
こちらは欧州はオーストリアの画家エゴン•シーレの絵。
昨日の村山槐太と似た様な言わばエロチシズム溢れる豪放磊落な図柄でもあるのだが、怪奇趣味やら昔流ならば同性愛趣味で片付けられもしよう。
精神病理学的にはヤハリ病的な傾向が絶頂期へと昇り詰めた鬼気迫る画風でもある。観る人を選ばせるもので好悪も分かれてしまい、しかも一部の人々には政治的倫理的な道徳観念を強制せしめて強迫をも催してしまう。
それでもコレが芸術だ!と又一部にも爆発的な精神の解放や自由奔放な青年の性の解放や発露を意図した直截的でコレこそ情熱的な芸術作品として表現されたと主張するものだ。
題してマスターベーション、まさにその行為の場面。脚色その色使いは定評のあるものだがヤハリ卑猥さを表現して余りある。ソレが何だい⁈って観る者に訴え掛ける。見たく無きゃアッチヘ行け!お前なんかクソ喰らえっとはわかりだ。そんなは態度の険しさが世の道徳的な宗教的な倫理的な、或いは政治的社会的不評を買ってしまった。
前の村山槐太の作品は放尿する裸の若い修行僧、そのホトバシル源泉に黄金に光る男根が描かれてもいる。世界広しと言えどもコンナ絵図などお眼にはかかれない、誰も触れない秘図でもある。言う所の破戒僧振り、禁欲を犯してまで仏門を汚そうとするかの意図があったかどうかは知らないが、明治でもない、昭和でも無い新しい時代の若者等の生き方だったろうか?まだよく調べてないから不明だが学生時代に既にその夭折の画家の不幸は聞いてはいた。
それが今頃になって又ぞろ思い起こされたは、この画家らが揃いも揃ってホボ100年後の新型コロナの感染症パンデミック到来によく似た、そう、1918〜1920年にかけてのスペイン風邪の地球規模の世界的大流行、2人ともこのインフルエンザの犠牲者であるからだ。

1918年と言うと我が国は大正8年、ちょうど私の母が生まれた年である。幸いにも当地でもコロナと同じ様に大した被害が出て無かったかの世相、それが恐らくは私がこの世に生まれ得た秘め事の一端にもあるのかも知れない。
この絵はそれこそ真面目な画学生としても見える極普通の作風で、緻密なリアリズムが徹底している。前の放尿スタイルの聖職者みたく奇抜な内容、精神の内面から噴出するかの表現の威力は微塵も感じられない。けれども重厚な趣きはしっかりと備わっている。
しかし、その天才も感染症には勝てなかった。残念ながらら〜

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