で、相当遅まきながら7日にNHKまで何をしに行ったのかについてなのだが、実はNHKはNHKでも会社本体ではなくて、通称「
日放労(日本放送労働組合)」――つまり「NHK職員の労働組合」からお呼びが掛かったのである。
もとより、常日頃からこのブログをよく御覧いただいているような方々の多くは(笑)「日放労」といったら先刻よく御存知の団体であろう。それこそ古い世代の方々であれば「あの上田哲の出身母体」と言ったほうが今でも通りが良いのかな(ちなみに上田哲氏というと近年では
こういうインターネット放送局に関わってるという話は聞いていたけど、サイトを見ると更新が止ってる模様。「国民投票制度を実現させよう!」とかブチ上げたままになっているけど、その後どうなったのかな?)
ともあれ、その日放労がいったいどういう経緯から私などに声をかけてきたのかというと、なんでも例の「あるある問題」について内部フォーラムで取り上げることになり、その講師として誰か「テレビ番組制作会社(プロダクション)」の実態について語れる人間はいないか、という話になったらしい。で、そんな折りにたまたま今年初めに出た『
GALAC』の2月号で、プロダクションの概況についての記事を書いていた私に白羽の矢が立ってしまったというわけだ。
もちろん、そうしたフォーラムおよびテーマの講師が私1人でもつわけもなく、もう御一方、もとい本来のメイン講師として招かれたのが、あの吉岡忍さんであった。
「あるある問題」で吉岡さんが、関西テレビにより設けられた社外の「調査委員会」に参画されていたのは記憶に新しいが、それ以前からNHKとの間でも、例の一連の不祥事を経て設置された「デジタル時代のNHK懇談会」メンバーとして精力的に動かれていたのは御承知の通りである。
というか、何より言うまでもなくノンフィクションの書き手としては私の大先輩にあたる人である。これまでもメディア関連の集会ではよくお見かけしたり御挨拶をしたりはしていたのが、今回いきなりパネラー席にて2人で並ぶことになっちゃったのであった。って、いいのかよ? おい(^_^;
というプレッシャーと、それとはまるで正反対の「へえ、何でそうなんのかわかんないけど面白そうだなあ」といった何も考えないバカ物書きならではの呑気モードという二律背反的に妙な心情のもとに臨んだ「日放労フォーラム」であったわけだが、労働組合主催ということから想起されるイメージとは裏腹に、最後まで実に静謐な雰囲気の中で行われた集会だった。
会場はNHK放送センター西館4階のかなり大きな会議室で、ゆったりとしたテーブルには参加者が三々五々的に約30人ほど。もちろん全員がNHKの人である(報道局で現役バリバリの記者として活躍中の人も来ていた)。彼らを前に、例によってダウンベスト姿の吉岡さんと、珍しくブレザーを羽織った岩本(いや、一応それらしくしようと思って ^_^;)が並んで対峙。
まずは吉岡さんから、この間「調査委員」として向かい合った立場からの「あるある問題」に関する経過報告が行われた。実はちょうどこの日発売の『創』7月号に「テレビの病理としての『あるある』捏造問題」と題した吉岡さんの手記が掲載されており、当日はこのコピーが会場の参加者にも参考資料としてさっそく配布されていた(ちなみに昨年末に私が『GALAC』の2月号に書いた上記の記事=「制作会社40年間の死闘」も一緒にコピーのうえ添付されてました。ありがとうございます)。
そんなわけで吉岡さんからの経過報告も、概ね上記の記事に沿った内容となっていた。なので関心のある向きには現在書店に並んでいる『創』を御覧いただくとして、横で吉岡さんの話を直接聞いていた私が印象に残ったのは、
@調査全体を通じて思ったのは、「あるある問題」の関係者がみんな凡そ悪意や屈折のない、明るくて仕事熱心な人ばかりだったということだ
A中でも例の『納豆』篇で捏造をやったディレクターは凄く器用で、しかも受け答えもしっかりとした好感の持てる若者だった
Bけれども、彼を含めて誰もが『自分は自分の視点でこういうものを作りたい』といったものを持っていない。悪意がない代わりに、どこかみんな『真ん中が空っぽ』という感じがする
Cその一方、「あるある」で自らが出演のうえコメントした内容を「捻じ曲げてられた」とか言ってる有識者がいるけど、取材VTRまで確認した結果から言えば、彼らの言こそ真っ赤な嘘だ。テレビ側に都合のいい内容のコメントに応じる学者がウンザリするほどいる。これは大学からの「メディア露出を増やしたい」というニーズにも適うのだろうが、明らかにアカデミズムの危機だ。
