久々に鳥居達彦さんにお会いした。水曜日の夜、実に2年半ぶりの音信となる電話が自宅まで突然かかってきたのだ。簡単な原稿仕事を1本頼まれたついでに「一度会おう」とお誘いをいただき、翌日夜に銀座のバーで会うことになった。
鳥居さんはかつて電通の社員で、広告業界誌編集者だった私は、その当時より何度か取材でお世話になっていた。雑誌広告を扱う「雑誌局」に長らく在籍していた関係から、大手出版社の広告営業担当者はもとより、週刊誌の編集者や記者たちとも幅広く付き合い続けてきた人で、自ら電通の“裏広報”と自認するほど出版業界内における広範な情報ネットワークを有していた。その一方では自分のバンドを組んでライブハウスで「ダイアナ」を熱唱したり、独り身の気軽さから女性たちとの浮いた話も絶えない(というか自分でどんどん喋ってたような気もするけど)など、その独特のキャラクターから業界の“名物男”的な存在として結構人気のある人でもあった。
その鳥居さんの名がマスコミ業界を超えて一般メディアでも大きく報じられるようになったのは、皮肉にもその電通を辞めてからだった。2003年春、まもなく定年を控えていた鳥居さんは突然会社から「武富士への転籍」を言い渡される。当時、マスコミからの批判報道に苦慮していた武富士の武井保雄会長が、ゴルフ仲間だった電通の成田豊会長(当時)に「マスコミ対策のエキスパートをウチにくれないか」と持ちかけ、その結果、かつて結婚した際に仲人を務めてくれたという成田会長からの
トップダウン人事が鳥居さんに下ってしまったのだ。
(後日注:「トップダウン人事」というのは鳥居さん自身が当時そう説明されていたことだけど、後で御本人から聞いたところによると実際には「会長から直接名指しで選ばれた」という意味でのトップダウンではなかったそうです。ただしこの辺は正確に説明しようとすると電通内部のやたら泥臭い話になり、読んでる人の多くには何が何やらわからなくなりそうなので省略)
で、当初は出向(後に転籍)という形で武富士に転身した鳥居さんから、どういうわけか私あてにいろいろ話が持ち込まれたために苦慮した時期もあった私わけだが(詳しくはこちら→
http://wind.ap.teacup.com/taroimo/32.html)、その後ほどなくして武富士経営陣と決裂・退社のうえ行方をくらませてしまった鳥居さんとは、その後はさっぱり音信普通になっていた。それが突然ここにきて御本人から昔と全然同じノリで連絡をもらったというわけだ。
しばらくぶりに会った鳥居さんは実に元気そうだった。既に60の大台を越え、武富士を辞めた後には心筋梗塞で入院した時期もあったそうだが、最近結婚した奥さん(20歳近く下の外科医)の支えもあって順調に回復。現在は中堅クラスの某広告会社の顧問を務めているが、電通時代から培ってきたネットワークも寄与してか、何かと重宝されているらしい。
「今となっては、あれ(武富士問題をめぐるゴタゴタ)を経験したのがよかったと思う」と鳥居さんは言う。それまでの広告業界ドメスティックな視座だけではなく、さまざまな世界を見聞きするきっかけになり、むしろありがたかったとのこと。
他方で私のブログも一応チェックしているんだそうで(笑)。私が寺澤有さんや三宅勝久さんといった、武富士問題で自分が「天敵」として対峙したライターたちと組んで「共謀罪」問題に関わっている件も知っているようだった。
「寺澤くんたちとも一度じっくり会いたいねえ」と言うので、「私が取り次いだところで鳥居さんとすっきりした形で会えるまでには時間がかかるでしょうよ」と言ったら苦笑していたけれども。
まあでも、鳥居さんの元気そうな顔を見れたのは久々だったし、それはそれで何よりだったなあ……と思った次第。

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