どうしても報告が遅れてしまうけど、ともあれ、やっぱりこれは書いておこうと思う。先週の木曜日(6日)、いよいよ飯田さんに池袋「サンシャイン60」の前――かつて「スガモ・プリズン」があった場所まで来てもらうことになった。
昼前に、車でやってきた若尾さんと中野駅前で待ち合わせ、そのまま一緒に横浜へ向かう。さすがに今回は飯田さんに電車で池袋まで来てもらうのも気がひけたので、我々のほうから出迎えに伺うことにしたのだ。
この日の飯田さんは昼過ぎまで、東神奈川駅前にある神奈川県児童医療医療福祉財団の本部で仕事。先日ご自宅を訪ねた際には砕けた甚平服姿だったせいか病後のやつれが少し気になったが、当然この日は一転パリッとしたスーツ姿。最上階の理事長室まで顔を出した我々を「おお、よく来たね!」と立ち上がって出迎えてくれた。なにしろ今なお現役バリバリの財団理事長なのである。館内を闊歩する姿は背筋もしゃんと伸び、足取りも実にしっかりしている。普段からよく「歩くのが早い」と言われる私が横で普通に並んで歩いていても全然OKなくらいだ。この人が現在84歳で、しかも先月に自宅で脳梗塞で倒れて緊急入院したと言っても、おそらく誰も信じないに違いない。
雑談もそこそこに出発。帰路は後部座席の飯田さんを、並んで座った私がインタビューがてら横からビデオ撮影する。道中の飯田さんの表情や、サンシャインが車窓に見えてきたあたりの情景は若尾さんとしても是非撮りたかったようなのだが、あいにく私はペーパードライバーであるために運転を代わることができない。そんなわけで業務用のやたら重くて操作も面倒(なにせ露出もピントも手動である)な3CCDビデオカメラを、私が覚束ない手つきで操作するハメに。
とはいえ、モニター越しに見た飯田さんの表情にはやはり印象深いものがあった。この横浜から池袋までの道中は、今から56年前の冬、戦犯としてインドネシアから移送された飯田さんが横浜港から上陸した後、米軍のトラックでスガモ・プリズンまで移送された道のりでもあるからだ。
「あの時はまだ一面の焼け野原でね」と、高速道路わきに立ち並ぶビルの群れを眺めながら飯田さんがぽつりぽつりと言う。「トラックの荷台から見てると、道端の人がみんな米軍のトラックが通った途端にフッと俯いてしまうのがわかってね。ああ、これが我が祖国なのか……って思ったねえ」
午後2時過ぎにはサンシャイン60前に到着。近くの駐車場に車を駐めた後、池袋の街並みを歩く飯田さんの姿を撮影。もちろん、周辺の様子は約60年前とはガラリと変わり、道行くのは自分の孫のような世代の若者たちばかりだ。往時の記憶と頭の中で照らし合わせながら、飯田さんは躊躇することなくサンシャイン通りの人ごみを決然と歩いていく。その姿を、私は少し離れて横から歩きながら、若尾さんはずっと先のほうに構えた三脚上のカメラ越しに見つめる。
例の石碑の前にたどり着くや、飯田さんはまず正面でしばし一礼。ただし、その後は合掌することもなく、年月を経て少々くたびれてきた感のある石碑を、周囲をまわりながらしげしげと眺める。7月の始めの梅雨空の下、突然やって来たこの老人と、そのすぐ横で何やらごそごそと動き回る二人の中年男に、公園にたむろする若者たちは特に注意も払わない。
その眼の前の石碑には正面に一言「
永久平和を願って」。さらに裏面にはこんな一文が。
第二次世界大戦後、
東京市谷において極東
国際軍事裁判所が課し
た刑及び他の連合国戦
争犯罪法廷が課した一
部の刑が、この地で執
行された。
戦争による悲劇を再
びくりかえさないため、
この地を前述の遺跡と
し、この碑を建立する。
昭和五十五年六月
「ちょっといいですか」と私は横から質問する。「この碑は誰が建てたんですか?」
