず、授業はすべてオンラインで受けた。図書館は条件付きで利用できるが、県をまたぐ移動を避けているため、活用できていない。
〜「小中高生や社会人は制限付きでも、通勤通学できています。それを見ていると、モヤモヤしてしまう。県外に住む友達とは、もう1年以上会っていません」
それなのに、国や自治体からの呼びかけに「20代」「若者」という言葉が相変わらず目立つ。
「若い方は体力があり、行動力がある方々が、自分自身が感染している自覚がないままあちこち活動される」(20年3月、小池百合子都知事)、「どうか、若い世代の皆さん、日本の危機を救う立役者になってください」(今年1月、尾身茂・政府分科会会長)。後者の発言の若い世代とは20〜50代を指すが、2月2日には同分科会は若者に卒業旅行や謝恩会を控えるよう呼びかけた。
今朝もまた雨の音で目が覚めた、ツウか軒から滴り落ちる雨水の地面を叩く音なのだ。暫くして玄関を開けて外に出て見たら地面は濡れてるがもう殆んど見分けも付かない湿気があるものの雨の相は見えなくなってた。滴り落ちる雨水の音はまだ残ってたが。二階屋根やらに溜まった火山灰と杉の葉で堰き止められた雨水がジワジワと滲み出てるんだなと隣の杉並木を恨めしく思った。
気温は13〜4度とか、屋内ではヤヤ冷んやり〜天気図を見ると雨雲は薩摩半島側の沖合い東支那海からドンドン湧き出てる。そう、東の風か強いがちょうど朝凪の頃合いかも〜少しく感ぜられる。
昨日は一歩も外出せず、閉じ籠り。
若者の引き篭もりに対する上の記事、外出自粛の呼び掛けが社会問題化してるのか、ある意味ではそうだろう。それは若者だけでもない、倫理性を帯びた自粛警察紛いの政府や自治体の法律での縛りが先ずは若者へ「時代、世代、社会などからの圧迫感や逼迫感を押し付けられてる」と言う重圧やストレスを与えてるのだろう。
恐らくその感覚や感情、想念は、若者特有の政治思想とか社会観への引き当てとしての思惟の結果ではなくて、もっと素直な単純な形で受け止められた戸惑いやら思惑であって、為に鬱屈した自己の被害観念に囚われてしまったもの。
ヤハリ積極性が求められるが、ヤヤもすれば消極的で悲観的な自己も出現し勝ちな個性も当然にも存在する訳で、だから法律や行政が管理する様な形で一律に自粛要請やらソーシャルディスタンスを訴える事自体が間違いなのだ。
特にこの大学生の行動制限や授業無し〜オンラインでの一方的な垂れ流し授業のみとか、サークル活動やスポーツ活動の自粛など無理があったと言えよう。
現に政府機関や自治体機能は通常通りに機能してたし、公教育機関もそうで、また凡ゆる社会機能や交通網も稼働してた。マスク着用とか手洗いやうがいなど消毒推進に三密を避けるなどの呼び掛けはあったが、ソーシャル ディスタンスなる合言葉はそれなりに機能したとも言えよう。それでも感染者は出たし感染から治る患者も治らずに重傷化して死亡例も増え続けたが、皆んなが皆、感染して云々ではない。
けど、私なんかは大都会の人口密度の高い地域で暮らす訳じゃないから、逆に何を戯けたタワケモノ〜で田舎モンがとお叱りを受けるやも知れん。幸いな事にコンナ過疎の限界集落なんぞCOVID-19なる新型コロナウィルスの忍び込めない要因もあったのかもと感じる。だいたいが人と人の往来がマバラ疎ら過ぎで道を歩いても人っ子1人会わない事も屡々タビタビ^_^〜
通学中の子供らとは学校の行き帰りには偶に会うものの、普通の日中にはそれこそ犬も猫も消えてしまったかの田舎道、それが市街地へ出向いても殆んどヒッソリとしている。タマに買物イス車に負いすがった老婆に会うも警官や作業員を見掛ける程度、皆んなクルマ自家用車で移動してるのだ。
運動場にも図書館にも、また市役所、お風呂、本屋、病院施設、理美容院、それにスーパーマーケットなど様々な買物、その中では有る程度は密に成らざるを得ないがホボ100%全員がマスクしてる。そうしてコンナ田舎では疫病が流行らない、ここでも流行遅れなのだ。
