
今朝は気温が22度と低くて驚いたもの、明け方近くに雨音がしてたが、夜が明けたらば空は明るくなり、次第に気温も上がり出した。洗濯しようかと迷ったが10時前にはラジオは鹿児島市内に久し振りに青空が戻り〜って。食パンが切れてたので買物を済ませて昼過ぎにヤット洗濯、でも夕方からヤッパ雨予報、油断は禁物〜室内お風呂場に物干し〜
でもモウ昨日までの集中豪雨は止んだ様だけど。
▼〜今度、『海へ』『巡礼』をはじめてよみ、『夜明け前』『東方の門』をよみかえして、それら作品に屹立している文明批評家としての藤村の姿に感動した。この文明批評家というのは、日本近代のあるべき姿を、自己の生涯の凝視と重ねあわせてねばりづよく探求しようとする理想家の姿である。
『家』や『新生』の作家はどちらかといえば、わたしになじみにくい。芥川龍之介のいう「老獪な偽善者」ねちねちした鈍重なエゴイストという印象がつよい。しかし『春』で青木( 透谷 )の短い悲壮な晩年と死を描き、『夜明け前』で維新の激動期に夢敗れて狂っていった青山半蔵のような草莽の理想像を、鬱勃たる精神で刻み上げていった作家精神は、わたしの胸を打つ。正宗白鳥は、「ねちねちして歯切れが悪く陰鬱ではあるが、藤村氏の作品には博大の心と云ったようなものが何処となく漂っている」といったが、その莫大な心が、とりわけ『夜明け前』に感じられる。
〜わたしは以前、藤村は僚友透谷が斃れたあとに残した文学と思想の重荷を、どこまで背負うことができたか、いぶかしく思っていた。「自分のような者でもどうにかして生きたい」とか「心を起そうと思わば先ず身を起せ」という、藤村その人をよく象徴するような言葉を思い浮かべるにつけ、藤村という人は、透谷の精神よりは、まず肉体がみえてしまったにちがいない感想を抑えることができなかった。「世を破ろうとしてかえって自分の心を破ってしまった」透谷への、深い共感と怖れをひそめた洞察は、『春』一篇からたしかに伝わってくるのだが、それでもなお、藤村は透谷とはどこかで決定的に違うという考えを、わたしはもちつづけた。
しかし藤村は藤村なりに、精いっぱいにたたかったのだ。そのたたかいぶりは、透谷の直截な軌跡とは似てもつかぬものであったが、その「おぞき苦闘」は白鳥のいう「莫大な心」をけっして失わなかったことを、あらためて知った。ーーー桶谷秀昭『凝視と彷徨』島崎藤村ーー日本近代への回想と予見について
ここに来てやっと私も藤村のそれらの小説をそれなりに読んでみようと思った。どこまで徹底するか、かなりな分量になったそれらの著名なタイトル本を、図書館に行きさえすれば簡単に見つけられようとタカを括ってた。浅はかな自分に又もや出くわした〜『夜明け前』や『破壊』『新生』などはそれなりに程なくして見たかったが、先ず「春』の文庫本さえ無い、文学全集ものの中に一冊だけ挿入されたノが見たかった。
先ずはそれでも藤村その人を知らねばなるめぇと文学アルバムで年譜や家系図とか、あれ?藤村を知ろうとしたのじゃなかったのに自ずとそう、なってしまった。
マ、透谷と藤村の関係を調べようとした事から始まった動機。結局はそうなろうか〜
小説を読む事でそれらの関連、関係は捉えられよう。
それが今年の夏の異常な雨天曇天振りで^^^^結局はおた

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