週明けから、少々長めの原稿をまとめる作業に取り掛かっている。テーマは「軍事」。もちろん私の著作であるわけがなく、その方面に詳しい「著者」に、企画の発案者である「ジャーナリスト」氏がインタビューを行い、その内容を私が単行本用の原稿にまとめるというものだ。以前にも手掛けた、いわゆる「ゴーストライター」仕事に近いが、今回の場合は著者・インタビュアー・構成担当者の名前がそれぞれきちんとクレジットで入るとの由。まあ、よくある「聞き書き本」だ。
インタビューは先月末と今月初めの2回、都心にある高層ホテルの一室で、著者・ジャーナリスト氏とほぼ半日カンヅメ状態になる形で行われた。もっぱらの聞き役はジャーナリスト氏だが、時折私からもいくつか思いついた質問を投げかけさせていただいた。
折りしも首相交代、さらには北朝鮮の「核問題」という一大トピックが舞い込んできた状況を受けての「緊急出版」だ。北朝鮮、さらには中国との問題、ひいては核実験後に日本の閣僚の口から飛び出すようになった「先制攻撃論」やら「核武装論」についての言及も漏らさずに織り込んでいる。となればもちろん、その先にある「自衛隊」、そして「憲法(特に9条)」をどうするかについても論じなければならなくなるのはいうまでもない。
その意味において今回の「著者」氏が繰り出す論には、聞きながら実にプラクティカルかつバランス感覚に富んだものがあるように私には思えた。“実体験”も踏まえた豊富な知識を有する著者の語り口は、「ジャーナリスト」氏によるズバズバと忌憚のない質問に対してもほとんど揺るぐことなく、即座に明快な答えを返してくる。そのうえで、目下ちまたに蔓延する威勢だけは良い言説――「先制攻撃」や「核武装」は単なる「机上の空論」だとの結論を、かなり具体的な論証をもとに打ち出してくる。
ただ、さりとてガチガチの「何が何でも9条守れ」的な護憲論者かといえば全然そんなことはない。そこにあるのは「自衛隊」や「在日米軍」という存在が過去・現在の世界情勢下においてどういう存在であったかを醒めた視点から見据えたうえで「ではそこで真の“平和国家”たるべき日本にはどんな道があるのか」というグランドデザインを、かなり具体的な提案と共に打ち出していこうとする姿勢だ。
「観念的な一般論をいくら繰り返したところで意味はないんですよ」と、彼は静かに言う。
必ずしも「著者」の言説の全てに首肯できたわけではないが(どこに首肯できなかったかについては本の内容に踏み込むため今はまだ言えない)、少なくともその言葉通りの姿勢には個人的に大いに共感を覚えた。
というのは、自分もこれまで世間的に議論を呼んでいる諸々のテーマに取材者として関わってきた中で、どうも今の日本の言論空間には、ある種の宿痾(しゅくあ)のようなものがあるなという思いを、そこに対する違和感とともに強く抱いていたからだ。
すなわち、この国では何かの問題について「議論しよう」という際に「具体的な事例に基づく議論」ではなく「それぞれの観念的な思い込みに基づく議論」をすることが多くの場合における前提となる。無論、表向きは「忌憚なくいろいろな意見を出し合いながら解決策を考えましょう」とかいう建て前が反復されるのだが、それが現実にはいかに空念仏の域を出ないものでしかないかってことについては、これをお読みのみなさんも御自身の実体験に照らして思い当たる部分が多々あることでしょう。
それで結局、何も結論が出ないまま、それぞれが勝手に思い込んだ幻想としての「結論」を自陣営に持ち帰っては「あいつらバカだー! やはり正しいのは俺たちだー!」とか空しい気勢を上げるという「自虐史観」ならぬ「自陣営引きこもり型世界観」に陥り、状況に対する具体的な影響力を何も発揮できずに終わる――たぶん今は、そんな痛い御仁が世の中のあっちこっちにワンサカいるのだろう。
