相変わらず静かな地下室にも、昨年末あたりから来客が増えている。もとい、「客」は本来私のほうであって、本来の主であるA社社員の方々が上階や他の部局からやってくる機会が多くなってきたのだ。社史編纂作業は佳境に入っている。
ただ不思議なのは、やってくる人の大半が(秘書のYさんや「先生」などを除けば)私とは初めてお会いする人たちばかりなのに、何だか「初対面」という感じがあんまりしないことだ。
それは今回の仕事を始めてからまだ1か月ぐらいしか経っていなかった昨秋、都内の某ホテルで行われたA社グループの社員数百人による社内集会(といっても酒や料理を囲んだ、いたって砕けた雰囲気の立食パーティだったが)に参加した際にも覚えた感触だった。まあ、既にそこまでの時点でも連日地下室で大昔からの社内報などを引っぱり出しては、社員の写真や手記、あるいは過去の社内行事についてのレポート記事などを延々読み込む日々が続いていたわけだから、むしろそうした思いになるほうが当たり前なのかもしれない。
先日も地下室にやってきたベテラン社員のかたと「○○事業が○年頃から本格化した背景にはああいう事情があったわけじゃないですか」みたいな会話を、たった半年ここに出入りしただけの門外漢のくせに臆面もなく交わしている自分に気づき、内心思わず肩をすくめたものだ。
もっとも、私をそんな心境に至らせる背景には、たぶんA社が持つ独特の企業風土もあるのではないかという気もする。何というかこの会社には一種の「コミュニティ」の存在を、社内資料からも実際に会った社員の方々からも濃厚に感じてしまうのだ。
例えばA社グループでは、上に書いたような社員間での親睦会的な行事が割と頻繁に(最近ではかなり減ったとはいうが)開催される。社員旅行や運動会、新年カルタ大会、社員の家族ぐるみでの懇親会や郊外でのキャンプツアー、納涼ビアパーティなどなど、枚挙にいとまがないほどだ。また、社内サークル活動も創業以来やたら活発で、野球部だのコーラス部だの茶道部だの剣道部だの合気道部だのと本当にもう大学のサークル並みにいろんなものがあって、時には「グループ内対抗野球大会」とかをやったり、そのためのサークル合宿もやったりするくらいの力の入れようである(汗)。
などと書くと「そんなにヒマな会社なのかね?」と思われるかもしれないが、実態はとんでもない、この会社の人たちはとにかく真面目によく働く。
朝は毎日8時台からきっちり朝礼もやってるようだし、会合などの時間厳守ぶりや、仕事先や上司への礼儀作法の厳しさなどはそれはそれはもう徹底している。だらしないライター生活がすっかり身に染み付いて久しい私などは連日おずおず昼過ぎに「出勤」するのが後ろめたいほどだ。秘書課長のYさんも社の内外を息つく間もなく駆け回った挙句に連日終電で帰宅しているようだし、本当に大丈夫かなと心配になってくるくらいだ。
にも拘らず、この会社は仕事と直接関係のない社内レクリエーション行事に対しても明らかに本業並みの精力を、全社を挙げて注いでいるのである。
ちなみにA社グループには創業以来、内部に労働組合が結成されたことがない。親分肌の創業者が労組嫌いだった(何しろ民族派や保守政治家との親交も厚い人だったし)ということもあるが、それ以前に、そもそも社員の側からも労組の結成に向けた動きが立ち上がるといった例がついぞなかったらしい(反面、独特の社風に馴染めずに辞めていった社員もまた多いようだが)。
その代わりにというか、A社にはグループ全体に行き渡った、かなりかっちりとした社友会的な組織が存在する。といっても、その全体のトップは創業者が勤めていたので労組の代替になるべきものではないのだが、面白いのはグループ内各社にもその社友会的組織の役員がそれぞれの社員の中から、しかも取締役会などの本業の役員人事と別枠に選出されてきたということだ。ある種の二重権力構造とでもいうべきか。で、もはやおわかりかと思うが、上記の社内行事の運営母体も、この社友会的組織が担っている。
で、またこの社友会的組織の全体および会社別会合が、それこそ本業の役員会ばりの頻度および気合の入れ方で開催されているのだ。よそ者の私が社内報などでその様子を読むに「いったいこの人たちにとって会社ってのは仕事をしにくる場なのか、それとも行事をしにくる場なのか……」といった当惑を随所で必然的に覚えざるを得なくなる。
