
朝から雨、昨日の予報が当たった。
庭に放り投げてた段ボール紙屑類をビニール袋に仕舞ってたから晴れたら焚き火で燃やそうと思ったからヤレヤレ。外はやや温い感じだが家中はジッとしてるとやはり冷え冷えとしてくる。ストーブを夕べから焚いたところ。その前に感づいたのかどうか?体長10cmオーヴァもある真っ黒な百足ムカデのお出まし‼ 寒くなると出現しないと思ってたが、豈アニ図らんや〜^_^ 雨予報にでも気付いたか。手元にあった生前のお袋愛用の20数cm程の裁ち鋏を使い、頭と胴体と尾部をチョキンチョキってやっつけたのだった。この家は杉の木立がそびえてるからか昔から毎年悩まされてはいたのだが、流石に薄気味悪い。まぁそのかみ、甲斐信濃のある衆は金鉱目当てに重宝して敬ったらしいが、古代からこの地大隅半島にはシラミとムカデが多かったとか文献にも出ている。←古事記大隅ハヤトの項。何が嫌いかと言えばヤハリ毒虫、アブや藪蚊もそうだが、ヤッパかさこそニョロニョロの類はヤだね。最近は蝮マムシが見ないから良い様なものの、ムカデは家の中にまで入り込んで来る厄介モノ、1匹居ると必ずモウ1匹も〜とかだが、今年はベッド周りで5cm足らずノを夏に退治、台所と洗面所でデカいのを各1〜とか必ず徹底的に殺しているのだが、何処かに隠れてるあばら屋。困ったモンだ〜未だ噛まれてナイ、噛まれたくない!
その百足、と言う姓のお方も居るチウから世の中は不思議だ。滋賀近江がルーツらしく、あの天智天皇が藤原鎌足の家系に与えられたようだ。日本で一番多い所は東北は宮城県らしい。流石にムカデさんじゃない様で、モモタリさん。でもそうは易々とは読めない難易度高い呼び名でもあるし〜
さてさて、本題の七面鳥の森の話、それはご覧になって貰えれば良かろう。国立国会図書館にもデータが上がってるからちょっとした図書館でも探せる方もおもわれる。中での2、3の事柄に注目したので又もや引用から。「白い崖」というタイトル。半分にも解説あるが、この大隅半島一帯や南九州独特の地質土壌のシラス台地の突端の火山灰層の事だ。池田湖や喜界島火山灰層よりももっともっと古い時代、今では鹿児島湾奥の桜島を取り巻く姶良カルデラ海底火山辺りのおよそ2万5千年位前の大爆発噴火による火山灰はしいと研究発表されている。
そんな古い地層が鹿児島県ではどこに行っても見られる。岩がなければ正しく白い崖だ。
▼〜シラスの崖下に横穴防空壕が掘られはじめたのは、昭和20年が明けてからだった。それまでは各戸の庭隅に縦穴を掘って、板切れを申訳程度に張り渡し、その上に土を盛って偽装した防空壕をお飾りのように備えていた。敵機が上空に飛来し空襲警報のサイレンは鳴り響いても、爆弾を落とす気配はまったくなかったのだ。はるかな上空をゆっくりと過ぎ去ってゆく敵機が曳いてゆく飛行機雲は美しく、地上へ落ちてくる轟音ののどかさも手伝って、敵機来襲に備えるといった緊張感はなかなか湧かないのだった。高空を北へ向かってゆうゆうと飛び去ってゆく敵の飛行機は、さながら戦争の点景のように人々の眼に映った。
〜首都が爆撃を受け地方都市へ戦禍が及ぶようになると、高度を飛び去っていたB 29の代わりに、航空母艦から飛び立った艦載機がやってくるようになった。小型の艦載機は敏捷な怪鳥のような素早さで、低空をかすめては機銃を掃射し薬莢を点々と投下していった。恐怖が走った。