いや、というか「議論しよう」という人ほど「具体的な事例」よりも「観念的な自分の思い」を神聖不可侵の前提にしてしまい、むしろ前者を「見なかったことにする」「そんなことはありえない」てな感じで視界から排除しようとしているような気がする。
だからこそ、私は「今の自分とは決して相容れない主張」の持ち主であっても、逆にその人が世間に向けてメッセージを発する場があるのはとても良いことだと思うし、時には「物書き」としてのスキルを活かしながらも、そのお手伝いをしてみたいと思う。そのおかげで原稿料収入も入ってくるわけだし(笑)。ただし、その相手がどうしても容認できないことをやりだしたら、自分の利益がどうなろうが構わず反論を述べる。なぜならフリーランスの物書きという存在には、敢えて自分の仕事や収入を失ってまでも「今はこれを言わなくては!」という自由度が、社畜的サラリーマンに比べて残されているからだ。
基本的に、どこの組織にも属さない私は何しろ「自由」だ。そして「自由」であるがゆえ、自分の名前でやることには、あくまで自分の名において責任がとれる(サラリーマン時代は、これができずに悶々としていたものだ。だから今も悶々としてる方々には心底同情する)。
かつて、某人権団体から「あなたはオウム問題を利用して利益を上げてる人だとしか思えない!」と批判された覚えがあるが、当時「オウム問題を利用しながら」年収200万円代だった私(交通費とかもまるで持ち出しで各地まで取材に行ってた)は胸を張って「その通りです。でもオウム問題を利用して何が悪いのでしょうか?」と問い返してやったものだ。その後、彼らからは「あなたとこれ以上議論しても生産的でない」とのメールがきたので「私もそう思います」と返答したものであったが(それ以降は一切返事も来ず)。
結局みんな「自分を守りたい」のだ。だからみんな、自分を守ってくれる会社なり団体なりへ帰っていく。でも私には「自分を守るため」に帰っていく場所がない。
「場所がない」という思いは、たぶん「2ちゃねらー」とか「ネットウヨ」とか呼ばれる人たちの中にもあるものだと思う。そんな彼らがネット上で何かを言えるのであれば、それはそれでいいことだろう。ただし彼らの多くは生身の自分が公けに明かされることを嫌う「匿名」の存在だ。
基本的に「署名」で記事を書いている私は、「匿名」で記事を書く人間が「無責任」に「好き放題」に記事を書けることが羨ましいと思うこともある。ただし彼らが「無責任」であるがゆえに「不自由」な存在であることもわかる。なぜなら自分の名を世の中に対して名乗れぬ人間は、そこから自分の素性が公けになるかもしれない意見を言うことが出来ないし、その結果として不自由な言論環境を甘受するしかないからだ。
例えば上に書いたような記述を読んで、こいつは自衛隊容認や改憲を唱える「タカ派」に与する奴だと思う人もいれば、先制攻撃論や核武装論にネガティブだということで「反日」「左翼」「アカ」とかレッテルを貼ってくる人もいるだろう。
もっとも私としてはそうやって私にレッテルを貼ってくる人たちに対して「どうぞ遠慮なくどんどんレッテルを貼ってください」と思うほうだ。だって、そのほうが目立つし(笑)。
というか、誰かにレッテルをしつこく貼ろうとする人ほど、実は自分の貼るレッテルに力が無い(力が無くてすぐ剥がれるため何度も貼り直さなければならない)というコンプレックスを無意識に自覚しているからだ。ようするにかわいそうな人たちなのであり、所詮そんなヤツには気の済むまでやらせておけばよいのだ。そもそも私には別にそれで実害らしきものは何もないわけだし、むしろそういうかわいそうな人たちであっても、自分の書くものをしっかりチェックしてくれる人たちがいるというのは物書きとして素直に嬉しい。
