『週刊金曜日』が去年の秋ぐらいから続けてきた連載「電通の正体」が、このほど別冊のブックレットになった。今日の昼間、本屋で見かけたまま買うのを忘れて家に戻ったところ、上手い具合に『金曜日』編集部のHさんから献本が一冊届いていた。Hさん、ここをお読みかどうかわからないけど、ありがとうございます(深く一礼)。
この連載、もちろん私は直接は関わっていないのだけど、実は途中で1回、記事中に登場人物として実名で「出演」(?)したことがある。今回出たブックレットでいうと冒頭「序章」のP.7に載っている、以下のような下りだ。
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電通のパワーは広告代理店としての「表の顔」にとどまらない。クライアントに都合の悪い報道をコントロールする「裏の顔」こそ、凄みの秘密だ。
「実は今度、武富士に行くんだ」
東京・門前仲町の居酒屋。鳥居達彦の一言に、フリーライター・岩本太郎は体がこわばった。鳥居は、長年電通の雑誌局にいた人物で、当時の役職は第三マーケティング・プロモーション局次長。岩本は、広告業界紙出身のライターだ。〇三年四月上旬、岩本は旧知の鳥居に呼ばれて出向いたのだった。
移籍を告げた後、鳥居は「会長からのトップダウンだった」と続けた。会長とは、電通の天皇と呼ばれる成田豊(現・電通グループ会長・最高顧問)のことである。武井保雄・武富士会長(当時。ジャーナリストへの盗聴で有罪が確定)とは一緒にゴルフをする仲として知られる成田は、同年初め、武井に「宣伝・広報・人事総務のエキスパートを寄越してほしい」と依頼され、鳥居を含めて三人を送ったという。
鳥居は電通に籍を置いたまま、四月から毎日、武富士で広報部の仕事を始める。当時、すでに『サンデー毎日』などが盗聴疑惑をスクープ。『週刊金曜日』や弁護士グループは武富士の業務の違法性を追及し、反発した武富士は『サンデー毎日』や『週刊金曜日』を名誉毀損で訴えていた(前者はその後取り下げ)。
鳥居は岩本にささやいた。「協力してくれ。ブレーンをつくっておきたいんだ」
直接取材こそしていなかったが、月刊誌『創』の記事などで“武富士の闇”を垣間見ていた岩本は、体に冷や汗が流れるのを感じながら断った。
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−−と、こんな感じだ。凄いでしょ(笑)。いや、エバッてるんではなくて、何だかサスペンス小説の登場人物にでもなったみたいだよねえ。
で、「出演者」として以上に書かれてる内容についていえば、基本的にこの通りだ。というか、私自身が同じことを昨年の『創』5月号の拙稿「サラ金広告に見るマスコミ界の構造的な病」で書いているほか、昨年秋にサラ金広告問題についてのシンポジウムにパネリストとして呼ばれた際にも話しているのだ。『金曜日』の「電通シリーズ」に関わっていたライターのKさんがシンポジウム終了後に会場で「あれ、書いていいですか?」と訊ねてきたので、もう一つ披瀝していた別のエピソードについてはとりあえず止めてほしいと頼んだうえでOKしたのだ。
それにしても、同じことを『創』に書いた時は特に何も言われなかったのに、『週刊金曜日』に出た後には「岩本さん、ブレーンになっときゃよかったじゃないですか(笑)」(知り合いの電通社員)とか何人かから冷やかされたし、少々面白くなかったのも確かだ。やっぱ『創』あたりでヒコヒコ地味に書いてても仕方ないのかなあ・・・・・・って、あの時も少し思ったわけなんだけど(笑)。
ただ、鳥居さんのためにも少し言い添えておくと、あの時に鳥居さんが私に「なってくれ」と頼んできた「ブレーン」とは「武富士広報部のブレーン」ではなく、あくまで鳥居さん個人のブレーンだった。鳥居さん自身もこの転籍話が結構厄介なものだという認識は持っていて「これは一つの賭けだ」と言っていた。
鳥居さんは出版業界では以前から「電通の名物男」的な存在として結構有名だった。私も大学卒業後に最初に務めた広告業界紙での新人時代、上司に連れられて当時築地にあった電通本社まであいさつに行き、彼に挨拶した時のことはよく覚えている。仕事ができる一方で「遊び人」としても有名で「大女優のXXXXに腕枕をした」とか何とか確かそんな話もしてくれた。後年、フリーライターになってから久々に再会した時も、自分がやってるバンドのメンバーの女性を、私や他の人が見ている目の前でも一生懸命口説き落そうとしていたな(笑)。