〜まず西南部に位置する航空隊の基地が狙われた。すでに沖縄を攻略しつつあった敵の艦隊は、夥しい艦載機をこの本土の南端に送り込んだ。黒い群鳥のような艦載機は半島の東の湾から上陸すると、低空にバリバリと機銃掃射の音を響かせて西の空へ飛び去った。それはまったくあっという間の来襲で、警報のサイレンも間に合わず、機銃の発射音に驚いた人々が逃げまどうと見るや、艦載機はすでに機首を取り直して上空へかすめ去るのだった。
〜艦載機が飛び去ると重厚な爆音を響かせて爆撃機の編隊がやってきた。編隊はまるで鳥の糞を落とすように、航空基地に爆弾を投下していった。爆弾の破裂する音が間断なく響いた。
子供心にそんな光景を祖母や母などが話してくれたのを思い出した。敵機は群青色に白い星のマークの米軍機で、グラマンと言われた。厳密にはグラマン、コルセアなどであろう。その若い白人パイロットの顔さえも判る位に我が物顔で、から芋畑や民家さえも追い回し打ち壊して行ったらしい。まぁ日本軍も中国大陸では初期の制空権があった時期には似た様な戦争をやってたのだけども、この様な戦争の時代を知らぬ私ら、もう70才となったが、その上の一昔前の世代が恐らくは作者福島正實さん達であろう。記録映画や映画などでしか知らない地上を逃げ回る人から見た戦闘シーン、やはり恐怖の絶頂に極まれよう。
シラス崖の横穴防空壕はこの近くにもよく見られた、良くもこんなに大きな穴蔵を掘り抜いたものだとも、今では思い起こされる。相当の人間力によって掘り進められたのだろう、その中で雨の日にはよく子供らは仲間数人で松明タイマツを作って燃やして灯して遊んだものだ。
場所によってはダイナマイトか爆弾か知らないが導火線の残りもあって、ソレを鉛筆キャップに詰め込んでロケット遊びもした。自慢したくて学校でやり出したらば、教師に見つかり問題になって叱られてブン殴られたりしたものだ。
ヒコーキが大好きで模型を作ったり描いたりよくしていたが、それとコレとはヤッパ位相が異なるのだが、イザその悲惨さを告げられると面と向かって、飛行機はカッコイイなぁ等と口が裂けても言えないのは確かだ。
どうした訳か幼少の頃には風邪をこじらせて発熱して寝込んでうなされると、決まって空の上から爆弾が雨アラレのように降り注ぎ出す夢を見たものだった。燃える風景が辺り一面に広がって恐怖のドン底に居て泣き叫び逃げ惑うオイラ〜落下傘が降りてきてバァッと開いたらハッと目が覚めて、母親に揺り動かされながらグッショリと汗をかいた身体を拭いてもらってた。それが1度や2度ではなかった、恐らくは母親の胎内で授かった母や父の恐怖感の心象遺伝なのだったかも知れない。
その父は鹿屋の海軍航空隊の基地防衛の陸戦隊で、水陸両用戦車に乗ってた単なる上等兵。
終戦で除隊命令が降りたら、皆で基地内に備蓄されてた将官連中用の立派な食料やら何やら持てる物は何でもリュックに詰めて逃げる様に母の居る実家へ帰ったという。いわゆる横領行為に近いのだが、戦争に翻弄された青春の犠牲者の一人でもあったろう、生きて帰れただけでも良かったろうに、基地を出る寸前に上官らしきに拳銃を突き付けられたらしいが、何しろ1人や2人じゃない、皆んな点でバラバラに走り出したらしくて逃げ延びたらしい。その士官など将校らがどんなに下士官や兵隊などとは違った軍隊暮らし振りだったかも、ストーリー展開されてる。
長くなった。まだ雨は降り続いている、でももう夕方だ、やや小暗くなって来た。そろそろ今日のヘルパーの時刻、またの機会に書き殴ろう〜

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