
過疎な本ブログに対する執拗な検索に管理支配攻撃〜又もやチャイナシンジケートらしき悪辣非道のネット攻撃。
有無を言わさず突如の官憲の捕縛〜拘束にも似て、個人の自由を奪い他人と隔離する〜
人民共和国の名の下に管理支配体制を強化し一国独裁国家社会や世界制覇を目論む中国共産党への批判文めいた部分が確かにあったのだ。
それは武漢ウィルスや、名前ばかりの解放軍なる巨大な軍事独裁者らが巣窟体制への批判めいた部分だった。だからか、そっくりそのまま文字化けとして削除されてしまったのだ。
〜▼冬が暖かくて春になり冷え込むと、とかく疫病の流行を見る、と古い漢方では考えられていたようだ。暖冬にゆるんだ身体に春になり邉い��蠅海鵑如�瞭發砲劼修狷任反┐譴△辰董�P屬箸覆辰討△蕕錣譴襦△箸いΔ海箸世辰燭�B瞭發砲劼修狷任噺世┐仟枡任砲覆襪�∈拔櫃里茲Δ覆發里任覆��稱譴覆訝暴�痢�
もう一度、思い直しながら先ずは引用文から書き抜いてみようか〜
〜▼〜〜暖冬にゆるんだ身体に春になり天の癘気が入りこんで、体内にひそむ毒と触れあって、悪疫となってあらわれる、ということだったか。体内にひそむ毒と言えば胎毒になるが、細菌のようなものでなく、父母なる男女のコウ合(コウは音読みで女偏に冓、訓はよしみ、男女の交わり、主に親族間の交情なども。また国通しの講和のコウも使うらし)の、性欲そのものの毒が、子に伝わって遺ったものであるらしい。この毒はいったんあらわれたのを治めたところで、生涯、子の内に〜〜
疫病というものを感染伝染の事ではなく、天の癘気のもとで人に一斉に、重い軽いはあっても、あるいは表に出ない者はあっても、ひとしく起こる危機と、原理としては見ていたと考えられる。病人に人を近づけないこと、清浄につとめて悪臭も避けること、既往の者は大事に至らぬことなどは、長い体験からして心得ていたようだ。
ここには特に中共やらチャイナへの悪態も無いし、何故に誤字変換〜文字化けをしたかも不明だが、考えられるのはコウ合の語句がサーバー側の自主規制か倫理規範に抵触したか?良くは解らない。別に意図してイタズラに欲情をソソルものでも無かろう。純真無垢な子供らには目の毒なのか?焚書項目の一つか?これも大陸中国の専横国家にあってはシバシバ行われた政策、また翻って我が国では戦前の英字書物や外書への迫害や取り締りも見られた。戦後はヤハリ公序良俗に反するとか名目で色恋沙汰の関連は悉く槍玉に挙げられた様だ。
又ごく一部の天皇批判や侮辱を含む小説や言論などが右翼の天誅思想の的にされて殺人沙汰にも及んだ。警察や国家検察の中には国家主義に近い特定の国体中心主義がまかり通ってしまうのがニッポンの伝統だった。現在もそれは同様なのか?余り思想的な犯罪を最近は聞かない、それでも批判的な思考は未だ死なないので至る所に見当たるけど、取り立てて国家転覆とか天皇侮辱などの意図する所へ成るか?