で、おそらくここまでを読んで「ようするにトップが旧共産圏ばりの密告組織を社内に作ろうとしたんだよ」と思われる向きもあるかもしれない。まあ、確かに読みながら「これ、一歩間違うと民青のノリだな」とは私も最初に思ったしな(ただ、会合の締めにはみんなで肩組んで軍歌を歌ったりするあたりは全然民青的ではないが)。
もっとも(あまり詳しくは書けないが)その他もろもろの話からも察するに、どうも本質にあるのはそういうことでもなかったようだ。むしろ単純に創業者がそうした在り様を好み、社員たちも自ずとそれを受け入れた。即ちそれが自分たちの拠るべき「コミュニティ」なのだ、と。
創業者自身も、貧しい家庭に生まれ育ったことから幼少期の頃からかなり苦労をしてきた人物だ。10代で丁稚奉公に出され、戦時中は召集されて海外の戦地まで赴き、復員して戻ってきた戦後混乱期の東京で、兄弟親戚や友人たちを手元に招いて、とりあえず「みんなで食べていくため」にA社を興した。
その後、A社は日本の高度経済成長と歩調を合わせるかのようにどんどん社業や業績を拡大し、それに対応する必要から、どんどん社員を採用した。で、そこで採用されたのが、1950〜70年代にいわゆる「集団就職」で地方から上京してきた中卒や高卒の弱冠10代の若者たちだった。
「故郷を離れて東京にやってきて、はや○か月が経ちました……」
「仕事から帰ってきた夜、床につくたび思い出すのは実家の家族や兄弟、世話になった学校の恩師や友人たちでした……」
人目に触れるのも何十年ぶりだ? といった感じに色あせた社内報のページをめくりながら、そんな往年の若手社員たち(今や管理職か、そろそろリタイヤの時期かという世代の人たちだ)を何本も目にするうち、静かな地下室で一人、「この国における会社って……」と、思わず溜息をついた私だった。
というのは、上記の通りこの会社および社友会的な組織はそうした田舎から出てきたばかりのまるっきし丸裸な10代の若者たち(それも今と違って身近にゲームもケータイもカラオケもない、一人で遊べる娯楽が何もなかった時代の)を大量に受け入れたうえで、賄いつきの独身寮や社員食堂などの衣食住を与え、さらには上記のサークル活動や社内行事を通じて「サラリーマンの娯楽」を教えた。そうこうするうち、西も東もよくわからぬまま故郷から都会に出てきた若者たちは「社会人」として育てられていき、後には彼らがA社グループの急成長を支える担い手になっていった。
(ちなみに、そうしたことからも想像がつくのではないかと思うが、このA社グループでは社内結婚率も結構高いみたいだ ^_^; でも20歳そこそこで田舎から出てきた壮年期の男女が一緒の職場で働き、なおかつサークルだキャンプだで一緒に過ごしてたら、そうなるのも無理はないところではある)
でだ。そうしたA社関連の話を地下室で読み込みながら私の脳裏を必然的によぎったのは他でもない、この仕事を始める直前の昨年夏に起こった、秋葉原ダガーナイフ事件のことだ。
派遣社員だった秋葉原の「彼」は、派遣先の職場での「更衣室に自分の作業服が見つからなかった」云々のことが発端となり、最終的に犯行に及んだとされている。
それについてはもちろん報道を通してしか分からない話だし、決して断定的なことは言えない。とはいえ、そんな「彼」が直面していた今の非正規雇用者をめぐる実態と、上に紹介した往年のA社の若手社員たちを取り巻いていた環境とは、ある意味で互いに全く対極に位置する世界なんじゃなかろうか――。読み込んだデータをもとに頭の中であれこれ推敲した社史原稿用のストーリーを、糸車で紡ぎ出すかのようにキーボードで叩き出しながら、脳裏のもう一方の片隅に、そんな思いがこびりついて離れない日々がしばらく続いたものだった。
また、そこでは関連してもう一つ、少々思ったことがある。
おそらく、上に書いたようなA社の経営姿勢というのは、一昔前だったら、いわゆる「進歩的」な文化人やら論客の人たちが徹底的に批判を加えられた在り様ではなかったかという気がするのである。いわく「個人の自立や尊厳を認めずに、『会社が家族』として社員の何から何まで抑えちゃってる企業のありかたはケシカラン!」と。
ところが秋葉原事件あたりから先般の「派遣村」へと至る論調を横目で見ていると、どうも以前なら上記のようなことを言ってたであろう人たちが、今は逆のことを言ってるんじゃないか? という気もしてくるのだ。即ち「企業が個人の面倒を見るのをほったらかしにしたのが悪い!」と。
思い返すに、小泉政権以降にとりわけ強まった規制緩和・自由化への潮流が、A社のような「家族的企業社会」に対してかつてなされた批判を、ある意味で追い風的に上手く取り込むことで進められた側面は否定はできないだろう。
