先日の
高田の「雁木(がんぎ)」の話で書こうと思いながら書き忘れていた話を一つ。
上越市を訪ねて、市街地に並ぶ商店「
町家(まちや)」とセットになった雁木の下を歩くたびに思い出すのが、今から15年前にバックパッカーとしてユーラシア南岸を半年がかりで旅した際、中国の南部からマレー半島にかけての道中、あちこちの街で見かけた「
騎楼(ショップハウス)」だ。彼の地を訪ねたことのある人たちなら「ああ、あれね」とすぐ思い出すことだろう(「華僑」「騎楼」「ショップハウス」とかで検索すれば、例えば
こういったサイトなどかがいくつも出てくるので御参照あれ)。
私の場合は、確か中国の広州で見たのが最初。その後に入ったベトナムやカンボジアでは見た記憶はないが、華人人口の多いタイからマレーシア・シンガポールにかけてのマレー半島を南下する旅路では道中のあちこちで遭遇。「へ〜、こんなふうに遠くまで広がっているんだな」と、印象深く眺めたのを覚えている。特にペナン(ここは華人が人口の大半を占める)の中心街・ジョージタウンに広がるその家並みは見事だった。
騎楼は19世紀頃に中国南部から東南アジアへ移住した華僑(もしくは華人)たちが現地に持ち込んだとされる市街地建築の様式だ。日本の雁木と同様、通り沿いに軒を連ねる各商店が、通りに面した私有地内の一角を歩道用に提供することで成り立つ形態である。ただ、こちらはもっぱら石造で、建物の二階部分が下の歩道の頭上に張り出す格好になっている点が雁木とは異なる。
また、言うまでもないが中国南部〜東南アジアには雪など降らない(あ、今年の中国南部は大雪でしたっけ?)。ただしその一方で日差しは年中強烈だし、雨季を中心に壮絶なスコールに見舞われることから、こうした形態が編み出されていったようだ。
実際に私も旅の最中に何度となく歩いたからわかるのだが、あの騎楼の下の空間というのは実に通気性がよくて快適だ。低緯度地帯の強烈な太陽光線が降り注ぐ東南アジアの白昼でも、ほとんど汗もかかずに街を歩いてまわれるほどだった。
昼下り、目も眩むような陽光の降り注ぐ表通りから騎楼の下に一歩入れば、そこには路上で水遊びに興じる子供たち、立てかけたベンチで午睡をまどろむ老人、なにやら将棋のようなゲーム盤を挟んで向き合いつつ思案する男2人と、それを取り囲むヒマそうな野次馬たち――。
と、今も目を閉じて思い浮かべれば脳裏へ即座に蘇ってくるくらい(^-^)。そんなゆったりまったり、孤独な旅人すらも心穏やかに癒してくれるコミュニティが、そこにはあった(もう15年も前の思い出だけどね)。
で、雁木や町家との共通性についての話に戻せば、道路上の高い空間までを居住用に活用しようという騎楼の設計思想は、高い吹き抜けの屋根や、二階に広々とした間取りを持つ町家(これも冬場に表の降雪が数メートルに及ぶことへの対処らしい)のそれとも、これまた相似形をなしているように見える。
もとより、どちらも共にアーケードのはしりであることは言うまでもない。加えて、その背景にある「コミュニティ」の存在を濃厚に感じさせてくれるという点でも、この互いにまったく表情の異なる土地に生まれた両者は、どこか不思議に似通っている。
かたや、日本海沿岸から北日本にかけての地域は毎年冬になれば厚い雪に閉ざされる一方、日本国内でも公共インフラの整備が後回しにされてきた地方だった(それゆえに田中角栄のような政治家が、この地方からは必然的に生まれた)。
こなた、中国大陸は18世紀あたりから中原(ちゅうげん)を中心に、とにかくどエライ戦乱の繰り返しで、沿岸から海外へとあたかも遠心分離機に振り回されるかのごとく移住していった中国人たちは、故郷と文化的に大きく異なる土地で、先に行っていた地縁・血縁者を頼ったりしながら生き残りを図っていかねばならなかった。
そんなわけで、地縁・血縁で結ばれた者たちどうしが互いに軒を連ねるマーケットにおいては共存共栄を図るべく、あえてみんなで少しずつ自分の土地を差し出すことで、暴風雨や雪の日でも物流や客の通りを絶やさないようにした、というわけだ。
騎楼も雁木(および町家)も最近では建物の老朽化や商店オーナーの世代交替(あるいは商店街の衰退)に伴い、どちらの地域からも徐々に姿を消しつつあるらしい。とはいえ上記サイトにもあるように上越市も、それこそ華人国家のシンガポールなどでも、先人たちの残したこの「町家」を文化遺産として積極的に保存しようとしている。
もちろん、「観光資源」としての意味合いもあるだろう。だが、経済的合理性から考えればどちらもとっとと都市計画でぶっ潰して、高層ビルやメガストアでも建てたほうがいいに決まっている。なのに何故あえて残すのかといえば、やはりそのコミュニティの生い立ちからの思い出が染み付いたランドマークだからだ。
コミュニティは構成員がみんなで共有できる理念や共通認識があってこそ初めて成立し、続いていくだ。地域コミュニティの場合のそれは「なぜ私たちが今ここでみんなで暮らしているのか」を示す歴史、というか「思い出」。
だからそうした「思い出」の染み付いたランドマークの消失は、地域コミュニティにとっては即ちアイデンティティの喪失につながりかねないし、コミュニティ構成員たちの精神にも重大なダメージを及ぼしかねない(なおかつ、その心理的な影響が地域経済にも悪影響を及ぼしたり、さらには人口の流出→商店街の空洞化・過疎化といった事態につながりかねない)。
厳しい条件の下で生き抜いてきたコミュニティならばこそ、そこに暮らす人々はそうしたことがよくわかっている。だから、労力や財力を投じてでも貴重なランドマークを大事に残して行こうとする。
よそ者の目から見たら「なぜそこまで?」と思うようなことでもあるだろう。でも、それが悪いことだとは、私は思わない。というより、ついに自分の中に明確な「故郷」を持てないまま、常にそうした土地に旅人として訪れることしかできずに終わりそうな私は、素直にそれを「羨ましい」と思う。
――と、また話が少々脱線したけど、それにしても日本海側の雪国を訪ねるたびに、熱気あふれる東南アジアの街での日々を思い出すのだから、我ながら妙な話ではある。さながら「華僑の町家」とでもいうべき「騎楼」。あの涼風が吹きぬける空間を歩く日が、はたして再び私にやってくることだろうか。

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