あ、いや、もちろん、電通や広告業界の深部についても、鳥居さんからはいろいろと勉強させていただいた。雑誌局から広報局に移ったのは3年前だが、その時も「裏広報が表広報になっちまった」と屈託なく笑っていたものだ。
そんなわけで恩義もあった人なので、無碍にするわけにもいかなかった。とはいえ、もちろんその依頼を受けるわけにもいかなかった。当時、『創』では既に山岡俊介さんたちによる武富士告発レポートが始まっていたし、あの雑誌の常連ライターだった私にそういう話が来たことの意味や背景は当然考えざるを得なかったのだ。
冷や汗が流れるというより、身のこわばる思い(大して違わないか)を覚えつつ、
「敵に回るかもしれません」と私は言った。
「そうだな」と、鳥居さんは淡々と答えた。その後も淡々と二人で遅くまで、その居酒屋で飲んだ。ちなみに帰りはタクシー券をもらって帰ったけど、それは武富士ではなく電通のものだった(って、別にそんなことまで書く必要ないか)。
その後も鳥居さんからは何度か電話をもらった。「山岡俊介ってライター知ってる? 顔写真とか持ってない?」というのはまだいいとして(当然断ったけど)、一昨年の夏に「今度、ウチ(武富士)の広報部の勉強会で『フリーライターの現状』について講演してくれないか? いや、みんな何もそういうこと知らないもんだからさ」と依頼された時にはさすがに困ったものだ。
もっとも、その一昨年夏の依頼は返事をするまでもなく御破算となった。とりあえず返信をしておこうとかけた電話の向こうで、珍しく彼は「ああ、いいんだもう。その話は終わったから」と、珍しくあっさりと言った。いま思うと、あの人もその時点で既に「糸が切れた」状態だったのだろう。ほどなくして「鳥居が武富士を辞めた」という話が私のもとにも伝わり、さらにほどなくして武富士が『創』を名誉毀損で訴えてきた。
その時までに『創』は既に何回も武富士批判記事を載せており、それをあの武富士が訴えてこなかったのはむしろ不思議なくらいの状況だったのだが、どうやら鳥居さんが押さえていたようだ。
鳥居さんは鳥居さんで広告のプロとして、社会に向けたPRの仕方などを含めて少しでも武富士の社内体質を「普通の会社」に変えていこうと考えていたんじゃなかろうかと思う。だが、それも結局かなわないまま、「徹底抗戦」を主張する武井会長の逆鱗に触れて放逐されてしまった−−ということのようだ。
鳥居さんとは、その後まったく連絡がとれていない。
そんなわけで、あの一件は私にとっても少々苦い思い出だった。「そんなこといってもちゃっかり記事のネタにしちゃってるじゃないか」と言われそうだけど、少なくとも広告業界について記事を書くライターとして、サラ金広告の問題について語らなければならない局面(前述の『創』の記事とかサラ金広告のシンポジウムとか)では、そこにほっかむりをするわけにもいかないとも思ったのだ。
あと、その間の報道の中で「諸悪の根元・電通!」みたいな論調の補強材料として、鳥居さんが悪役的にとりあげられることにも「ちょっとどうかな」という思いがあったのも事実だ。
それは別に個人的に彼と面識があったからということだけではない。『週刊金曜日』の特集にしても、どうもメディアが電通について取り上げる場合、従来型の「巨悪・電通」「最大のメディアタブー」とかいったステロタイプな図式に落とし込もうとするのだけど、いちおう広告業界誌で記者をやっていた私の経験から言わせてもらえば、その図式で広告業界なり電通を斬るには、既にあきらかに「限界」が見えてしまっているのだ。たぶん、その難しさは『週刊金曜日』の連載で実際に取材してみたスタッフたちも感じたんではないかと思うのだが・・・・・・まあ、やっぱし前にもこのブログで書いた通り「広告業界も難しいんだよ」。
鳥居さんの件で思わず長くなっちゃったし、これからさらに延々と難しい話をしてもしょうがないので、とりあえず今日はこの辺で。

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