新宿駅東口「マイシティ」(近々「ルミネエスト」に名前が変わるんだとか)前広場にあった看板。ここは結構ちょくちょく通りかかっている場所なのだが、既に立てかけられてから久しいらしいこの看板には先日初めて気がついた。長年の風雪に耐えてきたからか、「このあたりは」が「このあたりょ」や「このあたりま」と一瞬読めてしまいそうな状態ではあるが。
それにしても、東口の「このあたり」は昼間はもちろん、夜から明け方にかけても人通りは結構あるし、歩くのにそうそう物騒な思いをしなければならない場所でもない(何たって駅の真ん前である)。別に防犯カメラを設置するなとは言わないけど、そういうところでわざわざこういうことを謳いあげる意義というのは何なんだろうか――と一瞬思った。
というか「このあたりは」なんていう漠然とした示し方ではたして良いのだろうか、とも次の瞬間に思った。「この先北側○メートル先の角から、南側○メートル先の信号機のあたりまでは防犯カメラが皆様の安全を24時間見守っています」(=そこから先のエリアについては皆様の安全は見守られていません)と書いたほうが通行人にとっても親切ではないのか?(って、まあ悪いことしようとする通行人にも親切になっちゃうってことなのか)
さらに言うならこの看板、いったい誰が掲出したんだ? 警察か、地元の商店組合なのか、その辺についての標記が全然見当たらないではないか。そうした状態で「皆様の安全を24時間見守っています」と言われても「そう言うお前は誰なんだ? 信頼できるのか?」と突っ込みたくなってしまう。
しかしまあ、こういう看板が堂々と街角に立てかけられている状況を、今では「当たり前だ」とか、むしろ「大歓迎だ」と思う人のほうが断然多いんだろう。「近ごろは変な犯罪が多いからねえ。怪しい奴はカメラで見つけてどんどん取り締まっちゃってよ」というわけだ。
(でも「防犯カメラがあることで犯罪発生率がこれだけ低下した」といった、信頼に足る明確な統計ははたしてどの程度あるんだろう? 「防犯カメラのおかげで犯人が捕まりました」っていう話は聞くにしても、よく考えたらそれって「防犯カメラがあっても結局そこでの犯罪は防げませんでした」ということでしかないと思うんだが。単に「犯人が捕まえやすくなった」ということだけであって)
「監視社会」というものを批判する人々の多くは「権力によって個人が監視の目に晒される」といった文脈からの批判をもっぱら展開する。
確かに、それは非常に大きな問題だろうと私も思う。ただ一方で、むしろ現象としてはこっちのほうが怖いかもしれないと思うのは「監視されることが当たり前」だと思う人のほうがマジョリティであることに加え、「その監視を行う主体とはいったいどこの誰なのか」について、ほとんどの人が無頓着になってしまっているように見える、という点だ。
実は先日、『GALAC』の取材で東浩紀さんにお会いした際にもそういう話が出た。
東さんは年齢的には私よりも7歳若い、気鋭の論客だ。実際に直接会って話してみた印象でも、その思考には、私と同世代かそれより上の人々に比べると、かなり柔軟なものがあると感じた。
例えば彼は「監視社会」というテーマについて「それを支える技術自体がどんどん進化している以上は、監視社会化そのものがダメだといってもどうしようもない。むしろ問題は、その監視を行う主体をどのようにコントロールするかだ」といった立場をとる。コントロールとはつまり、政治や警察などの権力機構はもとより、特定の誰かによってそれが恣意的に利用されないよう、市民社会全体の合意の下での運用がなされるようにする、ということだ。
さらに、監視技術導入の目的は本来「多様性の担保」におくべきものだったはずで、「監視によって逆にマイノリティを排除するようなことがあってはならない。逆にこれまでだったらとても共存できなかったようなマイノリティとも隣人として上手くやっていけるためのものにしなければならない」とも言う。むしろ監視技術による監視がダメだということになると、逆に「あいつは外国人だから危険だ」とか「茶髪の高校生だから危ない」とかいう矮小な選別が横行する。だったら監視技術の賢い使い方を模索したほうがいいんじゃないか――という主張だ(ただし以上は私が東さんから直接聞いた話や、彼の著作を読んだうえで理解した範囲内でまとめた記述。細かいニュアンスが違ってたらすみません)。
かなり思い切った発想の転換で、いきなりついていくのは結構難しいかもしれないけど、私としては正直なところ頷けるところが多かった。というのも、以前の「個人情報保護法案」をめぐる議論の時もそうだったが、もはや状況は「権力が個人情報を握ってコントロールするから良くない」といった次元だけではとらえられなくなってきているように思うからだ。
それこそ最近のWinnyによる情報流出騒ぎなどにしてもそうだが、現在では本当にいつどこから自分の個人情報が外に出回ってしまうか、まるでわからない状況になってしまっている。だからといって、あれを規制しろ、ここを改めて防御せよと対症療法的にやったところでイタチゴッコになるのはほぼ目に見えている。だとすればいっそのこと、ウェブには一切アクセスするな、パソコンにも触るなというところまで行き着くしかないわけだが、すでにそれらによる利便性を享受し、それが普段の生活を行ううえでの前提条件になってしまっている我々には、今さら後戻りすることもできない。
携帯電話を持っていたら行動範囲が筒抜けになってしまうからといって、Amazonで本を買ったら購入履歴がバレバレになるからといって、「じゃあ今後一切使うのをやめよう」という話にはなかなかならない。というか、今ではみんなそうやって自分の情報がある程度外に漏れることはやむをえないという暗黙の了解のうちに生きているのだ。特定の権力の手にさえコントロールの主体がゆだねられなければOK、などという呑気な時代ではもうないのだ(私だってこないだ携帯を電車の中に置き忘れた時には「やべー、知り合いみんなの情報が出まくっちゃうかも!」と焦ったわけだし)
――と、新宿の街角に立ってる看板の話からずいぶん離れてしまったので元に戻すと、そうした文脈から捉え直すに、あの看板の言ってることは「極めて中途半端であるがゆえに、却って危険」なのだと思う。むしろ監視をするならするで、さっきも言ったようにその主体がどこか、どういう目的で、どのくらいの範囲で行っているのか、もし問題が生じた場合には(あるいはもし効果が上がらなかった場合には)どう責任をとるつもりか……といったことを逐一細かく説明する責任があるというものだろう。そもそも文字が一部剥げ落ちたりしたのをそのまんま放っておくようでは、こいつらはたしてどこまで頼りになるものやら……と不安を覚えずにはいられまいよ。

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