「かつてここに収監されていた“有志”たちだね」と飯田さんは答える。
「飯田さんもその有志に加わっているんですか」
「いや、私は加わっていない」
「根本的な疑問があるんですけど、この表記じゃ一体誰が何の目的でこれをここに建てたのか、まるでわかんないじゃないですか。そこの公園の入口の案内板にも『碑』ってしか書かれてないし」
「うん、気を遣ったんだろう」
「誰にですか?」
「アメリカに」
「……個人的に思ったのは、これじゃはっきり言ってここ(処刑場跡)がどんな場所で、ここで具体的にどんなことが行われて、それが戦後の日本にとってはどういう意味を持つものなのかってことが全然見えてこない。それこそ、ここで処刑されていった死者たちに対する冒涜なんじゃないか――」
そう訊きながら“なんか俺って転向しちゃったのかな”とも一瞬思ったけど、正直な話、先日初めてこの碑を目の当たりにした時以来、何だか胸の中に落ち着きの悪いものをずっと抱いていたのだ。それは広島の原爆慰霊碑に彫られた「やすらかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しませんから」という有名な一文を最初に読んだ時に覚えた以上の、ざらっとした違和感だ。靖国神社に祀られてるA級戦犯がどうたらこうたらとかいうこと以前に、実はこういうことが日本中のあちこちでほとんど誰にも顧みられないまま、なあなあにされながら忘れ去られていってるんじゃないかという気もしてくる。
「あなたの言う通りだと思う」と、自分の半分の年齢しかない若造からの不躾な質問にも表情を崩すことなく飯田さんは言った。「結局、戦後の日本は自分たちが戦争でやったことの責任に向き合おうとせず、ひたすら“臭い物には蓋”で済ませてきた。そのことが今になって大きな問題になってきているんだ……」
しばらく碑の前に佇んだ後で、すぐ横の公園のベンチへと場所を移してさらに話を聞く。
この公園はスガモ・プリズン時代の運動場のスペースにほぼ則して設けられている。背後にそびえるサンシャインと、目の前にたむろする若い人たちを眺めながら「もっと良い青春があったろうに……とか思いませんか?」と私は訊いた。飯田さんは20代前半をニューギニアで、後半をスガモ・プリズンで過ごした末に、30歳で出所している。人生で最も華やかであるはずの時代を、戦争と服役生活で使い切ってしまったわけだ。
「青春なんていうものはなかったねえ」と、何を訊くんだよという感じで苦笑しながら飯田さんは言った。もっともそれに触発されたか、その後にスガモ時代に刑務所を訪ねてきた女性たちとの恋話が2つほど飛び出したのであるが(笑)。
って、「え、何で刑務所にいてそんな人との出会いがあるんだ?」と思われるかもしれないが、実はスガモ・プリズンは講和条約が締結され、日本政府に管轄が移って以降は次第に人の出入りが自由となり、外部から映画監督が撮影にやってくるどころか、服役者が池袋界隈の飲み屋へ日常的に繰り出すようなユルユル状態になっていったのだそうだ。
「三食付きの寄宿舎みたいなもんだった」と飯田さんは笑う。何しろ4年の服役生活を経て仮出所する時には、既に最初のお子さんが生まれていたのか奥さんのお腹の中にいたんだそうで、その娘さんからも後に「お父さん、本当に服役していたの? それでどうして私が生まれたの?」と問い詰められて弱ったとか。
まあしかし、歴史上の事実というものには語られざる様々な側面があるものだ。ましてや、この話の場合はなおさらそうした部分が多そうだし、おそらくその大半は表に出ることのないまま年月の底に消えていこうとしているのだろう。踏み込めば踏み込むほど奥の深さに気が遠くなりそうな思いだけど、なんとかこの作品、モノにしなければなるまい。

1