▼名曲「神田川」の作詞家・喜多條忠さん死去、74歳…南こうせつさん「大事な戦友失った」 (読売新聞)
〜作詞家、喜多條忠(きたじょう・まこと)さんが11月22日、肺がんで死去した。74歳。
大阪府出身。早稲田大学入学後、学生運動に飛び込み、大学は中退。放送作家をしていた時、南こうせつさん率いるフォークグループ「かぐや姫」に詞を提供。
「神田川」「赤ちょうちん」「妹」を大ヒットさせた。特に、「 貴方あなた は もう忘れたかしら」と歌い出す「神田川」(1973年)は、自身の学生時代の体験をもとに、3畳一間の下宿で 同棲どうせい する男女のささやかな暮らしを描き、共感を呼んだ。「小さな 石鹸せっけん カタカタ鳴った」という映像を喚起させる一節もあり、名作として歌い継がれている。
青春のほろ苦さを表現したフォーク、恋愛の機微を描いたポップス、日本情緒に彩られた演歌と、その作風は多彩で、幅広い世代から支持された。
ほかの代表曲に、キャンディーズ「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」、梓みちよ「メランコリー」、柏原芳恵(当時・よしえ)「ハロー・グッバイ」、山内恵介「スポットライト」など。小説も執筆していた。 日本レコード大賞作詩賞などを受賞。2014年から20年まで日本作詩家協会会長を務めた。


貧乏学生だった頃だから発祥は知らないが、多分ラジオから流れたのを聞き覚えたのだろう、日本のフォークソングの代表曲ともなった、この南こうせつとかぐや姫のヒット曲。
確か、映画になったのは「妹よ」の主題歌方だったか〜
3畳1間の安アパート、コレばかりは私ゃ勝ったね〜4.5畳だから四畳半なのだ、男おいどんって松本零士のマンガ代表作デモそれが一般的だと思ってたけども、中にはヤッパタッタ3畳の1部屋住まいの猛者も居られた。それは恐らくは交通至便テ理由かしら、私なんか杉並は当時は山の手〜下町じゃないけども、駅から歩いて優に30分もかかる、名ばかり都区内の郊外なのだ。辺りにゃ白菜大根畑が広がり冬になれば霜が降りて青梅街道沿いの欅の枯れ葉や銀杏の黄色い落ち葉を踏みしめ、或いは骨だらけになった梢の空の向こうから北風の魔神に怯えながら駅への道を歩いたものだった。
同棲時代って漫画も大当たりして、しかしその同棲を通り越して元は米軍士官の平屋住宅を一軒丸ごと借りきって共同生活を始めた友人らが居た。
風呂付き!ホントこれに憧れたもので、洗面器を持って銭湯通いの私らにゃ天と地の差、そんな悠長な時代もあったのだがヤハリ居ながらにしてベッドからスッポンポンの裸のまんまでシャワーを浴びる!って映画みたいな光景、楽しげにしか見えなかったもの。
〜後にコンナ私でも真似事なんざやってたのだが、それはもっと後のこと。
高度経済成長の波はのんびりしたソンナ泥臭い風潮をも呑み込みながら、日本列島を田中角栄ブルドーザーかダンプカー張りの土方旋風が席捲していった時代。
あれも朝鮮戦争時の好景気振りをもっと上向いたヴェトナム特需かしら、オリンピック万博なんざカンケー無しに景気は右肩上がりであったらしい。らしい、ってのは私にゃソンナに恩恵は被らなかったからで相変わらず職を転々としてた。
20代後半には学習塾の経営をしてたが、それも生徒不足で通いの収入トントン、結局はサラリーマンお気楽を決め込んだが良いか〜とぞ詰まらん場末の印刷工場の新聞で募集広告を探して飛び込んだ次第、そこも又ぬるま湯には違いないがサリトテ天国じゃない、単なる徒労の日々を繰り返したに過ぎない。
あ、私的な与太話を書いてしもうた、世の中が好景気へと上昇し続けた時代もあったのだ、ツウ時期のメロメロでズブズブな愛情物語、そう書けば良かったかも。若者がドンドン社会人となって会社人間〜企業戦士として日本の社会経済を世界の表舞台に踊らせた前世紀末期近く、そんな時代もあったのだ。
さてと、朝からコンナ想い出に浸るようじゃダメだな〜コリャ。
外は師走の冷たい風に晒されてたが陽はとっくに昇りきってる。開け放ったカーテンの窓ガラス越しに背中を焦がすかに陽の熱射を感じる。
さっさと野良仕事の総仕上げへと取り掛からねば〜(笑)
昨日は試しと半分のカライモのツル苅り、穴堀。半分近くは霜除けに土中に埋めて貯蔵しようかなぁ〜、大した収穫じゃないけれども、来年の種芋として保存せにゃならん。
藁束を貰うのを忘れてしまったが、籾殻モミガラでも良さそうで先ずは芋の採り入れ、それからだ。

0