また「鬱」話で申し訳ないのだけど、先日の神戸で行われたフォーラムの席上、主宰者の金先生(韓国人)から、鬱に関してこんな話を聞いた。誰しもお馴染みの寓話「アリとキリギリス」には、実は次のような「続き」というか後日譚があるのだという。
暑い夏の間もせっせと働き続けたアリを尻目に、呑気に歌って遊んでばかりで働こうとしなかったキリギリスは、冬場に入って食い扶持に困り、アリに泣きつくも断られ、やがて死ぬ。
ところがその後、一冬明けて再び働き出したアリは思いもかけない自身の変調に遭遇する。というのも、以前と同じく一心不乱に働こうにも、なぜだか仕事に身が入らず、作業にも支障を来たしてしまうようになる。
たまらず医者にかかるも「診察したけど別にどこも悪くありませんよ」と言われる。気のせいか、と思って再び仕事に取り組んだが、やはりモチベーションが上がらない。その後も医者に掛かり続けるうち、3度目に訪ねた医者で、
「最近、何か大事なものを失いませんでしたか?」
と訊ねられてみて、ハッと気づく。そういえばこの間まで、自分がせっせと働いてる横で楽しい歌声を聴かせてくれたキリギリスの声を、自分は失ったんだ――。
――というわけで、ようするにキリギリスを失ったアリが鬱症状に陥った→「世の中にはアリのように働く者と、キリギリスのように歌で他者を楽しませる者の両方がいて初めてバランスがとれるんですよ」という教訓だというわけだ。
ちょっとそれはどうですかねえ、無理やりコジツケくさいなあ……というのが、それを聞いて真っ先に私が抱いた感想だった。
ただ、金先生が同時に「韓国人は歌うのが大好きなんですよ。日本人に何でこんなに鬱病が多いかっていうと、日本人は歌わないじゃないですか」と指摘したのには何だか説得力を感じた。
言われてみれば、韓国人はよく歌う。以前に私が韓国を訪ねた際にも、公園のベンチでオバサンが一人ぽつねんと座りながらごく普通に、朗々と歌っている光景とかによく出くわした。
ああいうのは日本だと「変な人」扱いされるのだろうが、別に公共スペースで一般の人が自然に歌うのを自然に受けとめられる社会であるなら、そのほうがいいよな。
もちろん、日本人だってこれだけカラオケボックスがそこらじゅうに普及しているのだから、歌うという行為そのものは好きなのだろう。ただ、公衆の面前でそれをやると変な奴扱いされるという意識がある一方、密室化されたカラオケボックスの中で仲間内や個人で歌うことで発散しようとする。
ちなみに、韓国人はあまりカラオケは好きではないらしい。一方で中国人は(個人的体験からもわかるが)日本人の何倍もカラオケ(中国語名「卡拉OK」)が大好きで、歌わせるとマイクも離さず本当に傍若無人である。そのくせ人前で独りで歌ったりということはあまりなく、寝静まった夜行寝台列車の通路にもたれて小声で孤独にハミングする若い奴とかをよく見た。このへんは民族性なのか国民性なのか、ともあれ違いが伺えて面白い。
ともあれ「そうか、みんなで歌を共有できる場があることの幸せってあるかも」と、ふと感じた。金先生の前に、かつて1980年の光州事件に軍隊の士官として関わり、今は日本の生協やNPOのような市民活動に関わっているという朴さんが「歌います!」と宣言し、アリランを熱唱したことに感化されたところはありましたね。
中国語で「鬱」は「郁」とか「悶」とか言うらしい。韓国では何て言うんだろう?

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