10年ぶりの再訪だった。というか、いつの頃からか「ここには10年に一度来よう」と決めていた。
名古屋市の中心部「栄(さかえ)」の、久屋大通公園にそそり立つ「テレビ塔」の真下にある「栄町(さかえまち)駅」から東に約20km、俗に「セトモノ」などと呼ばれて有名な窯業(焼き物)の街・瀬戸市に至る
名鉄瀬戸線という私鉄路線がある。この線のちょうど真ん中あたり、名古屋市北西部の守山(もりやま)区内にある「喜多山(きたやま)」駅周辺が私の再訪先だった。
ただの住宅街と工事現場にしか見えないだろうが、実はこの場所こそが、この極めてくだらない日記をウェブ上に連日書き連ねている岩本太郎(フリーランスライター)という男の「原風景」だった場所なのである。
上の工事現場となっている敷地は、喜多山駅から線路沿いに西へ徒歩5分ほどの住宅街にある。ここに1960年代後半、当時の電電公社(現在のNTT)が社員向けのアパートを建てた。そして完成直後のこのアパートへと引っ越してきたのが、数年前に社内結婚で結ばれ、この時には2〜3歳だった長男坊、すなわち私を連れた両親だった。
そして、アパートのすぐ横を行く線路を駆け抜けていく電車たちを、アパート4階のベランダからわくわくする思いで眺めていたのが、ちょうど物心つく頃だっただから2〜3歳頃の私だった。ベランダからは、アパート前の踏切を駆け抜けていく電車たちの姿がよく見えたし、幼心にもやがてそのうち、ベランダまで出なくても走行音だけで、「あ、あの電車だ」とわかるようになってしまったほどだ。今日の「鉄」ヲタ中年・岩本の源流はまさにこの踏切(↓)から始まっているのである(笑)。
それにしても、10年前に訪ねた時はまだアパートもしっかり残っていて(当時で既に築後30年経っていたとは思えないくらいに外装もきれいにリフォームされていた)、かつての私と同じように、ここに住む社員家族の子供たちが元気に敷地内を遊んで駆け回る姿が見られたのだけど、それが今や4棟あったアパートが根こそぎ消失し、御覧の通りの状態である。跡地には何が建とうとしているのか、どこかに掲示があるかと思って探したものの見つからなかった。
唯一面影を残すのが上記の踏切というわけだが、実はこれも近々姿を消すという。というのは喜多山駅周辺の瀬戸線を高架化する計画が既に進行中だからだ。
かつて通っていた幼稚園や小学校は、さすがに建物は変わったものの基本的には往時の佇まいをよく残していた。もっとも、20年前に訪ねた頃まではどちらも正門が開け放たれていて、部外者(というか一応私はOBだ)がふらりと敷地内に足を踏み入れても別段怪しまれるふうでもなかったが、さすがに今はそうは行かない。
小学校の校内では、ちょうど昼時とあって給食当番の割烹着を着た児童たちが大声ではしゃぎながら元気よく駆け回っていた。おお、まさしく私の一番若い後輩たちだ。一瞬、塀越しにカメラを向けたくなるが、ふと見ると近くの柱に「防犯カメラが作動中」などという表示があったりする。
結局、私はこの街で誰とも会うことも交わることもない。いつもそうなのだ。住む場所にしても仕事にしても、たぶん友人関係や恋愛関係にしてもそうだが、私は一時期深く身を置いたところと一旦離れた途端、ことごとく無関係になってしまう。そんな人生が、まさにこの街から始まっている。
喜多山駅は、呆れるくらい昔のままの姿で残っていた。おしっこを漏らしそうになった私が慌てて駆け込んだ構内のトイレもそのまんま。変わったのはホームが東方向の瀬戸よりに長く継ぎ足されたのと、改札口が自動改札に変わったことぐらい。ホームに佇んでいると、30年前にタイムスリップしたかのような感覚すら覚えるほどだ。
ただし、この駅の東側にあった車両基地(これも私のお気に入りの場所だった)は、少し前に瀬戸線のさらに東のほうへと移転しており、古びた木造の車庫が並んでいた場所は既に更地となっていた。ショッピングセンターやアパートが併設されていた喜多山駅ビルも、駅施設を除いて既に閉鎖されており、ホームからベランダに干された布団や洗濯物が見えた光景も過去のものとなっていた。ここも数年後には、おそらくどこの都市部の私鉄沿線にもよくある平凡な高架駅に変わっているのだろう。
