▼【年表】〜昭和、カッコ内数字は西暦年、次は氏の年齢、そして業績他、出来事
7.2.20 (1932) 46 衆議院議員3期目 空軍兵力増強で斎藤首相と議論 日豊本線開通 満州国建国。
5.15事件
10 (1935) 49 天皇来鹿。吾平山陵へ案内する 百日間の欧州視察 敬愛園開園。古江線国有化 満州移民が始まる
11.2.20
(1936) 50 衆議院議員4期目 広田首相と航空機問答 鹿屋航空隊開設。2.26事件 木炭自動車が作られる
12.4.30 (1937) 51 衆議院議員5期目 防空法案について大演説 日華事変勃発 プロ野球が始まる 17.4.30 (1942) 56 衆議院議員6期目 三笠宮を吾平山陵に案内 本土に初の空襲。
知覧飛行場開設 関門トンネル開通
18.2.12 (1943) 57 鹿屋市長を兼務 母シヲ逝去(86歳) 各地で日本軍全滅が相次ぐ。 竹やり訓練開始。イタリア降伏
20
(1945) 58 3.18 鹿屋に初の空襲。 ・特攻が始まる(3月〜8月) 9.02 進駐軍との折衝開始 3.02 孫の良文氏 誕生 8.15 終戦 9.04 高須海岸に米海兵隊上陸 2
1.11.15 (1946) 59 鹿屋市長辞任(公職追放) 天皇の人間宣言 鹿屋商工会議所発足 27.10.1 (1952) 66 衆議院議員7期目 遺族会を結成 アマゾン移民の出発 28.4.19 (1953) 67 衆議院議員8期目 鹿屋飛行場の国際空港指定を申請 奄美群島の返還
29 (1954) 68 大隅史談会名誉会長就任
・海上自衛隊航空隊が開設 自衛隊が発足
30.2.27 (1955) 69 衆議院選で落選 鹿屋市の人口:75488人 高隈村を合併
31.10.7 (1956) 70 鹿屋市長に当選 (魚市場・社協の開設) 中卒の集団就職が激増 日本が国連に加盟
35.10.7 (1960) 74 鹿屋市長に再選 南米を視察 北田プール完成。カラー放送開始 「所得倍増計画」発表
36.5.27 (1961) 75 藍綬褒章受章。 (『永田良吉伝』刊行) 戦後初の南米移住 古江線が海潟まで延長
39 (1964) 78 市長引退。勲二等旭日重光章受章 (名誉市民となる) 東海道新幹線開通。 東京オリンピック開催
42 (1967) 81 市役所前に胸像建立 高隅ダムの通水式 44 (1969) 83 県民表彰を受ける アポロ月面着陸
45 (1970) 84 大阪万博。鹿屋市人口:66995人
46.5.11
(1971) 85 逝去。市葬が執り行われる。 市制30周年。 47 (1972) (大隅線全線開通。太陽国体) 沖縄県の本土復帰 48 (1973) (鹿屋―鹿児島間に快速列車) 石油ショック 49 (1974) 妻ツルマツ逝去(87歳) 沖縄海洋博。新幹線博多まで延長
前掲は、大隅史談会からの援用抜粋、恥ずかしながら今ごろになって初めて元鹿屋市長の永田良吉と言う人となりを振り返ってみた。
多分に中高の歴史の授業でも聴いたかも知れないが又、全く聴かなかったかも〜多分に聞き逃したのではなくて聴かなかったのだろう、社共色が強く就中、今は無き日本社会党なる既成左翼が全盛期頃の日教組の中で、自由党〜自民党流の色濃い市長の功績なんぞ生徒に熱心に説き話す教員なんざ見かけなかったヨナ〜(笑)
さて、この人物像は極めて非凡なる才能を年表に見る如く、若い時期より開かせたのが良く解る。
それが現在の大姶良に隣接する永野田と言う地に生まれ育ち、現在の鹿屋市の基礎を築き上げたとはね。
つまりは、郡都としての鹿屋市の育成であり、イワユルヒコーキ代議士なる渾名?が由縁が、詰まりは交通不便な大隅半島のど真ん中の鹿屋市中心部の戦前戦後を通しての、発展と復興の要として地道な努力を成し遂げた〜とも言えようか。
そして、惜し気もない称賛の柱に、アノ城山の穴蔵に散った大西郷南州翁の遺訓たる、〜名も要らず、子孫に利を求めず残さず、の清貧の思想信条を地で行く様な人生だったとか聞くに及び、あ〜そうか、それが胸像の意味かいなぁとも思ったのだが、果たして現在は〜
以下に又Wikipediaよりの引用、全てではなかろうが、昨日の『知覧の誕生』の社会学的な論考集の本の内容と一致するので、勝手に再掲してみる。
▼〜村議会議員時代の1917年、鹿児島市の天保山にて鹿児島新聞(南日本新聞の前身)により開催された飛行会を観覧する。このときに「これからの戦争は飛行機が勝敗を決める」と直感したことが、後に飛行機代議士(ヒコーキ代議士)と呼ばれるきっかけとなった。
1922年8月に鹿屋町の笠野原に民営飛行場が完成。しかし、最初に飛行機が飛来したのはそれから3年後の1925年2月17日であった。衆議院議員となった後も航空隊の誘致運動を継続し、1936年4月の鹿屋海軍航空隊開隊に至った。
1931年には航空問題について当時の濱口雄幸首相と討論している。このときに永田は「これからの戦争は飛行機が中心、今のうちに航空力を整備して制空権を獲得しておくべき」と主張したが、当時の首脳陣・軍部からは全く相手にされなかった。1930年代当時の日本において、同様の主張は極めて少数派(他には山本五十六がいる)であり、アメリカの圧倒的な航空力に屈した戦後になって、ようやく受け入れられることとなる。
現在の鹿屋市のホームページには見られない市史の導入部として。
つまり、HP編集者が何故か敢えて書かないプロローグを先ずは、あの特攻体験としての『知覧の誕生』の中に見出だしたものだ。
市役所市議会の豊かな予算額の中に占める国からの援助支援の占める割合は、恐らくは防衛省海上自衛隊
など関連の地方交付税球菌が大きな位置を占める。それは誰しもが認知する規定事項だが、その先達としての永田良吉元市長の多大な功績を、市民は仕方無いとしても役場の役人等が多分に忙事にかまけてか忘れてるのだろう、恐れること無く海軍記念日の5月27日にキチンと航空祭の継承を引き継ぐべき〜は愚行かも知れないが少なくともヤハリ何らかの形で、毎年恒例事業は開催するべしとは思うのだが。
イキナリ結論を書いたが、それはさ置いても戦前や戦後の復興期に置いて養蚕事業の発展や高隈ダムに伴う笠之原大地の灌漑開拓事業や他の功労など、多分大隅の叡知を集めた結果でもあろうが、明治維新の功労者がドンドン中央志向で地方化〜過疎化の波が押し寄せる前の
硬度計財政長期!ギョギョギョ〜失われた日本経済の失速の十年20年来で急速に発達したAI電脳の中には藁をもナイのだろうか?高度経済成長期って語句、変換不能〜(笑)その時期には、まさか現在の新型コロナウイルスによる感染症パンデミックなんざ知る由もないが、少なくとも過疎化の予測は立てられた訳で、だがらその為には何を為すべきか〜それが問われたのだが〜
取り敢えず筆を置くが、先人の教えとしてはヤハリ公人には先を読む事が求められてるのは確かである。税金収奪の方法ばかりがどうも先行しててならない、のだが〜

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