
先日ふとした事で又この主に鹿児島県下に見られる田の神さま(タノカンさぁ、と呼ばれる)に出逢う事になった。
驚いた事に誰がどんな風にしてヤラカシタのか?怪訝な面持ちで、取り敢えずは再度の撮影をしたのだったが、ツイその謎は有耶無耶のままで日数が経った。
今朝は雨の音を聞きながら目が覚めた、午前5時チョイ過ぎ〜夢には見なかったが地面は濡れてるから農作業なんかもしない予定。ならば他にやる事が又あるもので、その1つがこの考察。以下さっそく〜


この絵はもう7年も前のもの、今年は亡母の七年忌も終えたばかりで良いきっかけだと出掛けたのだった。
ココ鹿屋は高隈山の麓の中祓川の川東集落の手前に川に向かい広がる田圃の真ん中辺りに異形な相貌をも見せる方形台地の上に、ポツンと1つの石の田の神サァが鎮座してた。
それが久し振りに来て見れば〜ナント!凡そ3m程の高さがあった台座の小山が掘り崩されて約1m程に低く改ざんされてるではないか〜


この2つの絵を比べて見ると、遠景が微妙に違うのがお判りかと〜
つまり田の神像そのものは新たな傷はなく、方形の台座部の小山の高さが半減以下に低くなってしまってたのだが、むき出しの土の上に新たに安置された田の神サァがチト寂しげに見えたのは私の勝手。
時間があれば市の教育委員会に尋ねても見ようかと思ったが、その前にココ中祓川(ナカはらいがわ)の町内会長辺りにでも聞き質してみようかとも考えあぐねたもの。もしかしたら、竹馬の友ならぬ小学時代の友人氏にでも聞けば事情が分かろう、そう思いながら帰ったものだ。
で、あらためて石像の背面に刻まれた文字を読み解こうと試みたのが今回の1つの晴耕雨読。
「俸寄進」と大きく刻まれた文字の右側に「安永九子年」、左下側に「十二月吉日」と読める文字、そして下部の袴の裾部分には単に「中方限郷」とのみあるだけ。
普通ならば何処の誰ガシ〜何某が作とか寄進者奉納者の名を刻もうが、コノ神さぁは郷名をのみ刻んで長年の風雪に耐えて来た。
〜長年、と書いたが、その「安永九年」が子の年、西暦1780年の12月吉日〜恐らくは秋の稲米の取り入れも終えて冬の良く晴れた日にこの石像、田の神さぁはココ近在のお百姓さん等によって奉祝されたものだと思いたい。
そう思いたいのだが、よくよく考えて見たら、仮に安永九年十二月吉日を1日として計算したらば、1770年12月26日となった。石像を原石から刻み出して造り上げるのに最低3ヶ月〜半年、乃至は数ヶ月掛かるとして発案は前年の暮れ迄に協議され決定し準備したであろう。
そして出来上がったこの石の田の神像を高さ3m上の小山に運び上げて、恐らくは村の皆んな総出でお祀り奏上したであろう事は難くない。
で、この安永年間の最大事として県下の歴史に詳しい人ならば直ぐに思い当たるのが、アノ桜島火山の大噴火活動、いわゆる「安永の大噴火」である。桜島の大きな火山活動を調べて見たら〜
▼〜文明噴火 (1471-1476 年),
安永噴火(1779年)および大正噴火 (1914年)〜
この3大大噴火の中でも、安永の大噴火はこの田の神サァと深い関わりが有ろう事は、上の様な準備期間を考慮に入れれば容易に想像が付く。苛烈を極めたろう、江戸時代は徳川幕藩体制の世、薩摩島津氏の所領の直轄地だった当地の税収の源の稲作米の収穫を左右する大きな気候変動があったろう、その事は米の作付け及び収穫量の減少が極端に際立ったろう事はコレも想像に難くない。
そして宝永年間は、明和の後、天明の前。1772年から1781年の凡そ10年間。これは大事なコトである。長くなったので以下は又続きとしようか〜^_^

0