瀬戸線はもともと「瀬戸電気鉄道」という私鉄が運営していた路線を、後に名鉄が吸収合併したという生い立ちを持つ。だから沿線の地元ではもっぱら「瀬戸電(せとでん)」という愛称で呼ばれていた。名古屋市を中心に広い路線網を有する名鉄の中では唯一他の路線と接続しない離れ小島のような存在であり、そのせいか、30〜40年前までは本線で使い古したらしい明治・大正製の旧型車両が、あたかも姥捨て山の如く投入されていた。なにせ私が幼稚園ぐらいの頃まではドアが自動で作動せず、駅に着くたびに車掌さんがいちいち手動で開け閉めしていた車両すらあったほどだ。
そんな中でも、ここの路線の担当者たちは意地とばかりに様々な営業努力をしていたらしい。本線から回ってきた往年の旧特急車両を赤地に白帯という派手な塗色を施し、本線のパノラマカーのような特急表示とミュージックホーンも装着させたうえ、途中の区間をノンストップに近い形で突っ走る特急電車として売り出した。
この特急電車が喜多山駅に停まらないのを子供心にも不満に思っていた私だが、先に述べたようにこの路線の車両基地が喜多山駅にあったため、特急電車が車庫に出入りする様子をホームから眺めたり、たまに回送ついでの普通電車に使われていたりした際には大喜びで乗り込んだものだ。
また、もう一つこの路線が面白かったのは、名古屋市街地の始発駅最寄の区間が、当時は何と名古屋城のお堀の中を走っていたことだ。市街地に向かって走っていたはずの電車が、ターミナルに近づくに従って何故か両脇をジャングルのように草生した斜面に挟まれるようになる。そんな車窓が幼い目には凄くエキサイティングで、ご近所の人と親子同伴で市内のデパートに出かけた際などには、幼なじみと一緒に窓の外を見ながら「ここに秘密基地があるんだ!」などとおおはしゃぎしていた覚えがある。
何で秘密基地なのかというと、当時テレビで放送されていた『ウルトラセブン』に出てくる野山の中の秘密基地や、『サンダーバード』に出てくる国際救助隊のトレーシー島が頭にあったからだろう。時は昭和40年代(1970年前後)の、まだ高度成長下の壮年期にあった、日本。
そんな日々が突然終わりを告げたのは1974(昭和49)年の元旦早々、父が病死したことによる。一家の大黒柱を失い、名古屋に親族のいなかった岩本家は、その翌月には父母の兄弟たちが多く住む静岡市へと慌しく引っ越すことになったのだ。正直、あの経験は今も私の中では「ブツッ!」という激しい断絶の音とともに残っている。
そして、あの愛すべき瀬戸線の車両や線路にも間もなく転機が訪れた。4年後の1978(昭和53)年、瀬戸線は都心側のルートを件のお堀区間から、冒頭に書いたテレビ塔直下に建設した地下駅から出る新路線へと変更。それと前後して車両も新車などを導入してほぼ総取替えするリニューアルを断行したのだ。
その時点では既に中学生になっていた私も、慣れ親しんだ電車たちがなくなるとの話を聞き、なけなしの小遣いをはたいて静岡からわざわざ訪ねていったものである。
で、その際に新車として導入されたのが、一番上の写真に撮った6600系という電車なのだが、以来30年を経た今、この電車もまた次の新たな世代の車両によって置き換わることになったという。帰路の喜多山駅には、まるで東京都内を走る地下鉄や私鉄の新型車両と全く変わらぬステンレス車体のその電車が停まっていた。かつて古色蒼然とした旧型車両が発着していたそのホームにやってきた新時代の電車を、やがて消え行く喜多山駅舎はどんな思いで見つめていることだろう。
この街に「10年おきにやってこよう」と思ったのは、特に根拠のあったことではない。東京で就職して社会人になった24歳の時にふらりと気が向いてやってきて(確かその時は5年ぶりぐらいの再訪ではなかったか)、大人になってしまった自分がこの街を歩いていること自体を凄く不思議に感じた覚えがある。その次の34歳の時は、ちょうど死んだ親父がこの街に住んでいた頃の年代になっていて「あの男はあの頃、ここに居を構えて瀬戸電で毎日通勤しながら、何を考えていたんだろう?」と、通りを歩きながら思いをめぐらした。
そして44歳の今回は? というと―−実はまだ胸中にある複雑な思いを上手く言葉で表現できずにいる。既に文章を書く仕事について20年にもなるのに、なんとも情けないことだ。
ただ、一つだけ決めたことがある。これからは10年おきと言わず、その気になったら、来たくなったら、いつでもこの街を訪ねることにしよう、と。もはやこれからは、いつが「最後の訪問」になっちゃうかもわからないのだから。それに、建物や街並みは変わっても、たぶんこれからもこの街の上には、かつて毎日見ていたのと同じ、あの空がある。

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