
歌集『かりそめ』(昭和26〜37年)
これは私のメモからのタイトル。斎藤史(さいとう・あや)は年賦が手元にないが、全歌集も入手してないので不明な点が多いが、偶々所蔵の歌人塚本邦雄の『花隠論ー現代の花伝書』(読売選書27.、S48刊)が手掛かりかと探ってみた。
即ち第一歌集『魚歌』なる歌集について言及せねば戦後のコノ『かりそめ』に対して失礼だろうとも考えたが、時間かない。余裕も無いので、先ずはメモに抜書きした短歌数首、以下に羅列する。
★水鳥の胸におされてひそやかにもち上るとき水は耀カガヨふ
★もてあそぶこのひと片ヒラは天ぎらし降りくる雪の中のひら
★馬いななけば北の原野に置きて来しわが童女期の花ゆれるなり
★鳩一羽わが屋根に堕ち死にしよりつねに底ぬけて青き射程
★弾痕がつらぬきし一冊の絵本ありねむらむとしてしばしば開く
年賦、明治も終わらんとする一歩手前に生まれて陸軍少将を父親に持つ故に、その父親を敬愛する部下の青年士官らとも親交は深くなった。即ち〜
▼〜父は、陸軍少将で佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった齋藤瀏。
17歳のとき若山牧水に勧められて作歌をはじめ、18歳から「心の花」に作品を発表するようになる。
1931年、前川佐美雄らと「短歌作品」創刊。
1936年の二・二六事件では、父を通じて親交があった青年将校の多くが刑死し、父も事件に連座して禁固5年となる。
この経験が、生涯に渡っての文学的テーマとなる。
青年将校の、栗原安秀・坂井直 両中尉とは、旭川時代からの幼馴染であり、栗原の事は「クリコ」と呼んでいた。また栗原は彼女を「フミ公」と呼び、改まった席では「史子さん」と呼んでいた。
1939年、父・瀏が主宰する歌誌「短歌人」創刊に参加する。
1940年、伝説的な合同歌集「新風十人」(八雲書林)に参加。
同年、第一歌集『魚歌』を発表。モダニズム文学の影響が濃い作風で、萩原朔太郎に激賞される。
大まかな戦争前迄の事柄ながら、〜1945年、父の故郷である長野県安曇野に疎開〜後は定住の地とし信濃の自然や風物などを生涯に渡り愛した。
私は魚食が好きだし魚釣りも大好きなのだが、彼女の処女歌集の名が『魚歌』とはネェ〜(^^)
▼〜歌集名「魚歌」は、「魚歌水心」(魚は深い水の心を知らず、いい加減な歌を吐く)という成語に由来する。1932年から1940年までの作品が収録されている。表現技法は、モダニズム的な象徴表現と伝統的な写実表現が混在する。内容は、西欧趣味的なもの、二・二六事件に関わるものなどがある。しばしば引用される歌に次のようなものがある。
★ はとばまであんずの花が散つて来て船といふ船は白く塗られぬ
★遠い春湖(うみ)に沈みしみづからに祭りの笛を吹いて逢ひにゆく
★濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
★額(ぬか)の真中(まなか)に弾丸(たま)を受けたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや
二・二六事件、別名で「昭和維新」としても後世に伝説的な軍事クーデター。陸海軍の青年将校等と国家社会主義を理念標榜した思想家北一輝や西田悦等民間人とが天皇陛下を頂点とした国家社会革命を帝都の近衛師団を率いてクーデターを起こしたもので、腐敗した政財界の要人など銃殺か斬殺もし皇居の占拠まで目論んだが、当の天皇処断は叛乱軍呼ばわりで結果的には軍当局により鎮圧された〜という。ほぼ全ての主要な青年将校らと北などは満足な裁判さえも受けられずに半年から一年後には銃殺刑に処せられ、命令されて出動した近衛師団の歩兵らも全てが遠方や地方部隊へと転属配置転換された。
上の3、4首目はその処刑された青年将校らへのオマージュなりリスペクトであるのは歴然としてる。更に〜
★花のごとくあげるのろしに曳かれ来て身を焼けばどつと打ちはやす声
★暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
★天地にただ一つなるねがひさへ口封じられて死なしめにけり
★天皇陛下萬歳といひしかるのちおのが額を正に狙はしむ
▼〜昭和11年は「濁流」一連がその作品のすべてを占めている。所謂「二・二六事件」の顛末についてのその劇作者が傍観者でなく、直接その渦中に在っただけに、読者をひきつける生々しい迫力をもっている。又この種類の、事件報告を主眼とする他の人々の作品とやや対蹠的に「濁流」は単に写実的なルポルタージュは殆ど含んでいない。少々大袈裟な言い方ではあるが、ーー内面的独白、心象風景を一種の象徴技法で非常に間接的に表現している。それが「濁流」の著しい特徴であり、作品そのものの価値とは別に、より特殊な印象をあたえる効果をもっているようである。
★羊歯の林に友ら倒れて幾世經ぬ視界を覆ふしだの葉の色
★あかつきのどよみに答へ繍きし天のけものら須臾にして消ゆ(繍は口偏に粛)
このような表現方法は、勿論作者が過去にくぐってきた、サンボリズムの影響等も少なからずあるに相違ないが、それよりは寧ろ、「おそろしや云ひたき事も申さずろーー」という言葉通りの、当時の政治的社会的情勢が、無理矢理に、必然的に作者に婉曲な態度をとらしめたと見るべきであろう。
「濁流」「羊歯の林に」「白い弾道」「天のけもの」「はびこれる夏草」等々の言葉が何を意味するかは自ら明らかであるが、当時としては他の表現方法をとれば当然伏字をやむなくされたであろう。〜〜塚本邦雄「蝶に針ーー斎藤史覚書」
その戦争遂行の後に疎開〜敗戦と一連の国家社会の著しい変化が全国民にも及ぼしたのだが、冒頭の歌集『かりそめ』はそうした経緯の後に成立した。
本能的な女流歌人としてこれから成長してゆく時代。多感な少女期の快活で溌剌とした表現方法が、より人生の重みを蓄えて開花へ向かう。
塚本邦雄の嘆きは斎藤史の叛乱軍に加担した将軍の娘、という宿命的な「評判」を脱皮して定型詩としての短歌形式の短詩型文学を確立するか否かを問うていた。
それは勿論、ギョギョギョのギョ〜の第一歌集『魚歌』への絶賛をも含んでの嘆きだった。つまり、「濁流」だけが奔流の様に絶唱とされるもそこに本流が形成されれば、斎藤史は天皇陛下をナイガシロにした非国民の烙印〜汚名を永久に返上し続けるに過ぎないのかも知れないと。それでは文学への昇華は希薄に成りかねない。
そうした危惧はしかし杞憂に終わったようだ。以下、次の項目へ続く〜

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