
鹿屋市の中祓川は川東の田んぼの真ん中に小高く方形に土盛りされた台座を持つ田の神像、18世紀頃から薩摩島津所領の地域で独特の石像が農耕神として崇められたものの1つである。薩摩、大隅、日向とその範囲は前述の大名島津家の支配下の荘園や郷村に点在していて、又宮崎県では一部他地域へも拡大したらしい。信仰の農民的性格や習俗とかはその地域毎に特異な形や意義も有ろうが、ココ川東の田の神像に刻まれた文字を読むと、この石像が造立された詳細は皆無だが、意味は天変地異への畏敬の念とが先ず先ずあって現在から将来に渡る豊年満作への希求が込められたのは当然に考えられる。
「奉寄進」とのみ刻まれた意思が過酷な島津門割(かどわり)の石米(こくまい)収奪体制は、素朴な農民お百姓の精神面での拠り所としての祖先信仰や地域習俗の精神面への支配をも彼らの生活の隅々まで行き渡らせようとした。
百姓は生かさず殺さず〜の掟、それが逆にある意味では古くからある浄土真宗〜一向宗の信仰にすがる精神的な救いを求める意味合いを持つ形で、こうした石像の田の神信仰にも具現化されたかも知れない。当時の地主と小作人関係が良くは分からないが、太平洋敗戦後の米軍占領軍GHQ指令による農地開放策まで、耕作関係の上下収奪関係は続いた。地主と小作人関係はそのお屋敷を中心にして家族や親族をも巻き込みながら遠縁も含み広がり地域の血縁と地縁がない混ぜになって曖昧な村落共同体を育み、ある意味では大らかな支配〜被支配関係を構築構成していた。
だから寄進者自体は中方限の郷村を構成する各地主等であったかも知れないが発起人や関係者が協議したらしい結果が、記名を避けたとも考えられる。
誰に対しての奉寄進なのか?それは、遠方から寄り来る「天」の神へ向かったのだろう。
この事は当てズッ方、独断と偏見でしかない。
けれども、中方限(なかほうぎり)の部落の共同体の名称を郷名として刻みつつ、それが「安永子九年 十二月吉日」と読める時刻は、その前年の火山桜島の爆発大噴火の1年後、他の記録から読み取れるその火山活動の影響は遠く四国の地でも轟音は聞かれたという位に壮大なスケールであったようだ。

「両山腹から溶岩流出−とび交う流言」安永8年10月1日は,朝から浜辺の井戸水は沸き上がって流水のようになり,海水は紫色に変わっていた。午前11時ごろ,遂に南岳から白煙が上がった。午後2時ごろには南岳の下の部分,有村の上にある燃之頭と呼ばれる辺りから黒煙の大噴出が起こった。その高さは上空3里ばかりと思われた。大爆発音とともに,噴煙の中には無数の電光が走り,噴火の勢いはますます盛んとなっていった。午後4時ごろになると,高免村の上にある瓶掛と呼ばれる辺りからも噴火が起こった。噴火による鳴動はますます激しくなり,翌10月2日の早朝には,二俣村まで噴石が落下し始めた。垂水方面を襲った噴煙は,10月3,4日になってようやく薄らいできた。鹿児島城下への降灰もひどく,4日の午前10時から午後2時過ぎまでは,暗夜の状況になっていた。鹿児島城下では,「鹿児島まで火勢が及ぶぞ」「飛び石が落下してくる」「津波が押し寄せて来るぞ」などの流言が飛び交い,住民の恐怖感は募るばかりであっや。そして,鹿児島の城下は屋上、樹上を問わず降灰に覆われたが,東南風が吹かなかったため,被害は少なかった。しかし,風下に当たる垂水・牛根・福山などは噴石や降灰のため大きな被害を受けたのである。この時の噴火で,桜島はその北東部と南側の両山腹から溶岩を流出させた。また,軽石も大量に噴出したため,桜島の東側から南側にかけて,2〜3メートルの厚さで堆積し,耕地はすべて埋没した。( 出典:『かごしま文庫13桜島大噴火』)
安永8年10月に始まった火山活動はその後3年間、世も改まり天明元(1781)年にかけて続き、火山の麓は言うに及ばず九州ほぼ全域、中国四国地方へも降灰報告があったらしい。
この安永年間の世の中の動静は、まさに苛烈を極めていた。即ち、世に言う江戸時代最大の大飢饉、天明2年(1782年)
-天明7年(1787年)と打ち続く飢餓地獄が待ち受けていたからでもある。
人々の多くが桜島大爆発噴火の様相を見受けて、生活スタイルの変更を余儀なくせられたものの耕作地に縛り付けられた百姓は逃散もままならず、食うや食わずで朝も暗い内から田畑へ出て夜も日が暮れた後にボロ屋へ帰り、といった最低限の農奴的な状況が続いたと思われる。
台風や豪雨、洪水や旱魃、疫病な害虫などの自然災害も他には多々見られたのだが、ここでは桜島大噴火との関連にだけ的を絞った。
たぶん、恐らくはそんな中でこの田の神サァへの思い、と言うかの素朴な信仰が精神的な支えとなり、又村落共同体社会の拠り所として、年に何回かのお祀りを祭る、田の神サァの周りに集い飲食を共にしながら歌い踊った、そんな習俗がつい戦前までは行われてたと言う。
この様な大規模な施設を組めるチカラを持った強力な共同体が有ったればこそ、その後のうち続いた甚大な大災害や大飢饉にも耐え得られたとも考えられる。
( この顔や手足〜足は元々無いが〜を打ち壊された明治の廃仏毀釈運動に寄る傷跡は今もそのまんま、それも1つの歴史)

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