すみません。「鉄」ネタです(苦笑)。
東京と静岡の間を1日に2往復走っている東海道本線の特急電車「東海」号が、来年3月のダイヤ改正で廃止になるんだそうだ。
「東海」号はもともと特急より2ランク下の「準急」だった。新幹線ができる前の1950〜60年代前半(昭和25〜30年代後半)までは、東京―大阪間を速達で結ぶ特急のほかに、沿線住民のために停車駅の多い(かつ安い料金で乗れる)急行や準急が多数運行されていた。
「東海」もその一つで、もともとは東京―名古屋(またはその先の大垣)の間に住む沿線住民のための大衆列車だった。最初は電気機関車が古いこげ茶色の客車を引っ張るというスタイルだったらしいが、私が子供の頃に載った時には、オレンジと緑のかぼちゃ色の電車(割と最近まで東海道線を走っていた)に変わっていた。
東京オリンピックのあった1964年に名古屋で生まれた私は、その後しばらく、静岡の島田にある母の実家まで夏休みに遊びに行く際、よくこの「東海」に乗った。当時はすでに新幹線が開通していたのだが、乗り換えを嫌う母は、名古屋駅から島田駅まで1本でいけるこの電車をいつも使っていた。
最近では新幹線が開業すると、それまで同区間を走っていた在来線の特急や急行はたちまち廃止される(というか路線自体がJRの経営から切り離されて第3セクター化されてしまう)のが通例になっているが、東京―大阪間はもともと交通量が多かったせいか、その後もしばらく在来の東海道本線に急行や準急が残された。「東海」はその生き残りのような存在で、後に運転区間が東京―静岡間に縮小され、運転本数が1日数本に削られてもしぶとく残り続けた。
というか、昭和50年代の静岡に暮らしていた少年たちにとっても「東海」は結構重要な列車だった。というのは、当時の国鉄は「東京ミニ周遊券」というチケットを売っていて、これを使えば静岡から東京への往復に加え、ほぼ首都圏一円(大宮や高尾や取手や成田あたりまで)が1週間乗り放題で計4000円で済んだのだ。なおかつ急行の「東海」については周遊券さえ買えば急行料金が不要ということで、そのころから東京まで日帰りで遊びに行く若者たちに結構愛用されていたのであった。
ただ、東海道線を走っていた他の急行や準急が、新幹線に押されてどんどん廃止されていったのに、「東海」だけが生き長らえた背景には、独特な理由があった。
「ムーンライトながら」という、東京と大垣(岐阜県)を結ぶ夜行快速電車が「青春18きっぷ」愛用者の間では今でも人気を博しているが、この列車はもともと、東京駅と大阪駅の間を各駅停車で直通する最後の鈍行列車として60年代後半まで残っていた夜行列車の系譜を引いている。
この列車が当時のダイヤ改正で廃止されそうになった時、熱心な愛用者たちが廃止反対運動を起こし、それを聞いた当時の国鉄総裁の英断により、急遽存続が決まったのだという。ただし、区間は東京―大垣間に短縮され、車両もそれまでの古い客車列車から電車に置き換えられた。
で、その時に同じ東京―名古屋・大垣間を昼間に急行として走っていた「東海」と、車両を共通で運用しましょうということになったのだ。その後、「東海」の運転区間は東京―静岡間に縮小されたが、夜行用との車両共通運用は今日まで続いている。
というか、夜行に使う車両を昼間遊ばせておくのももったいないので、間合いで使っているうちに、こっちまで生き延びてしまったというのが実情ではないかと推測する。私が時折乗る「東海」も、明らかに乗客数に対して多すぎるキャパシティを持て余していた(おかげで常にゆったりとした旅路を満喫できたわけだが)。
もう一つの理由は「創価学会」だ。
静岡県の富士宮には日蓮正宗の総本山である「大石寺」がある。1990年代の初頭までは日蓮正宗の在家組織だった創価学会の会員たちが大挙してここを訪れていた。で、その創価学会関係者の中でも、首都圏からくる人々がその際の足として重宝していたのが「東海」だった。