疫病にも疎外された過疎地の現状、でも百万都市の県都鹿児島市へ行ってもそれは凡そ似たようなもの、ヤハリ疫病に感染した者は極ごく一部に過ぎない。
おろそかにしたり蔑んだりする訳でない、けれども新たなる脅威としての新型コロナ感染のリスク、それがこの令和新時代の始まりを禍々しく流行付け、そしてそこに生きる若者たちを困惑させ或いは鬱屈とさせてるのも事実。
しかもそうした傾向は若者だけでなく普通の他の社会人にも流行してるのだ。若者だけが生きてるのじやない、老いも若きも子供すら新型コロナ禍に見舞われて感染リスクが高いし低いのだ。それを若者が自由気ままに動き回った結果だとだと言う無理解や押し付けが罷り通ったのだとしたら、社会が抱えた病〜社会問題なのだ。
さて先週の遠方よりの訪問者、今夜は電話したのは今日が2・26だから〜と語り始めたのだった。古くからの学友、大学で知り合った同い年の同じ隊列で学生運動もし又趣味的にも川釣り〜殊にヘラブナ釣りに出掛けたり読書の傾向も似通い、互いに教え合った〜、イヤ教唆して貰ったのはクマの方だろうが〜ジャズはそうでも無かったがブルースロックではエルヴィス・プレスリーの熱狂的なファンである彼氏から古い貴重なレコードも借りたし、逆に引越し間際に所有のLPアルバムや書籍漫画本やデカいスピーカーまでも預けたまんま半世紀近く過ぎてる〜交わり。
偶に電話でしか今は交流が無いのだが、話し相手には迷惑かける事もなく長々と遠慮なく忌憚のない意見を聞かせてもらい話してもいる。
私がもう疾っくに無くしたマルクスや共産主義なんかの思想的原質について、未だに学究もしてるのには驚くのだが埼玉の自宅住まいがそのマンマ人生だった彼にしてみれば、それは彼自身の全体の一部なんだろう。
私には故郷を離れて都会生活者の孤独をイヤと言う程に育みながらもソコを通り越して老いた後に帰郷して、農耕生活を主体に自由気ままな田舎モンと化しつつある訳で、彼我の間には空間的にも時間的にも齟齬を来す要因は大量にある。あるには違いないが、それでも一生を通じて同じ様な読書体験やら学生運動、趣味傾向に同年代というゼネレーション感覚が為せるのだろう、それは又別の友人でも偶に電話して来る奴でも似た様なもの。
何してる? 今はどんな本を読んでるのか? その感想は〜
それはそれで貴重なニュースどある。私らはヤハリ若い頃に、鬱屈とした社会感覚をかかえてしまったのも事実なのだから。だから、と言ってそれが他の同世代の若者だった友人らに対して偉いとは思わない。他人と自己とを分つのは自意識と自我ではあるのだから、対他者と言う存在の自分自己をヤハリ見詰め直すのは自分1人でしかない。他人に優越感を抱くのはどうだい⁈コンナ俺だって一人前に一応は大人になっちまったよ〜位な感覚ではあるが、それ以外には大したことない訳で、まぁコンプレックスが無いと言えばウソになるがそれは致し方ない人生の処方術が下手だった〜個性的な部分、偏屈者的な自己のせい、謂わゆる自己責任の結果である。
運が悪かった〜だけよ。
楽観的過ぎるか? アタマ少しネジが緩んでるのだろう。もっとピリピリと緊張感を持ちながら何事も真剣にキメ細かく計算し尽くして押し進めて行動し〜ツウのが不可能だったのだから。
長々と書き殴ってしまった。さて雨が止んで少し明るい、弱々しい日の光も昨日に似た様に又あるも、矢張りまだ春の訪れは先送り、ネットで半年ぐらい前に予約注文してたブツの発送のお知らせが来てたので、その支払いがてら出掛けてみるとする。そうそう、一昨日は出掛けなかった訳じゃない、通院したのだった。
それに本屋さんに立ち寄って雑誌や他の書籍も漁り、NHKブックスの『吉本隆明「共同幻想論」を読む』ナンテのを買ったりもした。
iPhoneアィフォンのカメラ機能がフリーズ固まってしまい使えなくなった。もう6年近くも使ってるから此奴は壊れて当たり前なのか?電池も持ちも悪くなったし新しい機種に替え時なんだが、困ったナァ〜一応はショップに寄ってみよう。

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