ていうか、まあ理由はほどなくしてだいたいわかったのだが、ようするに今井くん絡みの話だったのだ。多くの方は先刻ご承知かとは思うが、昨日(8日)の夕方、共同通信が↓以下のようなニュースを配信したのだ。
「批判、中傷の手紙を公開 イラク人質事件の今井さん」
(
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060208-00000167-kyodo-soci)
で、そこで表題を紹介された今井くんのブログ「向き合いの中から生まれるもの、それは対話」に、それ以降物凄い数のアクセスが殺到した。それこそ私が事態を知ってアクセスしようとした頃にはもはや到底つながりようもない状況になってしまった(ついさっきも試してみたが、依然として不通のままだった)。彼が開設したもう一つのブログのほうは平常通りつながる状態が保たれていて、そこを読めば目下の事態についての彼の見解(およびそれに対する書き込み)が書かれているのだが、それらを読むに、どうも上のブログにおいて彼が紹介している「批判、中傷の手紙」と似たようなリアクションがまたもや殺到する格好になっているらしい。
それが私のブログのアクセス数の急増とどう関係があるのかというと、いつもお読みいただいている方はご存知の通り、先月末に書いた日記(
http://wind.ap.teacup.com/taroimo/312.html)の中で、その今井くんのブログをタイトルを挙げて紹介していたのである。おそらく共同のニュースで第一報を知った連中がただちに検索したところ、今井ブログのほかに私の上記の日記も引っかかったため、ついでに「何じゃこりゃ」と見に来たということなんだろう(だとすればその日のうちに2000アクセスってのはむしろ少ないほうだったかな?)
それにしても、私が紹介してからでも1週間以上経った頃になって、共同通信がこの話をさもスクープであるかのように報じた事情がよくわからない。あるいはネタ枯れに悩んだ記者さんが「何かネタねーかなあ」とかあれこれ検索するうち偶然発見したというぐらいのことなんだろうか。ただ、もし仮にそうだとして、そこで検索に引っかかったのが上記の私の日記だったのかもしれないと思うと、なにやら今井くんには気の毒というか申し訳ないことをしてしまったんじゃなかろうか――との自責の念に駆られてしまう。もとより彼も他人の目に留まることは承知で書いていたのだろうとは思うのだが。
それでだ。そういった申し訳ない気持ちがあるから庇うわけではないのだが、はっきり言って私はこの件で今井くんが責められる謂われはないと思う。
もちろん、ああいうことを書くからには程度はともかく、それなりに厄介なリアクションが来ることは彼も予想していただろうし、彼に対してリアクションをぶつけること自体も別に悪いことではない。というか、どんどんやればよいのだ(その意味において、今井くんの今回の立ち回り方がはたして適切だったのかという指摘はできるだろう。まあ、これも「だったらお前、こうなる前に何か言っとけよ」と言われそうな話ではあるが)。
ただ、あの人質事件をめぐり、彼のもとに届けられた匿名の手紙類をブログで公開するという行為自体には、何ら問題はないだろう。もしそれらの手紙を彼に送った連中が「けしからん!」と怒っているのだとすれば、「送ったお前がバカなんだよ」と言うほかない。
念のために言っておくと「匿名の手紙については無条件に、その中味が不特定多数向けに公開されても仕方がない」などと言っているわけではない。例えば報道機関などへの匿名の情報提供の中にも、例えば「名前がわかると自分はもとより身内や知人・友人にも害が及ぶ」というケースはあるし、日頃からの友人関係や信頼関係にある人たちからの手紙やメールの中味を不特定多数向けに公表する場合には、相応の配慮は必要になる。
(ただ、そういったことを度外視のうえ「それでも公表する」という考え方もあるが、その場合はそれによって自分に及んだリアクションについては、公表した者がそれこそ「自己責任」のもとに背負っていくのが筋だろう)。
しかし、ただ単に「テレビや新聞で見た」という人物に対してバカだのアホだの死ねだのといったメッセージを匿名でしか送れない連中について、そいつらが送ってきたメッセージを無断で(というか事前の承諾を得ようがない)公開することが適切か否かと訊かれたら「愚問です」と私なら答えるだろう。そいつらが匿名の私信を公開されて苦痛を覚えようがトラウマを背負ったりしようが、私の知ったことではない。仮にそいつがそれで踏切から電車に飛び込んだり、ビルの屋上から飛び降りたりしたら気の毒だな(本人より周囲の人たちが)と思うが、まあその場合も基本的にはそいつの「自己責任」が招いた結果であるんだろうし(笑)。下手したら「ざまあみろ」ぐらいに思うかもしれない。
上記の通り今回の件では約2000のアクセスがこのブログにもあったわけだが、んじゃその関連の書き込みはといえば、たったの3件だった。しかもその中味はといえば、お読みいただければわかる通りヘタレばかりで(むろん匿名)、こっちが適当にあしらっておけば、その後は何のリアクションもないのである。相手に対してカサにかかって叩けると思えば意気高々になるくせに、逆襲される可能性がある場合は途端に尻尾を巻いて(「あんなやつと関わるのは生産的でない」とか何とか手前勝手な理由付けでもって)逃げ出すのだ。まるでどっかの人権団体と一緒だ。
というか、もっぱら実名で記事を書くことの多い私は、やむなき私的な事情もないのに匿名でしか意見を述べられない人々のことを「言論の不自由な方々」と内心では呼んでいる。
「自分を守りたい」「自分がどこの誰か知られたらマズイ」「自分が言ったことに対して反響が返ってほしくない」という人たちが発する表現というのは、自ずと「不自由」なのですよ。なぜならそれは「無責任」だからである。「無責任」な言論は、「無責任」である限りにおいてその程度のものでしかない。だから、「自己責任」とさんざん叩いた20歳前後の若造が未だに元気で市民生活を営んでいるという現実に「無責任」な彼らは苛立つ。
(もちろん、くどいくらいに言うが「自分を守りたい」状況にありながら「それでもこれだけは言いたい」とギリギリの攻防を厭わない人たちに対しては、私はむしろ大いなる敬意を払う)
とはいえ「無責任」な言論も数が揃えば結構なプレッシャーになるので、その意味では今井くんに対する圧力効果も発揮できる。もっとも私のブログに対して無責任陣営がちんけに書き込んだところで意味が無いというのは、上記の事例を見れば明らかだ。
結局、今のこの国には「言論の不自由な方々」が多すぎるのかもしれない。
身体の障害により「発話の不自由な方々」とか「言葉の不自由な方々」については、むしろ彼らの持つリソースが社会全体に生かせるようにしていく必要があると思う。
しかし自らの意思において「言論の不自由な方々」になることを選んだ連中については、はっきりいって「差別」をどんどんしたほうがいいですね。
お前らごときは匿名で送った投書が公開されても文句を言う資格はない、と。そもそも私にしたって「オウム信者とフリーライターに人権はない」とかいつも言ってるんだし、そういう奴らを相手にするなら、あんたにも相応の覚悟がいるだろ。
「人権」が欲しかったら匿名くん、カミングアウトして「人間」になれよ。

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