
段ボール箱の隅から出てきた一冊、何とか記憶のある新書本〜「京つけものの大安ヤオオヤス」の包装紙を表装された一冊、書店の実用書コーナーに良くあった類いのソレなのだが今はどうか知らね?心理や医療関連か?〜グジョンソン博士の『ハッピーな心になる本』〜すべてが楽しく見える法、と題された小さな本だ。
神奈川の湘南高校を出て京都の同志社大学へ進学して、活発にサークル活動をこなして京都市内の有名メーカーに就職内定を貰ったが、何故かそれを蹴って卒業後、関東へ。篤実な両親の元から初めはアルバイトだったが最終的に某大手企業の横浜支社に就職、その間に高校の旧友を通じて知り合ったクマとも仲良くなり交友が育まれた。
神奈川と東京、多摩川を越えなきゃ行き来できないがマァ良く遊んだものだ。
確か未だ私が学芸大学の区立図書館の前付近の小さな古い神社の真ん前のアパートに暮らしてた正月明け、その後輩に当たる友人と連れ立って訪れて来た精悍な格好の少年、そうその当時は彼我共に未だ初々しかったのだ(笑)
高校の陸上部で鍛え上げたスプリンターだった、と。紹介した後輩友人は柔道部で同じ様に中学高校と道着を汗まみれにしたクマだったし、何よりも彼の姉さんが私の先輩その縁で私たちは知り合ったのだ。友達の輪!って後にエンタメとなる名コメディアンのタモリが番組笑っていいとも、でも広まった概念(笑)
その晩から意気投合してずっと交流は続き、それから数年して何だかんだあって後に私は結婚して、翌年春に突然の転職表明、また関西に戻ると告げられた。
それが、結局は永の別れとなろうとは愚かなクマには思いも寄らぬ一大事だった。
何故か、どうしてなのか?その若き友は沢山の思いを一人で呑み込んで、転職先の岡山のアパートに僅か3日4日〜翌日の週明けから初出勤という日曜日の朝未明にタイマーをセットして、一瞬にして自裁して果ててしまった〜
炬燵の上に残された日記代わりの大学ノート2冊、その最後の頁に小さな文字で遺書がわりの挨拶が書き込まれていた。
電話をくれた彼のお姉さんがクマにそのノートを見せて貰ってくれと渡してくれたので、手紙ハガキ類と共に今もコピーして手元にバインダーしてある。2通コピーしたので京都同志社の友人氏に後に手渡したのだが、その彼とはいつの間にか交信も途絶えた。
詩人の中原中也が書いた、〜さらば、おぉわが青春!と感嘆した京都関西の空間には、また格別の想い出が創られた訳だが、それはそれで勝手な私の感傷でもあるが事実でもある。
そして葬式も終えてから又この一冊を手渡されたのだった。
何とかして彼も苦悩の末に生きようとしてたんだなぁとは思うし、何度か酒に酔っては茶化す様に死にたい時にはイイ方法を教えるヨっとダベってたのが想い起こされる。自殺の本が密やかに出回ってたのだ、彼も見知ってたし、それは又そのお披露目をする本人の
「意思表示」でありSOSだったのかも知れない。
私はそれに良く応えられなかった、その意味で人間失格なんだろうなぁと漠然と思うに至った。が、私は後追いで死にはしなくてこうして今も生き残っている。
夕べは偶々だったが、少しペラペラとめくって再読もしたし、死んだ友が赤線引いた行間を読んだりしながら眠ったのだった。
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阪神・淡路大震災で神戸大学2年生だった長女志乃さん=当時(20)=を亡くした兵庫県佐用町の元小学校教諭上野政志さん(74)が16日夜、神戸市灘区の神戸学生青年センターで講演した。
約50人の大学生らに、「自分の命は多くの人の支えの上にある。大事にしてほしい」と呼び掛けた。 「母と息子が埋まってる」静まりかえった街を靴下で走った
1995年1月、志乃さんは同区琵琶町の木造アパートで1人暮らしをしていた。
17日は早朝まで友人と課題をしていたが、地震でアパートが倒壊し、下敷きになった。翌日、政志さんが自分の手でがれきやはりを取り除き、志乃さんを見つけた。窒息死だった。
震災の2日前は地元、南光町(現佐用町)の成人式に参加。「一歩一歩を大切に生きていきたい」と記し、家族でトランプゲームをして笑い合った。
「じゃあ、またね」。志乃さんの最後の言葉だった。
講演では志乃さんの写真を映し出しながら幼少期から大学生までをたどった。家族での屋久島旅行、絵本を読んだり、楽しそうに絵を描いたりする姿…。柔ららかな表情を浮かべながら成長を振り返った。
子どもが親より先に亡くなる「逆縁」について触れ、「死ぬまでその悲嘆を背負う」と語った。 「生きていてほしかった」と政志さん。
戦争や震災、いじめの犠牲者などで生きたくても生きられなかった人たちに言及し、「死を学んだ上で、生きていってほしい。苦悩を乗り越えた先に成長がある」と結んだ。1/16、神戸新聞NEXT Yahoo!ニュースより

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