などと言うと「小泉改革やグローバリズムによる負の遺産の責任を我々に押し付けようというのか!」と気色ばむリベラル方面の方がたもいるかもしれないが、別に今さら彼らの整合性のなさや見通しの甘さを殊更にあげつらおうとかいうつもりもない(まあ連合も今になって派遣法改正を容認したのを反省しているそうだし)。
ただ、規制緩和を進めてきた側にせよ、それに反対を唱えてきた側にせよ、おそらくこれまであんまり考えてこなかった部分があったんじゃないかと思うのだ。即ち「日本では戦後このかた『地域共同体』や『家族』ともども『会社』が社会の基礎単位をなすコミュニティとして機能しており、それはそれで必然的に生まれてきたものなのだ」ということについては。
敗戦やら、その後の農地改革やら何やらで古くからの秩序基盤があれよあれよとガタガタになっちゃった戦後の日本社会で、それまでだったら地域コミュニティの枠内にて何とか受け止められていた若者たちが、集団就職という形で都市部に連れてこられて、工場労働者として働きながら日本の高度経済成長を支えてきたわけですよ。
家督や田畑を継げる長男以外の、農家に生まれた次男・三男たちは中学や高校を出るや、わけもわからず都会行きの集団就職列車に載せられ、東京でいえば上野駅あたりで待ち構えたおじさんたちに引率されるまま、西も東もわからない場所の社員寮に連れて行かれたあげくに「明日から真面目に働くんだよ」と言い含められる……というのが、この国でも1970年代あたりまではごく当たり前の光景として存在した。
だから、そうした状況下では必然的にA社のような企業が「コミュニティ」として、丸腰状態で田舎からやってきた10代の若者たちを社会にソフトランディングさせるための揺り籠としての役割を果たさざるを得なかった。おそらく、自身も複雑な家庭環境のもとから10代で丁稚奉公に出された経験を持つA社創業者は、そのことを本能的に理解していたのかもしれない。労組嫌いの彼が民族派との親交を深める一方、上記のような社友会的組織の育成に力を入れていったのも、そう考えれば頷けるところがある
「欧州型の近代的『個』の自立を、って『知識人』とかいう連中は言うけどさ」
打ち合わせのために上階から地下室に降りてくる「先生」との間では、よくそんな話で盛り上がる。豊富な教養と見識を持つ「先生」は、一方でA社の創業者を社員以上によく知る人でもある。
「でもそんな、企業からも地縁からも独立した確固たる『個』として自立せよ、なんて言われたら、おそらくこの国の大半の人間は、それを受けとめられずに破綻しちゃうんじゃないか?」
同感である。地続きの大陸を舞台に何千年もかけて民族間の抗争やら市民革命やらをやってきた欧州型の「個」だの「人権」だのをそのままこの国に持ち込んで、そのまま彼の地と同様に受け入れられ機能していくと思うほうが間違いだ、というべきだろう。そもそも前提となる「コミュニティ」と「個」との関係性が彼我で全然違うんだから。
といっても「先生」も私も、A社社員の方がたに象徴される日本の労働者一般のことを別に蔑んでいるわけではない。
それどころか、むしろ私は、こうして戦後何十年も、自らに用意された環境のもとで日々こつこつと働きながらこの国を支えてきた人々に対して、何ら偽らざる畏敬の念を抱いているのだ。「物書き」などという“虚業”に勤しむしかない私などより、それははるかに胸を張って生きられる仕事だし、その対価として彼らが獲得したもの、例えば安らかな家庭生活などこそが、実はこの国を根底から支えていることのだから。
で、そこでもう一つ必然的に生じてくる問いがある。つまり「そう思うなら、お前もそういう人生を初めから歩んでいたらよかったんじゃないの?」と。
それに対しては「その通りです。でも、できませんでした」が答えになる。
実際、A社のことを社内資料や社員の人たちからの話を通じて知っていくうち「私もこうした人たちと一緒に日々の生活を営める自分だったらどんなに幸せだっただろう」と痛感させられたことは一再ではない。
とはいえ、では私自身がA社の社員だったら? などと仮想するや間もなく「やめてくれ〜!」と思ってしまうのである。絶対あっちのほうがまともで幸せで、世の中にも尊敬される生き方に違いないと思うのに、それでもそこへ行けない自分がいる。
私は――引き裂かれている。
とりあえず「静かな地下室」での仕事は当初予定よりも少し伸び、3月まで続くことになりました。ともあれ、ラストスパートだな。気合いれていくぞ! ではでは♪

0