昨日(3月23日)は、ちょうど20年前に私が通っていた
岩手大学、通称「
岩大(がんだい)」を卒業した日。よく覚えてるねと言われそうだが、当時の岩大では毎年この日に卒業式が行われていたので忘れようがない(今年は土日と重なったからか、先週末の21日に行われたそうだけど)。
それに合わせたかの如く一昨日午後、出身学部の岩大「
人文社会科学部」から拙宅あてに「
創設30周年記念誌」が到着(↓)。
岩手大学自体は、かの宮沢賢治ゆかりの盛岡高等農林学校などに起源を持つ歴史の古い大学だが、私が1980年代に在籍していた人文社会科学部(通称「人社」)は1977(昭和52)年に創立の比較的新しい学部。1983(昭和58)年に入学し、1年留年して1988(昭和63)年春に卒業した私は「第8回生」ということになるらしい。
しかし、いくら新しい学部でも30年もやっていれば卒業生もそこそこの数まで上るだろう。その全員に『記念誌』を作って郵送するのも大変じゃないかと思われるかもしれないが、ただ私の手元には「10周年」でも「20周年」でも記念誌は送られてこなかった(って、別に文句を言ってるわけではないです。すみません)。それがなんで「30周年」では送られてきたのかというと、なんと今回は私がOBの一人として「
学生時代の思い出」を寄稿していたりするからだ。
岩大人社のFさんから去年の7月に電話で依頼があったのだが、ちょうどその日の私は京都で(これもなんと!という話なのだが)学生さんたちを前に「フリーライターという生き方」について授業でしゃべるということをやっていて、妙な符丁も感じたことから、それも素材に活用しながら書かせていただいた。まあ、私の冴えない学生時代の話だけではとてもじゃないが記事にならないとも思ったもんで(苦笑/すみません筒井先生、別のところで勝手にネタに使ってしまいました m:_ _;m)。
旧帝大などを除いた大概の地方国立大学がそうであるように、岩手大学の場合も入ってくる学生の大半は地元(ここでは岩手県を中心とする東北地方)出身者であり、卒業後も地元の役所や学校や企業に就職するケースがほとんど。私のようにわざわざ静岡からやってきて入学し、卒業後に東京へ出てメディア業界もののフリーライターをやってる人間などはおよそ変わり者でしかないわけだが、30周年という節目の記念誌を作るにあたっては「中にはそういうヘンなヤツもいるから、アクセントを添える意味でも書かせてみようか」とでも思われたんじゃなかろうか。卒業後はほとんど母校を訪ねることもなくなったし、同窓会にもまったく顔を出していなかったのだが、一応連絡先は伝えていたせいか、同窓会のほうで白羽の矢を立ててくださったらしい。
で、つらつらと思うままに書いてみた原稿が半年後、上のようないかにもそれらしい表紙の記念誌に載って手元にやってきたわけだが、開いてみたらどうも私の記事はアクセントどころか「おまえ完全に浮いとるぞ!」という感じで思わず赤面した(汗)。
誌面では巻頭の学部長・砂山克彦先生の御挨拶に始まり、歴代の学部長や名誉教授、事務長といった錚々たる方々の手記、そして卒業生や修了生・海外からの留学生の方々(私を含めて12名)による各1ページの「学生時代の思い出」へと続いているのだが、どなたも「学部創設30周年を心からお祝い申し上げます」といった挨拶から始まる大人の文章であるのに対し、よりによってトリを飾る(というか末尾を汚したというか)私の記事だけが
<岩大の、しかも「人社」から電話を貰うなんて何年ぶりだろう――留守電メッセージを聞きながら、思わず感慨にひたっていた。前回はといえば、それこそ北謳寮(引注:当時住んでいた学生寮の名前)
でうだつの上がらぬ日々を過ごしていた最中に、教務課から成績不良だか履修申告の書き間違いだかで呼び出しをくらった二十数年前の現役学生時代以来、ということになるのか?>
とか何たらのおバカな書き出しから始まるのだ。しかも、指定された原稿分量よりも少々書きすぎてしまったため、私の手記部分になるといきなり活字が長体(縦長で、横幅を縮めた書体)化され、何とかページ内に収まるようにギュウギュウ詰めで載せられているのであった。これ、普段の仕事でも「おまえ制限分量無視して書きすぎ!」とか編集者に言われてこういうふうにされることがたまにあるのだけど、よもや母校の記念誌でやってしまうとは。さらには見開き対向が「これからの人文社会科学部―今後の展望―」というのだから、まったくもう読みながら「うわ〜すみません。本当にごめんなさい!」とかって独りで頭かいちゃったぞ(- -;)。
とはいえ、20年間まるで没交渉になっていた母校から声を掛けていただき、曲がりなりにも節目の記念誌のお手伝い(?)をさせてもらったのだから、今回のことはとても光栄に感じております。また、在学中の私を知る先生方や職員の方々、先輩後輩や同級生のみなさんにも、「あの綿入れハンテンを着て授業に出たりしてた岩本って大ヒンシュク野郎は、20年経っても全然成長の跡は見られないまでも、予想に反して道端で死なずにまだ生きてたらしい」という、とりあえずの生存報告をできたという意味でも個人的には良かったのではないかと。
と、まあ自分のことはともかく、いただいた記念誌を拝読しつつ、私が過ごした5年間の前にも後にも、そして今なお、あのゆったりとした緑豊かなキャンパスを舞台に様々な人間模様が日々展開されているのだな……としみじみ思った。
私が岩大に入学した1983(昭和58)年は、前年に東北新幹線が盛岡まで開通したばかりの年。名古屋に生まれて静岡に育ち、高校を出るまで東京よりも東(北)の世界を知らなかった私にとって、当時の盛岡はほとんど「異国」に感じられたものだ(しかも当時は首都圏側の始発駅は大宮で、静岡から行くのはまる一日がかり。10代の子供には「大旅行」でしたよ)。
40代の今、東京・中野に暮らす私は、その気になったら東京駅からいつでも「はやて」に飛び乗り、2時間半後には盛岡に行ける。なのに、もう10年以上もあの街を訪ねていないし、岩大からはもう20年もご無沙汰なんだねぇ……。思い出ってヤツは物理的距離なんぞとは無関係に、今の自分からはまさしく光陰矢のごとくに遠ざかって行くものなんだな。
できたら近いうちにまた、あの「上田の森」を訪ねてみたいと思いましたです。ではでは。

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