富士宮へは東海道線の「富士」駅から身延線というローカル線が延びているが、当時は富士市内に新幹線の駅がなかったため、東京から「東海」を利用し、富士駅で身延線に乗り換えるのが一番便利だった。身延線はローカル線といいながらも、この輸送のため富士宮までの線路を単線から複線に整備し、なおかつ富士宮駅には創価学会員用の団体臨時列車に対応できる、12両編成も停まれるという団体列車用の特別ホームまで設けた。確か私の住む静岡からも、富士宮駅までほとんどノンストップで運行される快速電車というのが走っていて、子供心に「なんでそんな電車が走ってるんだろ?」と疑問に思ったものだ。
しかし、そうした状態にも転機が訪れる。1990年代初頭、例のゴタゴタにより大石寺が創価学会を「破門」したことで、富士宮への学会員輸送ニーズは一瞬にして忽然と消え去ってしまったのだ。それでも残った「非・学会員」の大石寺までのアクセスは、新たに開業した新幹線「新富士駅」からのバスやタクシーに代わり、「東海」の出番は失せた。
しかも「東海」および夜行列車に使っていた車両が老朽化してきたため、1990年代半ばには新型車両が投入された。その結果、それまでは中国の夜行列車さながらの自由席すしずめ状態だった東京―大垣間夜行は全部指定席の「ムーンライトながら」にリニューアルされ、「東海」もせっかくだからというのか、急行から「特急」に格上げされた。けれどもそのために料金が値上げされ、停車駅も減ったことで利用客が減ってしまったらしい。
「急行」の頃まではよく利用した私も、「特急」になってからはほとんど「東海」を利用しなくなった。
というのは、東京―静岡間は新幹線がびゅんびゅん走っているため、回数券が金券ショップで安くばら売りされている。1日2往復しかない「東海」には割引切符の類はなく、急行時代には静岡市民に重宝された「東京ミニ周遊券」も今や廃止された。だから「東海」よりも新幹線を利用したほうが早くて安く静岡まで帰れるという倒錯状況になった。
一方で、鈍行と快速を乗り継いでも3時間で移動できる東京―静岡間には、新幹線を使わずに在来線で旅しようという人も多い。しかし、そういう人たちは今や「青春18きっぷ」を使う。「青春18」なら片道2300円ですむ東京―静岡間も、新幹線の回数券なら5200円、「東海」なら6000円近くかかる。しかも「東海」の本数は1日2往復だ。これで乗る奴のほうが奇特というべきだろう。
とはいえJRの側にこういう列車を育てようという意識があれば、また事情は変わっていただろう。しかし、ここでは「分割民営化」の弊害がモロに表れた。国鉄時代は重要なインフラとして一元管理されていた東海道本線は、JRになって以降は分割された各社ごとにブツ切りにされ、例えば東京から熱海までは「JR東日本」、熱海から先は「JR東海」という具合に分かれてしまったのだ(ちなみに新幹線は東京―大阪間をJR東海が一括経営)。
そんなわけで熱海を境に会社をまたがって運行する「東海」は邪魔者扱いであり、増発やら割安切符の販売による営業強化は行われなかった。このことは、東京から九州まで行く夜行の寝台特急が廃止の一途を辿る(運行区間がJR4社に分かれるため)一方で、東京から北海道に行くそれが「カシオペア」とか「北斗星」のような豪華車両投入と増発で人気を博している(しかも東京から青森までの約700qはほぼJR東日本1社のエリアなので、そのぶん儲かる)ことと、ある意味で同根のものがある。
ともあれ、そんなわけでとうとう「東海」も廃止になるんだそうだ。子供の頃、赤い網に入った駅売りミカンをほおばりながら、流れ行く車窓に緑豊かな茶畑を眺めたあの列車も、いよいよ消えようとしているわけだ。ごくろうさまという感じだけど、杓子定規な効率化(といいつつ実は「硬直化」だったりもする)の進む御時世のなかで、またひとつ、ああいう優雅な列車旅の世界が淘汰されていくのだな、との空しさも覚えるところだ。

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