昨日書いた
櫻井よしこ氏のブログで、言葉を大切にしないと、文化が、ひいては国が滅ぶというようなことが書いてあるのを読み、我が意を得たりの思いがした。そして思い出したのが、去年3ヶ月ほど日本に、実家に滞在した時のことである。

日本の私の実家は事情により、上が70云歳から下は11歳まで、女4人だけの家庭となっている。この女所帯の客分となって、とても気になったことがある。多分大抵の人にとって大した事ではないが、それは・・・ 食事の時に頻繁に聞く「食う」という言葉だった。
私の居た頃使われていたのは「食べる」だった。私も父もいわゆる”男言葉”で、「食う」を使ったかもしれない。外に出れば”親分”だったから、野卑な言葉も自然に出ただろう。だが、母や妹が「食う」などと言うのは聞いたことがない。それが、中三と小五の娘の前で、いやこれらに向って、「食ってみ」とか言っているのだった。
「食べてみ」、「食う」でなく「食べる」、何度か指摘して注意した。妹はその後何度か口に出しては、はっとし、段々言い直すようになった。さすが父に「気の付く女になれ」と言われて育ち、今もそれを旨としていると言うだけのことはある。やはり、気が付いた者が注意してやらないといけない。口の悪い父は、実はその前に、「頭なんか良くなくていいから、」と付けていた。この前段もまあ忠実に守られてはいる。
母の方は、もう忘却の彼方か、自ら気が付いて直すことはなかった。ただこちら、私は、年老いた母に作って戴いたものを有り難く「戴きます」と言って、戴いていた。勿論「御馳走様」も。私のこどもの頃、即ち父の治めていた家では、人に感謝の気持を忘れることは許されぬ罪だった。そして自分の方からは言われなくても思いやりをと。
おはよう。いただきます。ごちそうさま。いってきます。ただいま。おやすみなさい。どんなに喋らない”そういう時期”にも、最低限これだけの日常生活の挨拶の言葉がある。そして「ありがとう」。これは私が強調したい事の一つ、言葉というより感情、”思い(=重い)”、”こころ”である。
この”こころ”のない人が、世の中に溢れている。人に何かされて当り前、頼んだ覚えはない、感謝しろって言うのならしないでよ、そんな思春期の始まりの中学生の言うようなこと、態度がまかり通っていないか。それもよい大人の中に。比較的教養の程度も高い、なかなかの人と評されている方々の間にも。
複雑な社会というより実は人間が、それが多くの社会問題の素となっているのでないか。これも、私だけが長く離れて暫くぶりに日本に帰ったから気が付いたことか。恐らく、誰からも自覚症状なしに失われてきた感覚(無感覚)なのだろう。最近プライベートに起こったことを分析しながら、一人ぞっとした。
間違いなく日本の人の心、文化は滅びつつある。なら文化財など初めから守る必要もない、こうなる。希少な生物の滅ぼされていく様をぼんやり眺め、無駄なことに時間を費やさず、のんびり自分の趣味を楽しんでいく。このスタンスは間違ってないし楽だ、心地良い。と、まあそういうことなのだろう。
社会に起こっているおかしなことは、現代人のこころの病に根差している。黙認されているのは、症状から既に痛みの感覚がなくなっていることを示す。末期症状。だが大人は次代を育む親、だから私は警鐘を鳴らし続ける。たとえ一人になっても。
「食べる」は、タブ(賜(タマフ))の転だそうだ。食は生を守る営み、だから食事の言葉には敬いや感謝の気持ちの篭ったものが多い。言葉は精神の発露、”言霊(ことだま)”、だから私は言葉にこだわる。

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