「FMわぃわぃ」代表の日比野純一さんが、講演のため横浜までやってくるという話を聞き、先週の土曜、会場となった横浜駅前の神奈川県民センターまで足を運んだ。
「FMわぃわぃ」(
http://www.tcc117.org/fmyy/)の本社は、あの阪神・淡路大震災の被災地・神戸市長田区のど真ん中にある。電波出力20ワット、いわゆるコミュニティFM局なのだが、韓国・朝鮮語やベトナム語など、全部で8つの言語による「多言語放送」を行っているのが特色だ。
私が日比野さんに初めてお会いしたのは、昨年10月末に鳥取県の米子で行われた「市民メディア全国交流大会」に参加した時のことだった。
ちょうど台風23号による近畿地方の水害、そして中越地震と、大きな自然災害が立て続けに起こった直後の時期だった。ところが、その大会では水害も地震の件はほとんど話題にも上らず、懇親会の席でマイクを握った日比野さんは参加者に向かって怒りをぶつけるように支援を訴えていたものだ。
その翌月、私は神戸出張の折に「わぃわぃ」のスタジオまで直接取材で伺ったのだが、その時の記憶は今なお印象深い。
神戸の中心・三宮から電車で10分ほどの鷹取駅が「わぃわい」の最寄り駅なのだが、駅から一歩外に踏み出したとたん、何ともいえない薄気味の悪さを感じた。というのも、街全体が無機的に新しいのだ。
これは当たり前の話で、震災によってこのあたりの住宅や工場、商店がみんな丸焼けになってしまったからだ。それを以前からの土地所有区分などをベースに一斉に立て直したのだろうから、どうしたってそういうことになるわけだが、都市型の巨大地震というものが一体後々にどういう影響をもたらすかというのをまじまじと感じさせられた思いがした。
「わぃわぃ」のスタジオまでは駅から歩いて5分ほど。そこにたどり着くや、私は再び仰天した。というのは、ヒビの入ったコンクリート塀にボロボロの2階建てプレハブ局舎、使い込まれた仮説トイレに簡易手洗い場−−という具合に、真新しい街の中にあってその一角だけが震災後の焼け跡そのままといったたたずまいだったからだ。
日比野さんに聞くと、これらはみな震災後のドタバタ状況の中で、スタッフ総出で資材を運び、手作り同然にこしらえたものだという。「10年間はこれで頑張ろうってことでやってきた」とのことで、近々立て直す予定ではあるそうだが。
そんな「わぃわぃ」のそもそものルーツは、震災から半月後の95年1月下旬に立ち上がった韓国・朝鮮語(他に日本語も)放送の「FMヨボセヨ(韓国・朝鮮語で『もしもし』の意味)」と、2ヵ月後の3月末に生まれたベトナム語やタガログ語などの「FMユーメン(ベトナム語で『友愛』の意)」だ。この両者が後に合併のうえ、現在に至っている。ちなみに「わぃわぃ」という局名は前記の「ヨボセヨ」「ユーメン」の頭文字2つからとったものだ。
なぜ、神戸の長田で「韓国・朝鮮語」や「ベトナム語」の放送なのか。
まず前者について言うと、以前から長田区内には在日コリアンの人たちが大勢住んでいて、その多くが地場産業であるケミカル・シューズの工場製造業に従事していたということがある。
で、そこに80年代以降、ボートピープルとして来日したベトナム難民の人たちが新たに大勢移り住んできた。同じ兵庫県内の姫路に難民対象の定住促進センターがあるとかで、近場から縁故をたどりながらここに集まってきたらしい。彼らの多くは在日コリアンなどが経営する前記の靴工場で働くようになる。
そこに阪神大震災がやってきた。神戸市の沿岸地帯に位置する長田区は壊滅的な被害をこうむった。当然、工場も家屋もみな倒壊し、在日コリアンやベトナム人の多くが職はおろか住む場所まで失う事態となった。
特にベトナム人の置かれた状況は悲惨だった。すでに2世や3世が主体の在日コリアンの場合は日本語でのコミュニケーションに困るようなことはさほどない。けれどもベトナム人の場合は来日してから日が浅いだけに、なにしろ「ヒナンジョ(避難所)」と言われても何のことやら状態。どこに逃げたらいいのかもわからず、公園など全然関係ない場所に逃げ込んでいたのだそうだ。
当時、救援ボランティアの一員として長田の被災地にやってきた日比野さんは、そこで偶然、彼ら路上のベトナム人たちと出会う。彼らの中には「地震」そのものを知らない人もいたそうで(これはスマトラ沖地震での被災地の人たちの反応に照らし合わせてもうなづける)、はては救援にやってきた自衛隊を見て「クーデターが起こった」と錯覚した人もいたとか。
また一方では「外国人(ベトナム人)が火をつけた」といった、関東大震災の時と同じようなデマも被災地一帯に流れたりしたらしい。地元の在日コリアンの中には、先代や先々代が関東大震災を経験しているという人もおり、こうした状況を見るに「自分たちできちんとした情報発信をしなければ」という機運が次第に高まっていった。
そんな中、当時大阪で韓国・朝鮮語放送をやっていたミニFM局「サラン」のメンバーが民団の西神戸支部を訪れ、支援を申し出たことがきっかけで「FMヨボセヨ」が始まる。少し遅れて、救援活動に走り回っていた日比野さんたちにも声が掛かり、ベトナム語のほかタガログ語やポルトガル語なども含めた多言語放送の「FMユーメン」もスタートしたというわけだ。
ちなみにこれらの放送は当初、まあ成り行きからして当たり前ではあるのだが、放送免許を持たないイリーガルな「海賊放送」として行われていた。とはいえ、彼らが被害者支援に果たしていた役割を行政当局としても認めないわけにはいかず、震災1年後の96年1月17日には正式な放送事業者として再スタートを切ることができたという、そうした意味でも稀有なプロフィールを持つ放送局なのだ。
−−という話をまた次の『GALAC』に書きますよ、というつもりでサワリだけを紹介するつもりが、また結構中身を書いてしまった。これを読んで関心を持たれた方はぜひ来月6日発売の6月号をお読みください。同じ号の特集「放送局クライシス2005」では、以上のほかに岩本が「公共放送NHKを抜本的に『制度設計』し直せ!」といった記事も書いております。どうかよろしく! ではでは。

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