
放ったらかしの菜園も花盛りの春。
大根の白に赤紫、ブロッコリーの淡い黄緑に白菜の黄と取りどり。スギナは若緑に萌え出て柔肌めいた土筆ツクシん坊も沢山なのでソを刈るのに手間取ってしまい次の畝作りを怠ってる。

昨日に出掛けた隣県の都城の街中に、ノソっと佇む願蔵寺の山門脇にて。おやおや、こんな所にアノ乞食坊主の種田山頭火さんの句碑が〜
アレ!又横向き、チト待って〜ゴミを出さねば〜また今日も雨がしとしと〜ヤダなぁ〜
寺前の道路はかなりの広さがあり、国道の10号線よりも幅があったヨナ〜小高い後方の本堂も相当の大伽藍で撓んだ瓦屋根の具合もアノ東京の浅草寺みたいに聳えてる。
ここ都城は元々はアノ薩摩藩島津家の発祥の地、日向の国の堂々たる広大な盆地を荘園として切り拓いた島津の北郷氏が治めたそうだが、明治の廃藩置県で宮崎県に編入された。
鹿児島に残る仏教のお寺よりも遥かに大きく荘厳に残るのは、ヤハリ薩摩島津の縁ゆえの奢りからかも知れない。天孫降臨の神々しい霧島連山の南端に位置するのに、アレ程荒れ狂った筈の廃仏毀釈の暴挙の痕跡が見られない程の立派さ、境内の中の仏像もそのママ苔むして佇んでられる。
そこへ行ってからだが、ふと考えさせられたものがある。
わが他の石像は頭はモゲて手足も砕かれてるし、有っても顔が判らない程に鼻を砕かれ耳を削がれ眼をくり抜かれ腕はへし折られているのに。何だか羨ましい様な妬ましい感じもしないでもない。あの明治維新の偉業ばかりを歴史だ日本の夜明けだ近代化だと教えて止まない鹿児島県の教育に携わる連中や公僕等が段々と憎たらしくも思えるのはヤッカミだけだろうか。嘘と美辞麗句で生まれ育ったカゴッマとも反感が募る、無論、立派さは勿論のことには違いない。
おかげサマでコレも又偶然だったけども、種田山頭火、山頭火なる1人の乞食坊主に姿をやつした昭和の流浪の俳人が眼を又少し見遣る気になった。
真新しい赤褐色の御影石みたいな句碑には以下の様に別の注釈の石板も横に添えられてた。どうもここ最近の設立らしい。アノお笑いで有名になった早稲田脳の御仁が現知事になって、ドゲンかせニャ〜という気風が沸き起こったのか?都城に山頭火の句碑を建てようと市民グループが運動した様だ。
草葉の陰で山頭火は泣いて喜んでるか?ソレは甚だ疑問だが、素朴に町興しを考えた結果かも知れない。けれども知恵が無い、何千万円もの浄財を掛けてコンナ立派な未来永劫にまで残る何の役にも立たないかの石碑の建立、箱物行政と同じく情け無い程アワレも誘う。
後世後代の人心がどの様に思うか、市立図書館にでも何冊もの書物を寄贈したがマダ良かろうものを。
★投げあたへられた一銭のひかりだ
句碑には山頭火の生年月日と簡単な年譜の後、「1930年(昭和5年)秋〜〜九月および十月都城に延べ七日余滞在した この間 五十句ほどを詠み『行乞記』に記す」とあり、上の句を掲げて後、「〜九月二十三日 当願蔵寺境内にて
乞食行乞した際の心象を表したもの」以下に建立者メンバー名ほか、協賛者名簿を碑石下に埋蔵したそうナ〜ご苦労な事。後世に後代の誰かがサゾや島津の埋蔵金ナドと言い流行らすか?あ〜冗談が過ぎた、木造のお寺がコンナに在るのだからして、更には山頭火の日記も残っているのだ、何も仰々しくゼニカネかけて盛大に一句の石碑を建てるとはねぇ〜。
せめて山門の横の土台敷石にソッと刻む位にしとけば、山頭火さんはホウ〜っと微笑んだかもなぁ。
市内には以下合わせて3基の似た様な立派な石碑を建てたとか。この項、次に続く〜お昼だ^_^〜
★あかつきの高千穂は雲かげもなくて (庄内町の消防団の車庫敷地内)
★捨てきれない荷物のおもさまへうしろ (牟田町のショウ護寺、ショウの漢字は手偏に耳3つ)

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