なんかいきなりトラックバックが貼られているな。北海道の苫小牧の方らしいけど、できて2週間しか経ってないこんな小さなブログを見つけていただいて誠にありがとうございます!
が、実をいうとまだ私は「トラックバック」ってどういうことなのかをよく理解していないのだった。Uちゃんから「はじめよう! みんなのブログ」とか「ウェブログ超入門!」という本を送ってもらったので、勉強しなければと思う。
それにしても本当に何もわからない状況で始まってしまっているわけですが、どうかこのゾウリムシみたいな単細胞メディアがだんだんと多細胞生物へと進化していく過程暖かく見守っていただければと存じます。って、んなこといったらマトモなレベルまで到達するのに何万年かかるというのだ!
何万年はともかく、10年目の1月17日だ。「何周年」っていう節目にどれだけ意味があるのかという気もするけれど、やはり個人的には感慨を覚えずにいられない。
あの日も今と同じ中野のこのアパートにいて、朝7時のテレビニュースで地震の発生を知った。というか、当時はこの狭いアパートに妹と同居していて(Uちゃんの奥さんになったほうとは別。私には妹が2人=双子がいる)、先に起きてテレビをつけた妹が「関西地方で大地震だって」と教えてくれたのだ。
布団の中にいた私は一瞬、まだ眠りの中にいて夢を見ているのかと思った。なぜならつい2日前まで私は大阪に約1ヶ月間住んでおり、静岡の実家に立ち寄った後で前日に東京へ戻ってきたばかりだったからだ。
94年の11月、私は当時務めていた『宣伝会議』の社長から、新たに開設した大阪本部の編集担当として転勤するよう、突如命じられた。私はちょうどその1年前ほど前に『宣伝会議』の編集者として中途入社していたのだが、はっきり言ってワンマンの社長とは、スターリニストとトロツキストの衝突みたいな感じでまるっきしソリが合わず、異動は明らかにテイのいい厄介払いみたいなものだった。
営業担当の若手社員との2人だけで大阪へと向かったのだが、堂島浜のガランとしたオフィスで毎朝、東京本社でやってたのと同じ朝礼と社是の唱和(「私たちは宣伝広告業界の発展に貢献します!」)を2人でやりながら、何バカなことやってんだろうなと内心ウンザリしていたものである。
真面目な相棒がさっそうと外回りに出ていった後は東京から頻繁にかかってくる電話をほとんど無視して、椅子に引っくり返って漫画本を読んでいた。だいたい大阪で別の雑誌を出すわけでもなく、編集実務は引き続き東京で行うことになっていたから、大阪にわざわざ編集者を置いておく必要なんか本来はないのだ。
とはいえ、少しは真面目に取り組もうとしていた仕事もあった。大阪本部開設記念に『宣伝会議』の大阪特集別冊を出そうという話になり、転勤間際には上司を通じてその具体的な企画案も出したし、大阪に来てからも地元のマスコミ関係者に独自に会って話を聞いたりもしていた。
ところが、その後東京から出てきた企画が、タイアップ広告で大阪の広告業界から一気に銭をふんだくろうといったロクでもないものだったことから「こりゃだめだ」と、会社に見切りをつけることを決意。年末納会のために戻った東京本社の社長室で三行半をつきつけたわけだが、ヒステリックな社長はわめきながら机を「パーン!」と叩いていたものだ。
で、年が明けるや一旦大阪に戻ったものの、「やる気のない男をおいておくわけにはいかない」ということで、ほどなく東京に戻され、3月末までに東京で大阪別冊の進行業務を一通り済ませたうえで退社することになった。
一方で、宣伝会議の関連会社(富士テックとかいう出版とは全然関係のない会社)の大阪支社も同じ場所に開設することになり、私は当時住んでいた大阪市内のアパートを新たにやってくる社員のために早々に明け渡すようにいわれた。
もともと転勤の前に「大阪のアパートぐらい自分で探しに行きますよ」と言っていたのを、会社が「なぜ会社と一緒に選びにいかない?」と言って、営業担当と一緒のところに借りさせていたのだ(とにかく社員を拘束したがる会社であった)。
しかも帰路の引っ越し費用とか交通費は支給してくんないというんだからヒデー話であった。残りの仕事と引っ越し準備のためには東京−大阪間を2往復ぐらいしなければならず、仕方なく「青春18きっぷ」を使って土日に片道9時間をかけて行ったり来たりするはめになった。さすがにこの時は疲れがたまって体調を崩した.(−−のだが、その割にどういうわけか今も「青春18メディア紀行」なんていって取材に行くのにおんなじことをやっていたりするのだから不思議だ。意思とは別に身体のほうは実はこれで味をしめて病み付きになったのかもしれない)。
1ヶ月住んだだけの大阪のアパートで、まだ一部梱包も解いてなかった荷物を運送屋のトラックに積み込んだのは1月15日の午後だっただろうか。覚えているのは、作業がすべて終わり、伝票を記入しながら配達人が言った次のひとことだけだ。
「今日が1995年の1月15日で・・・・・・東京にお届けするのが1月17日、と」
その日付が、この国の歴史において永久に残るものになろうとは、もちろんこの時はまったく予想だにしていなかった。
2日後、騒然とする会社を「引っ越し荷物の受け取りがあるんで」と露骨にケロリと言ってやりながら早抜けして自宅に戻った。大阪に行った後も、中野のアパートは妹に又貸ししていたのだ。それにしても2人分の荷物が詰め込まれた6畳一間のアパートはほとんどジャングルのごとき様相となり、5ヶ月後に妹が別のアパートへと引っ越していくまでずいぶんと窮屈な状況が続いた。
その妹の転入・転出を含め、この時期は半年間で4回も引っ越し作業をやったことになる。これにはさすがに懲りたのか、10年後の今も私はまだ当時と同じアパートにいる。
こんな具合に、誰しもそれぞれが抱えるいろんな状況の中で「あの日」を迎えたんだろうなと思う。よくアメリカ人は「ケネディが暗殺された時、あなたはどこで何をしていた?」といってあの事件を振り返るそうだけど(最近なら「9.11」だろうか)、歴史上の重大な事件や事故は、こうして人々の記憶に深く刻まれていく。そこには、いくら語られても語り尽くされることのない、無数の物語がある。
宣伝会議が出そうとしたバチ当たりな大阪別冊は、この混乱のどさくさの中で結局、ウヤムヤにされたまま消えた。ざまーみろである。会社からは別冊中止について正式な発表は何もなく、さすがにバツが悪かったのか、社長も上司(ナンバー2の腰巾着)もしばらくは私には声が掛けづらかったようで、3月末の正式退社までの間、以前と同じ雑誌編集の現場で私はずいぶんのびのびと仕事をさせてもらえたのであった。
ただ、正直言うと、たった1ヶ月だけいて、満足な付き合いもできなかった大阪の街には、今でも何となく申し訳ないというか、変な後ろめたさのようなものも覚えていたりする。別に何か自分のせいで迷惑をかけたというわけでもないんだけど、あの直前に街を離れてしまったということが、どこか・・・・・・。
んで、いよいよ3月末の退社日が近づいてきた頃になって、今度は通勤に使っていた地下鉄の路線で例の大事件が起こるわけだが−−まあこれは今度の3月のその頃にでも改めて書くこ、とにしましょ(笑)。そうです、こちらもいよいよ10周年だ。

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