遅まきながらだけど、ずいぶん前に観ていたのである。
で、最初に見て「面白い」と思い、数日後に再び劇場へ。やはり「面白い」と思ったことから、さらにもう一回足を向けたくなったほどなのだが、同時にこみ上げてきた別の思いに縛られ、とりあえずはここで「打ち止め」にすることにした。いや、それは何も作品にケチをつけたくなったとかいうわけではないのだ。というのは、なんというかこの映画、率直に言って「怖い」。
まず個人的な「宮崎駿」体験から言うと、私自身はちょうど20歳の時に『風の谷のナウシカ』の「映画版」を観、30歳の時に同「劇画版」完結に遭遇したという世代に当たる。
ちなみに、かのオウム真理教の信者たちにも私とはほぼ同世代(か、やや下)の人間が多く、聞いたところでは彼らの中にも『ナウシカ』のファンが結構多かったようだ。折りしも劇画版が完結してコミックス最終巻が発売されたのは確か1994年の暮れあたりだったが(ちょうどその頃に1ヶ月だけ大阪に住んでいたことがあり、買ったばかりの本を転勤先の職場で仕事をさぼって読んでたのをよく覚えている)、それから3〜4ヵ月後に彼らが起こしたああいう事件のニュースを見ながら「連中は『ナウシカ』劇画版のあの結末をどんなふうに捉えたんだろう?」と思ったものだった。後年会う機会を得た元出家信者の女性は「あの頃は教団の中で『あれ読んでオウムに入らないのって嘘だよねー!』とみんなで盛り上がってました!」と懐かしそうに語っていたが。
よく言われているように映画版『ナウシカ』のラストは完璧に宗教画の世界である。ああいうのを20歳前後の若い連中に見せたら、さながら「はしか」のようにぶわーっと火を点けちゃうというのは、私自身も当時その年代だったからよくわかる(といっても「だから後年オウムみたいなのが出てきたんだ」と単純に結論づけちゃうのもよくないとは思いますが)。
一方の劇画版『ナウシカ』は、最後に来て映画版の結末を180度ひっくり返すオチになっている。というか、大ヒットした映画版をめぐって世間からあれこれまとわりつくようになった諸々の「誤解」に原作者自身が「ばかやろー」と逆撫でしにかかった結果として、ああいうことになったんではないかと当時の私は思った。ある意味で手塚治虫が自身の代表作とされる『鉄腕アトム』を「嫌いだ」と公言していたというのと似た話かもしれない。
事実、正反対の結末なのに映画版も劇画版も共に「名作」として今日なお評価されているのは、作者による作品コンセプト自体がどちらにも確固としたブレなきものとして通底しているからだろう。だからこそ、劇画版の完結直後にオウムがやらかした一連の事件については「はしか」から抜け切れなかった連中がとうとうそこまでやっちゃったか……との思いもあった。連合赤軍事件を苦い思いで眺めた団塊の世代のそれとも似た心情かもしれない。
だからその後『もののけ姫』を見た時には「あ、なるほどね」と思った。あの結末は独立した一つの作品のラストとしては「何それ?」というものだったけど、たぶん作者は『ナウシカ』が結果的に映画版と劇画版とで抱えざるを得なかった分裂を、この作品によって何とか映画というメディアにおいて「落とし前」をつけたかったんじゃないかと(その意味ではあの時の予想外の観客動員数とか「引退宣言」をめぐるドタバタには本人も戸惑ったんではなかろうか?)。
……と前置きが延々と長くなってしまって本当に申し訳ないが(汗)、ここでようやく本題の『ポニョ』について言えば、あのラストには正直『ナウシカ』『もののけ姫』のラストに提示されたものが「そこへ行ったか!」という感銘を受けた。
あれはようするに、先日亡くなった赤塚不二夫の作品世界におけるオチなんですよ。
即ち「
これでいいのだ」と。とうとうその境地に行っちゃったのか……というところが、何だか怖い。
ここもたぶん、宮崎駿という人について世間の多くが誤解している部分ではないかと思うのだけど、彼は基本的にストーリーの妙味で魅せる人ではない。むしろストーリーの書き手としては完全に破綻しているというのは、それこそ『ナウシカ』劇場版などをずっと読んできた人ならすぐにわかるはずだ。
宮崎駿という人は基本的にストーリーテラーというより、作品世界の凄絶な奥行きを織り成すイメージ構築力の豊穣さで魅せてくれる作家ではないかと思う。実際、物語としての完成度で見た場合、彼の作品は今ひとつバランスが悪くて、あの出世作ともいうべき『風の谷のナウシカ』にしても、今やエバーグリーン的作品に昇華した『となりのトトロ』にしても、劇場で最初に見た人の多くは「なんでそこで終わるのさ!」という感想を持ったに違いない。しかし、そんな目先の感想なんぞすぐに跳ね飛ばされてしまうくらい、彼が作品の中で構築する「小宇宙」には圧倒的なエネルギーが満ちている。
今回の『ポニョ』にしても、ストーリー的には必ずしも完成されていなかったと思うのですよ。はっきり言ってクライマックスらしき部分があやふやだし、あの老人ホームのお婆さんたちが「どうやってあの世界に行った?」というプロセスは描かれていない(一人だけへそ曲がりなお婆さんが居残って喚いているという描写で何とか繋いでいるけど)。
何より「主人公」と「ヒロイン」の「母親どうしの対話」という、ストーリーの中で本来なら最も重要なはずの対話の内容が、ここではブラックボックスとして伏せられている(この作品中、エキストラ以外の主要登場人物の間の会話内容が観客に伏せられているのは確かこのシーンのみ)ことについては、観ながら「ずるいな〜」と「上手いな〜」という両方の感想を持った。
だってね。こうなっちゃって後はどうすんの? って話ですよ。街は完全に水没しているし(死者何人出たんだ?)、月は異常なまでに接近してきてるし、何より主人公は5歳の若さで「人魚」の身元引受人に、それも母親立会いのもとで本人は何も考えないままに同意しちゃったし……という凄いシチュエーションなんだけど、そこも「これでいいのだ」的にまとめ上げられている。
けれども、そこもこの作品では上手く回収されている。これも話題になっているように、本作は昨今のアニメではありえないオール手書き(CGなし)で、しかも背景画やメカについても敢えて漫画的にデフォルメされている。途中のカーアクションなんかもたぶん意図的にやったんだろうというくらいに漫画的だし(単純に作劇的に考えるならここまで極端にやる必要はなかった)、とにかくリアリズムの見地から下らんツッコミを入れてきそうな輩に対しては「お前はスッこんでろよ」とでも言うような開き直りが感じられた。
そのくせ車とか建物とか、湧き起こる津波の描写における「シズル感」は正直凄い。これもCG作画に慣れた者たちに「どうだい手書きも。真似してみるかい?」とでも言わんばかりのものを感じた。表現を「身体化」するってこういうことなのか……。
例によって「このシーンには実はこういう意味があるんではないか」てな分析やら「この描き方に宮崎駿の限界がある」みたいな批評やらが出てきているみたいだけど、その位相でいくらやったところで釈迦の掌の上で暴れる(ことによって小遣いを稼ぐ)ぐらいのことにしかならんだろう。
だから私は、一応表現者の端くれとして、ここまでやっちゃった宮崎駿という人には本当に畏敬の念を覚える。畏敬というか、ちょっと畏怖にも近いかな。ここまでやってしまい、はたしてこの先には何があるんだろう? と思うだけでも――怖い。

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