というわけでまた一つ(いや、二つでしたね昨日は。失礼←後から追記)ローカル線が過去帳入りしていったわけだ。あの霞ヶ浦沿いの普段はのどかな沿線一帯も、おそらく昨日あたりは“廃線祭”で終日大賑わいだったことだろう。鉄道会社や地元の人たちからすれば「普段からこの何分の一かでも乗ってくれりゃ……」というところだろうが、まあ出版業界でも長く続いた雑誌の「休刊(廃刊)記念号」は得てして爆発的に売れるものです(笑)。
そう、鉄道の世界と同様、雑誌にしてもここ数年来、部数減などで立ち行かなくなって休刊(廃刊)に追い込まれるケースが後を絶たない。というか、出し続ければ出し続けるほど赤字垂れ流しになり、経済学的な合理性からすれば明らかにとっとと潰したほうが版元にとってメリットがありそうなのに、なぜか版元の奇妙な意地でもって無理やり存続させられているという「“赤字ローカル線”的雑誌」も何と多いことか(まあ、個人的に「雑誌」という分野を半ば見限ってしまったような思いもあるため、ローカル線よりもまずはこっちにナタを振るったほうがいいんじゃないかという気もするのだけれども)。
そういう意味では「鉄道」と「雑誌」ってのも変に似てるところがあるよね。ただ――これは何年か前にも某メディア関連MLでのやり取りでも書いたことがあるんだけど――似ているといえば雑誌以上に「放送」のほうが「鉄道」と似ているかもしれない。
「鉄道」と「放送」。どちらも社会を支える“公共の具”であり、鉄路や電波という限られた公共資源をベースに運営されている。それゆえに、その事業者には行政当局による許認可(免許の取得)が法的に義務付けられている。だが、にも拘らず現実には事業者が利益第一の姿勢に走りがちである。例えば新幹線や東京の通勤路線の整備、あるいは東京キー局の月曜9時のドラマにはじゃぶじゃぶ予算を投下している反面、ローカル線やローカル局制作のドキュメンタリー番組枠などは「経費節減」の名のもとにバシバシ削られる一方ではないか――というあたりが。
まあ要するに「鉄道」にせよ「放送」にせよ「雑誌」にせよ、あるいは「新聞」にせよ「屋外看板」にせよ「インターネット」にせよ、とどのつまりは皆同じ、この社会を支えていくために必要な、人間どうしのコミュニケーション(人間の身体に例えるなら、全身に栄養分やビタミンをめぐらせる血流)をめぐらせるためのツールとしての「メディア」なのだ――という話は、少し前にも
ここで書いているのでくりかえさない。ただ、ローカル線にしてもローカル局にしても、その存在意義を経済学的合理性だけで議論してしまっていいのか? ということは改めてまた書いておこう。単純に営利事業という形だけではなく、別のスキーム(たとえば税制の見直しやら寄付やら、民放も含めた形での受信料制度の見直しやら何やら)も導入しながら、これらの存在を社会的に担保するようなことが、そろそろ考えられていいのではないかという気はする。
と、また硬い話になった。最初に書こうとしたのは全然別の、あるローカル線についての話である。今やほとんど誰も乗らなくなり、通常なら鹿島鉄道同様とっくに廃線になっていてもおかしくないはずなのに、それを敢えて残すことが何故か上述の「経済学的合理性」に適うとの理由で存続が保証されている鉄道が、某所に存在するのだ。
私自身もまだ乗車したことのないその路線は、言うなれば「
宣伝費で走る鉄道」だ――などと書くといかにも4月1日的に「ウソだろう?」と思われることだろうが、鉄ヲタの間では結構有名なケースである。ともあれ、ひとまず稿を改めることとして、以下近々。

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