まあ消化試合っていうか親善試合みたいなものだったけど、日本代表、最後は1位通過できてよかったですね。しかも5ヶ月前のテヘランと同じ2-1のスコアでやり返せたわけだし、ひとまずよかったんではないかな。
それにしても、こうした本来の意味のなくなった試合をするために、はるばると日本までやってきたイランの選手たちの目に、日本っていう国はどんなふうに見えたのかと思う。男ばかり十数万人が怒涛の歓声を挙げていた(おまけに試合後には死者も出た)アザディ・スタジアムが日本人の目には異次元空間のように映ったように、染めた髪を隠さない若い女の子たちが男どもにまじっておそろいの青いレプリカをまといつつ声援を送っていた横浜国際のスタンドが、彼らにはさぞかし異様なものに見えたのではないかと思うのだけど。
「ジャパン!」
イランの街中で、不意に地元のイラン人たちからかけられた声が、今も出抜けに脳裏に蘇る。イランのこととなると、どうしても12年前に一度旅した時の場面のいくつかをフラッシュバックのようにすぐ思い出してしまう。
その日、私はイスファハンにいた。1993年の9月半ば、イランの古都として知られ、「世界の半分」などと称される美しい街。当時、私はまだ29歳で、日本を出てからそれまで5ヶ月間、ひたすら西へと列車やバスを乗り継いで向かう旅の途上にあった。
イスファハン市街地にある有名な「マスジット・イ・シャー」と呼ばれる青いモスク、およびその前庭に広がる広場(ホメイニ師とハメネイ師の肖像画が掲出されていた)から徒歩数分の街中に、私が世話になっていたイラン人が経営する衣料品店があった。パキスタンのラホール以降、一緒に旅をしていたスロベニア人(旧ユーゴスラビア人)の相棒と安宿を探して市内をさまよううち、声をかけてくれたのが彼らだったのだ。少し離れ場所にある、彼らの親族一同が住むコンドミニアム(集合住宅)の広間が我々の寝ぐらとして提供されていた。
「ジャパン!」
青いモスクを見て帰ってきた私たちに、店を経営するイラン人兄弟の一人が、鮮やかなカラー写真集を開いて差し出す。彼らは英語がまったくできない。唯一、店を仕切る次男坊がのったりとした英語で我々とやりとりをすることができた。ちなみに長男は既に亡くなっているそうで、遺影が店内の壁の一角に貼られていた。写真の顔が若いので、早く亡くなったのかと尋ねたところ「イラン・イラク戦争に従軍して戦死した」とのことだった。
で、その差し出された写真集のカラーグラビアを見た私は、一瞬息を呑んだ。
おそらく、それはイラン人向けに日本の文化や習俗を解説するのが目的のガイドブック的な写真集だったのだろう。開かれたページには、銀座の松屋の屋上あたりから撮影したと思われる、和光本館(時計塔でおなじみ)前交差点の光景が描かれていた。三愛の広告塔が三菱の赤いマークのままだったから、少し前の撮影だろう。当然、文章は全てファルシイ(ペルシャ語)で書かれていたので判読できない。休日に撮影したからなのか、銀座通りは大勢の歩行者天国の客でにぎわっている。いかにもユーラシアの東のはてにある経済大国の隆盛を象徴するような感じで、それは紹介されていた。
「ジャパン!」
英語ができない店の三男坊が親指を立ててにっこり微笑む。
「う、うん、ジャパン」
と返事をしながら、にわかに不思議な思いに浸ってしまっていた。
旅立つ直前まで広告業界誌の編集者を務めていた私は、広告会社の多い銀座一帯にはそれこそ毎日のように取材で足を運んでいたものだった。つまり、つい半年前までは、自分もこの写真に映された世界の中で、スーツにネクタイ姿のサラリーマンとして日々を送っていたのである。その意味では、別になんということもない見慣れた風景ではあったのだが、5が月もかけて数千qも離れたこの異国の街までやってきたところでいきなりこういう写真を見せられると、何だか自分が異次元空間か別の惑星からやってきた生命体として今ここにいるかのような、いわく何とも表現しがたい感情に包まれながら呆然としてしまうのだった。
あの衣料品店や、世話になったイラン人の兄弟たちは今ごろどうしているのだろうか――。イスファハン、半年にわたる旅の中でも、その美しさや、土地の人々と過ごした日々がとりわけ印象に残った街。はたして残りの人生の間に、あの街角に再び立てる日が来るのだろうか・・・・・・。

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