
昼を過ぎても陽は射さず、酷く冷たい北風が吹き曝してた。天気予報でも強風だらけ。けども雨雲の来る気配は示されてなかったが、所々には青空さえ見えたが霰雨か霧雨かが散らしたり、知らん間に通り雨みたいなのさえ降ったらし。
倉庫の段ポール箱と格闘してたし、驚いた事に居なくなってた飼い猫の死骸と大きな鼠らしき?〜も骨だらけになってて転がってた。
コンナ寒いコンクリートの床の上にその死骸を曝してたとは、可哀想な事をしたなぁ〜と念仏も唱えながらも庭の片隅で荼毘に伏すことにしたが、一時は止んでた風が次第に荒れ模様にもなったり、また弱まったり〜雨さえアンナ風にチラ付いたり、まだ沢山燃やす物もあるので良い日を選んでから燃やそうかと。
風は夜になっても増すます荒れ狂い、雨戸や軒端を叩いて時に唸り声さえも挙げて通り過ぎてゆく。
新年早々の凩木枯し〜かも。多分にお山の天辺なんぞ積雪だろう。
冷たいからカジカム手にはライダー用の皮手袋で段ボールと格闘した。
引っ越したマンマの中身の点検作業、なかなか遅々として進まないのだ。
書類ファイルに収まらない程の纏まったコピー塊を発見した。本のコピーらし〜
タイトルや著者名が解らない、〜のでベッドにお持ち帰り。
内容や文体で作者だけは考えられた、女流の竹西寛子その人の随筆とおぼしき〜
▼凡そ十年のわらひは三年のうらみに化し、其ソノ恨ウラミは百年のかなしみを生ず。
〜同門で年下の俳人内藤丈草の死に寄せた「誄ルイ」(死者生前の徳行功績をたたえる文)の一節で、記される通り、二人の間にはほぼ十年の親交があったという。丈草が初めて芭蕉に会った時、その身はすでに法体であった。芭蕉は逸早く丈草の才に注目し、期待を寄せている。
丈草の死の報シラせが去来を打つ。丈草最後の庵となった、あの琵琶湖を見下す仏幻庵に、一夜の閑をぬすんで宿り、句を詠み詩を吟じ、笑い明かして別れたのは一昨年の秋、三年の無沙汰がまさか永別になろうとは。
幾度か丈草の庵に上がり、丈草も杖を抱えて酪柿舎の扉をたたいてくれた。この無念。この悔恨。年下の友への情にも敬愛を欠かぬ篤実の人が、「百年のかなしみを生ず」に足擦アシズっている。
▼をしみてもなほ名残りをしく、この一句を手向けて、来し方行く末を語り侍ハベるのみ、
★なき名きく春や三とせの別れ
「丈草ガ誄」はこの句で終わっている。
丈草没の宝永元年(1704)、去来もまた不帰の人となった。去来の墓は落柿舎のすぐ後ろ、二尊院への路のほとりにある。
うん、きっと竹西寛子の文体である。細やかな人間への愛情が行き渡っている。
蕉門十哲の二人、丈草への去来の深い慈しみが悲しみを際立たせるかの又慮りがそこはかとなく見える。
「誄ルイ」ねぇ〜ついぞ忘れてた言葉、古典や日本語への造詣が部外者女流の嗜みますが出てる。
先だってアノ小説家開高健への追悼文集、タイトルは悠々として急げ、だったが、それを読み終えた後だったので、ついつい引き込まれてしまった。
『人間臨終図鑑』等とそのものズバリの本もあるのだが〜
アレやコレやら色々雑多に読み漁ってるものだが、それでも何かしら関連がましいか。
『子どもが登場するとき』などチウのも発見、仏蘭西フランスの前世紀の精神分析医の心理相談が克明に記されている。
また若くして死んだ私の友が生前に買い求めて読んだらしいペーパーバックスさえも見つかった。美しいお姉さんがクマにコレ、コンナ本をタケヲが読んでたらしいのにねぇ〜貰ってくれる?って涙ながらに渡してくれたのだ。
まだ外は荒れてる。寒い冬の夜だ。

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