以前にこのブログに妙な書き込みが殺到した際、「まず、あなたは日本人でしょうか?」と聞かれて「国籍上そうなっていますが、そうじゃないって話があるんですか?」と答えたり、あるいは「読んで非常に不快に感じました」と聞かれて「これからもあなたに不快に思われるように頑張りますので何卒宜しくお願い申し上げます」とか答えてたら書き込みが沙汰やみになっていったことがあるけれども、とどのつまり、そういう連中は「そういうアナタはどこの誰? 具体的な根拠は何?」みたいな含みのあるリアクションを返されると、自分はコンプレックスを持つだけに及び腰にならざるを得ないのだ。
そこは私も「共謀罪」問題に関わったりする中で痛切に感じているところだった。
例えば「共謀罪」法案について「国連の国際組織犯罪防止条約を批准するために必要な法律だ」との名目で提出してきた政府側は、他国の事例からしてそんな立法をせずとも批准が可能だという指摘や、「市町村合併特例法」なんていう「国際犯罪」とどこでどう関係するのかわからない法律まで共謀罪の適用範囲に収めたことの理由を説明できないまま、とにかくひたすら「テロ防止のためには必要です」という空念仏の如き説明を繰り返す。
しかし一方、一部の「共謀罪反対」側の論理展開にも個人的には違和感を覚えるところが多かった。曰く「憲法改悪につながる」「日本を再び戦争ができる国へ変えていこうとする企みだ」といった主張を常に彼らは持ち出したがるのだけど――ぶっちゃけて言えば今の日本は「憲法改正(悪)」や「日本を戦争のできる国にしたい」と思う連中のほうが明らかにマジョリティなのだ(もちろん、私はそこに与する者ではないが)。
だとすれば「共謀罪反対(→廃案)」という目的を達成するためには、むしろそうした「思想的には異なるがマジョリティを形成する」人たちをいかに「こっち側」へとしたたかに引っ張って来れるかを考えたほうがいいと思うのだが、どうも運動系の人たちにはそうした発想が欠如、というかむしろ唾棄すべきもののように思われているらしいのだ。
これ、かつて広告業界誌なんぞにいた私の目には恐ろしく不毛な姿勢に見えてならない。目標とする対象へいかに訴求するかという発想を欠いたまま、内輪だけで幸せに盛り上がれる方向のみを志向した組織なんてのは、所詮タコツボ化しながら自滅の道を歩むしかないのに。
先月の「共謀罪」反対集会の壇上で発言に立った寺澤有さんも、集会のサブタイトルに「戦争と憲法破壊の道を断ち切ろう」とあるのに対して「こういう余計なことを言うのは止めませんか」と発言して「顰蹙を買った」(本人談)と言っていたが、本当に「共謀罪を潰す」という目的を共有できるなら、憲法問題その他で意見の異なる連中をも、したたかに味方につけるといった戦略性を「反体制」の側が持ち得ないのは致命的だよな、という気がする。
一方で「共謀罪」に賛成する連中にも裏腹の期待をしていたぶん、逆に失望した。
だって、「共謀罪」が世間的にまるで話題にもならない時から関わってきた私には「政府や与党の政治家以外で共謀罪に賛成する人たちって具体的にどんな人たちなんだろ?」との素朴な関心があったのだが、いざ実際に「
共謀罪ブログ」とか私あてにメールで来たリアクションを見るに「共謀罪賛成」派とは即ち「共謀罪に反対するやつがいるから自分は賛成に回る」というへタレしかいなかったのだ。
そんな彼らに対して私から何か言うことがあるとすれば「賛成に回ってくれてありがとう。君のようなような人間が賛成に回ることで、賛成派の足が引っ張られることを嬉しく思う」といった程度のことなんだけれども、まあ確かに彼らが共謀罪に賛成しようがすまいが、我々にとっては何も意味はないだろう。
――と、また話がそれてますね。ここでひとまず止めます。ではまた。

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