最後の真新しいのはアノ新興宗教連中のオウム真理教が引き起こした拉致殺人や殺傷沙汰にサリン毒ガス事件が有名だ。
何やら気が削がれてしまい、初めの意図と別な書付をしてるのだが、私小説家の古井由吉は彼自身の死の前年に上の引用文を書いた。まだ新型コロナウィルスによる感染症が蔓延する前なのだ。
その年末には既に中国の湖北省武漢市で謎の疫病、〜謂わゆる武漢ウィルスによる新型コロナ感染で、市内で重症化した肺炎などが発生し始めたがWHOや中国当局〜当然だが共産党や研究所などは否定し続けた。そしてCOVID-19なる病名を付けたのだ。
もしも古井由吉自身が癌死してなければ〜イヤそんなイフなぞ無縁、弱る一方の身体の不順を度々書いて来たその念頭に、この新型の感染症へのヒラメキが有ったと言う事で、ソレは国内に横浜へ辿り着いた豪華客船の船上からの以心伝心があったのかも知れない。そんな与太話は適当にして〜矢張り気になるワードが登場したのだ。
天の「癘気」〜音読みはレイキ、ライ病の癘の字は作者古井由吉独特の使い方、マァ普通の小説家でさえも誰も使わないかの漢字、「えやみ」や流行病との訓で殊に昔はハンセン病をも意味した。使わない筈だ、現在ではそのハンセン病は流行り病なぞには使わなく、逆にインフルエンザや今度の感染症の新型コロナの重症化を懸念する意味でも、癘気としたのかも知れない、それはウソ。でもそんな当て解釈も成るかも知れないが作者は既に新型疫病の蔓延を前に闇と消えた。
幾度かの入退院や検査手術も繰り返して度重なる身体の不具合や不調にはその度に適応はしたらしい。その上で脳裏を去来する戦前幼小からの想い出、それが毎度ぶり返し更には過去ではなくて現在の自身の周りの出来事でもなく日本国内での天候不順による天変地異や人心の変容をも考察し始める。
どうしてそんな物思いに囚われるのかとも自身の過去を抉り出しながら、その寄って来たる因果応報へも筆は走る。
▼戦争が終って空襲が絶えた後、思春期に大病で死の際まで行ったほかは、かくも長き歳月をまずは安穏に送って来た、とじぶんでは思っている。それにもかかわらず、われもまたアルカディアにありき、わたしも昔はアルカディアの楽土にいた者であると、古代ギリシャの石棺に刻まれていたという言葉を思うと、戦慄がかすかに走る。空襲の夜の刻々の恐怖、大病の床の刻々の苦悶の中では、恐怖も苦悶もない平生日常が、取り返しもつかぬ遠方へ失われた楽土に思われた。
しかしその後は、かつては楽土にいたというような恨みを遺すほどの苦難の生涯だったとは、世の人に比べても、とても言えない。我なりに安穏に過ごして来たことを悪びれるところがある。
それでも登山の際に味わった苦難には物狂いが生じた様で、それは若気の至りでも済まされないが矢張り体力のある筋力や胆力、感が鋭い頃25歳の夏の東北の山岳体験が描かれる。そして又40台後半かまた同じ山系へ登ったときに、今度こそは遭難はしないものの奇妙な予感を体験した。
それが秋田沖地震の地鳴りだった、とは書かないけども「鳥の、太い喉を裂くような叫びが立った」し、「道をはずした」様で雪を被った熊笹の原を突っ切って行く内に、「踏みつけた笹が弾力をこめて衝き返し、波打つように感じられ、あたりの岳樺(だけかんば)の枯枝が風もないのに甲高く鳴って、尾根の向こうの深い谷に沿ってヒョウと、口笛のような音が走った〜」と感じられたのは、無事に下山した後での想起した事。
▼じつは秋田沖に強い地震の起った、その時刻のことだった。その尾根は秋田と岩手との県境いになる。日本海岸では家屋の倒壊もあっあ。浜辺に遠足で来ていた子供たちが何人も津波にさらわれた。岩手側の温泉場にもどってそのことを知らされ、そんな異変にそうも遠くないところに居合わせていた〜」
〜もしもあの時、足もとから土砂が滑り出して、もろともに濁流の中へ押しやられていたなら、あの激しい流れのことだからどこまでも運ばれ、やがて北上川の本流に入り、さらに南へ、平泉から一関も過ぎて、石巻の川口でしばし淀んでから海へ、はるかに漂っただろうか、と楽天のようなことを思っては、そう言えば、あの大津波にもろに襲われた石巻という土地へも昔、〜〜
又もや安穏とした平生日常の自分がそこにも登場するも、思念は取り留めもなく不安や懸念の表象を吐いてしまう。
老境に入り来て振り返る若き頃日の体験と感想が又あの古代ギリシャの石棺に刻まれた語句「我もまたアルカディアにありき」とも共鳴する。

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