お昼を過ぎたら少しは小降りともなったが、又今朝は小雨模様であった。始めは降るとは無しに降り出した様だが夜が明けたらばヤハリ音を立てて振った。まぁ酷い訳でもないが、この季節、冷たい雨はヤッパ身にしみる思いもする。只今の気温は17度を表示、どおりで家の内では寒い筈だ。外の方がずっと温かくて、雨が降ってなければ過ごし易いのに。最低気温は11度であったが、そんなに寒かったっけ?とも。布団の中ではヤハリそうなのだなぁ〜

この絵は誰しも眼にした事があるかも知れない。それ程に有名な写真、毎日新聞社の所蔵らしくて無断転載禁止とな。知覧の特攻平和会館のHPにはそう表示してあるが、コレは昨日に紹介した本の清武英利『「同期の桜」は 唄わせない』には無くて、『「知覧」の誕生』からの複写。
キャプションとしては、特攻機を見送る知覧高女3年の生徒たち、とある。
特攻隊は、陸軍一式戦闘機の隼ハヤブサの愛称で呼ばれた中島( 現在富士重工、スバル自動車の戦前の呼び名) 製の傑作機、戦闘機として登場したが胴体下に250`爆弾を抱いての特効出撃の図。見送るセーラー服にモンペ姿に下駄バキの女生徒らが高く掲げた手には、桜らしき花枝が打ち振られてる。
コレもしかし陸軍上層部が戦意高揚の為の策として、報道班員に構えさせたどうも作られた出撃シーンにも見える。作為が感じられるのは、飛行基地の中に何故に女生徒を招き入れたろうか?という疑問。特効作戦、その出撃は秘密の筈であり、ただ少数の、例えば身の回り身辺の世話にやってた特攻隊員が寝起きしてた旅館〜特攻宿の関係者や懇意にしてた女生徒だけが、その前日に遺書などと共にやっと知らされた程の軍事機密事項だからだ。
こんな風なお嬢さん方が大勢のお別れ会めいたサヨナラ劇‼︎ コレこそは新聞メディア用の作られた写真ではなかろうか、その証拠に、最新式の3型と思われる綺麗な機体で、後方に映る駐機中の遠景は何故か長閑な風にも見えないでもない。初期の出撃は主に未だ明けやらぬ未明が多かったらしく、こんな鮮明な真っ昼間ツウのも解せんもの。
コレは宝塚のアレ、言わば見せ物としての「特攻」そのものが象徴する様に、国民総動員令を背景にした陸軍中枢部の精神的な軍略作戦の一環と見られるものだ。陸軍省の官僚たちが軍人らと如何なる気略を通じてたか知らないが、子犬を抱く少年兵とは又ほかの意図が見え隠れする。
知覧と、万世との立ち位置の相違がハッキリと解ろう。だからと言って上下などをくだす積もりはない。

この写真は戦後に作者の清武英利が取材で発見し公表された一枚。
最左端の人物に見覚えあるのは、デジャブー!か〜アノ元総理大臣小泉純一郎の父君純弥氏。
真ん中に陣取って息子を膝に乗せているのが、万世町長の吉峯喜八郎。戦前までに幕末から明治に掛けて遂には南九州での海運業から他多くの地場産業を起こして名を馳せた旧家の丁子屋の当主。政治にも君臨したは日本全国どこにも見られたものだが、後に防衛大臣となろうとはまさかこの時から運動してたとは思えないけれども〜^_^
清武英利によれば、「1942(昭和17)年、丁子屋の11代目当主吉峯喜八郎の私邸を4人の男が訪ね〜真珠湾奇襲の翌年。吉峯は34歳で万世町長〜サーベルを吊るした陸軍将校〜万世小学校出身の民政党代議士・小泉純弥」や、後ろのご婦人方は喜八郎の妻ヒロと接待した手伝いの親戚とか。

この万世特攻平和祈念館、単にメモリアルでもなく【祈念】の館ヤカタとして当初は、苗村七郎氏が私財を投じて戦後には忘れられてた万世飛行場跡に若き特攻兵の英霊を祀ろうと祈りの為の慰霊碑を打ち立てた結果でもある。

0