「(つづく)」とか書きながらも旅日記はいきなり中断(すみません - -;)。が、その間、この9月に相次いで亡くなった2人のことをずっと考えていた。佐藤真(映画監督/4日に自殺)と長井健司(ジャーナリスト/27日にヤンゴンでの反政府デモを取材中、銃撃されて死去)だ。
佐藤さんには10年ほど前に一度だけ、ある雑誌の取材でインタビューに伺ったことがある。あのドキュメンタリー映画の名作『阿賀に生きる』の監督ということで、私も結構気負いこみながら事務所まで訪ねたわけだが、一方の佐藤さんも人見知りするのか、少々こわばった表情で出迎えてくれたものだった。もっとも、インタビューが進むにつれて打ち解けてきたのか、最後のほうではお互いかなりハイテンションになりながら和気藹々にずいぶんいろんなことを語り合った覚えがある。別れ際には「ぜひまた会いましょう」とにこやかに送り出してくれた佐藤さんだったが、直接お会いして話す機会は結局あれが最初で最後になってしまった。
長井さんとは確か面識はなかったと思う。「と思う」というのは私の場合、仕事柄どこかで出会って挨拶ぐらいはしていたかもしれないからだ。訃報の翌日の朝日新聞には、以前オウム取材などで何度かお会いしていたフォトグラファーの飯田勇さんが友人として追悼コメントを寄せていたし、一昨日には綿井健陽さんから、追悼の意味合いも込めた「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会」の案内メールが来た。今日(3日)の夕方から明治大学で行われるので、これを書き終えた後で会場まで向かう予定だ。
もとより、佐藤さんと長井さんとは同じ映像ノンフィクションの作り手とはいえフィールドは異なるし、一方は自死、もう一方は取材現場における不慮の死だ。時期が近いからといってこの2人の死を一緒にして何かを語るのは適切なことではないかもしれない。ただ私自身は、一応同じジャーナリズムの世界の端くれにいる人間であるということに加えて、2人がともに50歳という年齢(佐藤さんは当時49歳だったが、亡くなったのは誕生日の約1週間前)で世を去ったことに、何やら身につまされるような思いを抱いてしまった。
佐藤さんは昨年の秋から躁鬱の症状で入退院を繰り返していたという。
長井さんはAPFと契約した現役バリバリの記者だったが、ミャンマー(ビルマ)には自分の意思で入ったと聞く。また、50歳という年齢は大手マスコミの記者(たいてい40歳も過ぎれば現場からは“上がり”だ)に比べてもそうだが、フリーランスのビデオジャーナリストとしてこうした紛争取材を行うにも既に少々高めだといえる。
もちろん、こうした報道からの断片情報からだけで決め付けた言い方はできないけれども、私にはこの二人がともに内心どこかで「表現者として齢をとり、衰えていく自分」への怖れのような感情を抱いていたんじゃないか、という気がしてならない。
というのも私自身、数年前に40歳という大台を越え、その後に少々体調を崩したり、長らく付き合い続けてきた雑誌と袂を分かったりする中で「いったいこの先いつまでこういう仕事ができるんだろう?」という思いを初めてリアルに抱くようになっていたからだ。
フリーライターになったのはちょうど30歳の時だった。以来、30代の10年間は今思えば本当に先のことなんぞ何も考えず、ひたすら呑気に楽しく眼の前の仕事をこなしてきたという感じだったが、いざ40歳を過ぎてみるとさすがに何か“肩にのしかかってくる”ものがあるのだ。それは体力的な衰えはもとより、自分の能力的限界がある程度見えてきたことに対する失望もあれば、それと反比例するかのようにいろんな責任がおっかぶさってきていること(一匹狼のフリーランスであったはずが、それでも気がつけばNPOの理事やら雑誌の副編集長とかいう肩書きもついたり、時には人様の前でエラそうに講演したりもしている)、さらにはまわりにいる友人・知人や家族たちもが一緒にどんどん齢をとってきたことから押し寄せる無言の迫力――などなど、複雑にいろんな要素が絡み合ったところから生じる思いだといえる。
それでも何のかんのといいながらもここまでこの仕事をやめずにやってきたのは、どういうわけか私の場合は「後進の世代の台頭からくる焦燥感」というものに今のところあんまりさらされていない(ほんと、こういう仕事をやってるフリーライターの若いヤツってのには今までほとんど会ったことがないなあ。ようするに「絶滅危惧種の最後の生き残り」なのか)のと、もともと30歳で独立した時から「本当の意味で自分が納得できるようないい仕事ができるのは40代になってからなんだろうな」という漠然とした予測があったからだ。
で、実際に40代になってみて本当に良い仕事ができたか? といえば、正直言ってまだ実現していないというところだろう(今だ単独著作も出せていないしなあ)。ただ、曲がりなりに十数年続けてきたことで内心“会得した”ものはあるし、その意味では「何もできなかった」という挫折感は覚えずにすんでいる。後はそれをどういう具合に形にできるか、というのが今の目標といえば目標なんだろうか。
もっとも、そこからさらに「じゃあ50代は?」ということもそろそろ考えなければならない時期に来ているのも確かで(なんたって残りあと6〜7年しかない)、そうした意味でも先月に相次いだ先達お二人の死に対して何も感じないわけにはいかないというのが目下の率直なる心境なのであった。いったい俺は佐藤さんや長井さんと同い年になった時、どうしているんだろう、と……。
そういえば去年の夏、知人に呼ばれた酒の席で歌人の辰巳泰子さんに初めてお会いした際にこんなことを言われたのを思い出した。グラスをあおりながらみんなで物書き仕事の苦労話に興じる中で「まあ、ライターの仕事なんて、やめたくなったらいつでもやめますよ」と本音を語ったはずの私に、辰巳さんは「だめよ」と笑いながらかぶりを降り、こう断言したものだ。
「そこまでフリーライターをやったんなら、もうフリーライターとして死ぬしかないのよ」
“ああ、そうかも知れないな”と、その時初めてそう思った。もちろん、実際に仕事中に死ぬより前に、何らかの理由により今の仕事から離れることのほうが可能性としては高いのだろうが、その場合でも「フリーライターである岩本太郎」は確実に「死」を迎えることになるわけだ。
だとすれば、はたして私の死に場所はいったい何時、どこになるのだろう?
――などと、偉大な先達の訃報にかこつけながら、結局自分のことを書いてしまいました。本当に申し訳ありません。改めまして、謹んで御二方の御冥福をお祈り申し上げます。

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