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大晦日の除夜の鐘が鳴り出す頃に、誘われて何度目かの初詣は鹿屋市打馬の春日神社へ。
近くには相応の由緒ある神社としては、上祓川カミハライガワの瀬戸山神社か吾平山上陵系の田崎神社が存在してるのだが、まぁね、真夜中に酒も入ってるし〜小暗い中を人々が三々五々にお参り祈願しにやって来て〜紅白の小餅に御神酒を一杯頂いて帰った。
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建御賀豆智命(タケミカズチノミコト) 伊波比主命(イワイヌシノミコト) 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 比賣神(ヒメノカミ) 由緒 建暦元年辛未、伴兼廣が鹿屋弁済使に任命された。当時鹿屋院と称され、島津庄の支配を受けていた。同年八月四日、兼廣の部下の藤原忠吉が勧請して社殿を造営した。
ここも奈良の春日大社を総本山とする系列なんだろうか、にしては大した社格も見られないのは創建が割と新しく江戸の中期とか、モウ薩摩は島津の車輌の鹿屋院の支配下で、地域的には高隈山の麓を百引モビキ方面へ抜ける高隈タカクマ郷手前迄の、祓川流域界隈の集落から信仰を集めたか。
その辺は詳しくは解らないけど。
でも祓川は上中下と3つの方限ホウギリに別れて、その下手下流域には打馬や大手町に本町などと郷士(下級武士)や町民らが田んぼや住まいが広がる中にポツネンと位置する無格式の神社。
上祓川町の瀬戸山神社は延喜式にも相当するらしいので、山岳信仰の流れで神様は違うけれども、士族中心に代々続いてきたのだろう。
この境内にも観音様を置いて又系統が異なる信仰の風習が見られ、それは明治の神仏統制の以前から有った神仏混交というか、いずれ精神的な安寧と平和を願った素朴さの現れだろうか。
厳密厳格には異なる風を伴に祭り上げることの大らかさが偲ばれる。
御祭神のタケミカズチノミコトは、阿蘇の農耕神と開拓精神や武運長久を祈るものの融合も伺わせられるのは、ヤハリ打馬と言う地名から下級武士らのひたすらの信仰の表象か、年貢(税金)の米作りを中心に田畑を耕して食い扶持を増やさねばならぬサムライ中心の生活。その下層の民百姓らも寄り集まって密かな精神的な支柱として考えられたか〜

今年の干支はトラ、寅年と云うことでミニカーは又アレコレ考えたのだが、直ぐに出てこないので適当に見つかったチョロQで珍しくパ・リーグで優勝を飾り大喜びの阪神タイガースの優勝パレード車をば。
お子さま向けにはドリームトミカってシリーズで、しまじりうカーなんてぉのも有るんだがね。

年賀状には寅年の福を呼ぶって意味で〜蕪村句の適当なノを物色、しかも蕪村の俳号ならぬ画号、
謝寅シャインと読ませるのを知ったので。
鰒フグは福に相通じていて、その皮や内臓等に猛烈な毒を含んでるのだがその魚毒に当たれば、当然にも七転八倒の末に死んでしまうもの、それをチョビッと舌舐りして微毒の舌が痺れる程度の感触スリルを味わうアホ馬鹿の気持ち〜解らんな。余程のヒマ人かヤッパ奇人変人よ。
でもマァ古くからヤハリふぐ鰒を喰う習慣は有ったらしいのが良く判る、解る〜(笑)
新年は穏やかに訪れた。外気温は零下2度を記録して庭のバケツには氷が貼ってたが、朝日の温もりで優に10(土)近くへも高まって来出した。
皆さま方、良いお年を!

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