といった部分だった。
「なるほどなあ」と思った。ある意味、私にとっては「推測通り」だったというべきか。
この問題についての私自身の見方は既に本ブログでも
ここや
ここに書いているけど、はっきり言ってこれは「テレビ制作者のモラル低下の表れだ」とか「テレビ業界の下請け構造が原因で生じた問題だ」とかいう手垢のついたテレビ批判用フレーズを持ってきてレッテルを貼れば片付くという問題ではないのだ(ていうか、どうせこの先また似たような問題が起これば、剥がれ落ちたレッテルが懲りずに何度も貼り直されるという頭の悪い展開が繰り返されるのだろうが)。
逆に吉岡さんの指摘にもあったように、こういう問題はむしろ「内輪(=業界)のモラル」に対して物凄く真面目で忠実な人間こそが引き起こすのだ――ということを、そろそろみんな素直に認めたほうがいいような気がする。また、何もそれは「テレビ業界」の人間に限った話ではなくて、上にあるように、部外者であるアカデミズムの連中ですら「ああ、テレビはこういうのを求めているんだな」「大学もメディアに出ろって盛んに言ってるし」と思えば、平気でそういうコメントをカメラの前でしゃべるわけですよ。
んで私からは吉岡さんの話を受けて、すでにこのブログで書いたような話と、前記『GALAC』の記事に書いた「日本におけるテレビ番組制作会社の生い立ち」などについての話をした。番組制作会社という存在は、もともと民放テレビ局の「労組対策」を一つのきっかけとして生まれたものなんですよ――なんていう話はNHK、それも日放労の人たちには結構興味深く聞いてもらえたようだ。
ただし、敢えてあんまり話さなかった部分もある。それは「あるある問題」をめぐって週刊誌が展開した「下請け害悪論」への疑問だ。
「テレビ局は番組制作を会社の外へこんなに丸投げしている!」「外部プロダクションはテレビ局からこんな悪条件でこき使われてる!」といったバッシングを盛んに展開していた週刊誌であるが、そんなこといったらお前らの編プロやフリーライターに対する処遇や、「データマン・アンカー」システムといった週刊誌の誌面作りの根幹部分からどんだけ問題が噴出したと思ってるんだ。だいたいお前ら最近記事をめぐる裁判で負けてばっかりだろうが。そんなのテレビのワイドショーあたりと質的に何が違うというんだ、ふざけんな馬鹿野郎――。
――という話を開始前の打ち合わせでしたら、吉岡さんから「いや(出版は)そこまでひどくはないだろう」みたいに言われたこともあって(苦笑)敢えて本番ではそこは少し引っ込めた。
ただ、その代わりにというか、こういう話もした。最後のほうでいわゆる「市民メディア」の可能性に話題が及んだ時のことだ。
「もう、こういうことでテレビを批判するのって飽きちゃったんですよ」
と、私は言った。
「今度の『あるある』で言われてるモラルとか下請けの問題とかって、11年前の『TBSビデオ問題』で言われてた話から全然先に進んでないんです。だからこっちも何度も同じことを繰り返して書くのに飽きちゃったし、それよりは、そういう一般市民がボコボコ勝手に次々に作り始めてるメディアの世界を見ているほうが、全然予想外の動きがあるし、はるかに面白い。
『そんな素人に放送を任せられるか!』っておっしゃるかもしれませんけど、今や家庭用ビデオが普及して30年経って編集も簡単にできるようになり、実際に見てもらえばわかるように相当なクオリティのものがいくつも生まれている。こういうものがプロに成り代わって、公共財としての『放送』が成り立つんであれば別にそれでもいいんですよ。だから『今の放送業界をどうするか?』っていう話についていうなら正直『別に。どうでもいからさっさと滅んでくれ』という思いもあります」
みたいなことを――ここまで言わんかったかもしれんけど(笑)――思いつくまま喋った。はたして公共放送を担うプロの人たちにはどう受け止められたものやら。
あ、あと吉岡さんが「調査委員」としてニューヨークまで出向いた際、空いた時間に「9.11」の現場まで散歩に行き、そこで「たかが『納豆』の話で何しに来てるんだ俺は」と自虐的に笑ったという話は個人的に凄く面白かった。
「テレビというのは人間の“遠近感”を狂わせるメディアだ」と吉岡さんは言った。
本当にそうだと思う。遠近感を狂わせるというのは、言い換えれば即ち「自分の立ち位置を見失わせる」ということでもある。メディアの世界に身を置く者の病理とは、まさしくそこにあるような気がする。

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