相変らず飯田進さん(
12月26日付「『魂鎮の人』との語らい」参照)への取材は続いている。先月は横浜の汐見台にある飯田さん宅まで、若尾さんと一緒に2回に渡っておじゃまし、それぞれ2時間以上も話を聞いた。また今月の初めには、飯田さんが理事長を務める神奈川県児童医療福祉財団の総会があると聞き、JR当日は東神奈川駅前のホールまで2人でわざわざ出向き、“仕事モード”の飯田さんがステージ上から財団の職員たちに講話する様子を取材した。
取材中、若尾さんはひたすらビデオカメラを回し、私は飯田さんと向き合いながらひたすら聞き役に徹している。あくまでビデオカメラマンとしてのスタンスを貫く若尾さんは「とにかく僕は飯田さんを撮りたいんです」と言い、撮影中は自ら質問することはほとんどない。当初はそのスタンスが今ひとつよくわからなかった私であるが、何度か飯田さんにお会いするうちに、だんだんそれも納得できるようになってきた。というのも若尾さんが言うように、すぐ目の前にいるこの83歳の男性は、本当にある種の「オーラ」を放っているのだ。
自宅におけるここまでの取材では、若き日に興亜青年だった飯田さんが、やがて海軍のニューギニア民政府の資源調査隊員としてニューギニアに赴任し、そこであまりに破滅的な戦場での極限状況を経験した挙げ句、戦犯として裁かれ最終的には帰国して「スガモ・プリズン」(上の写真:飯田さん提供)に収監されていた――という時代までの話を聞いた。
汐見台の、今は一人暮らしとなった団地の一室で毎回我々の来訪を迎える飯田さんの態度には本当に屈託がなく、語り口にもまったくブレらしきものを感じさせない。低音で、ある種ドスの利いた声が、あくまでどこまでもマイペースに、既に約60年前のことになる体験を淡々と、時折静かな間を置きつつ紡ぎだしてゆく。
ただ、さすがにそれを語る顔がいくぶん紅潮する場面もあった。ニューギニアで御自身が「戦犯」として裁かれることにつながった「殺戮」について。そして終戦後に、この戦争の大義と信じ込んでいたものが一気に崩壊し、そのショックに「自決」を決意したものの、結局それがはたせなかった時の思いと、同時に生まれた「決意」について語った時のことだ。
語られるエピソードの多くは、既に『魂鎮への道』など御自身の著作の中で綴られているものである。とはいえ、それを本人の口からナマの体験談として、ほとんど1対1の差し向かいで聞かされるとなると、はっきり言ってその迫力に絶句せざるをえない。
取材前、若尾さんからは「カメラを回している間はなるべく相槌を打たないでください」と言われており、ふだんのインタビューでは相手の話に相槌を打つことの多い私は気をつけるようにしていたのだが、後で録音を再生してみると、どうやら気をつけるまでもなかったようだ。なにしろ話の重さに圧倒され、息を呑んだまま声も出せなくなっていた自分に気付いた次第。
「今でも、時々夢に出てくる……」
通算二度目となるその日のインタビューが終わる頃、飯田さんは不意にぽつりとそう言った。確かに私のすぐ目の前で語られたその世界は、60年以上も前の情景とは思えない、鮮明な再生画像がこちらの脳裏に思わず浮かんでしまうほど、あまりに生々しいディティールに満ち溢れていた。インタビューの仕事をかれこれ20年近くやってきた私だが、こんな経験にはそうそうたくさんお目にかかれるものではない。
けれども飯田さん自身、今までこうした話を直接誰かに語った経験はないという。本には書いていたとはいえ、既に亡くなられた奥さんや息子さん、今でも時折自宅まで世話しに来る娘さんにも話したことはないそうだ。
「思い出すのが辛くはありませんか?」と私は聞いた。
「いやあ……もう今日は酒でも飲まないと寝らんないよ」と紅潮した顔を叩く飯田さんだが、次の瞬間にはいつもの柔和な笑顔を取り戻して言った。「さ、飲みにいこうか!」
共に貧乏フリーランスである我々2人は、こうして取材のたびに近所で飯田さんのおごりで御馳走にあずかる始末である。「こうやって若い人たちと話すのが大好きなんだよ」と言ってくれるが、若いと言ったって二人とももう40歳前後だ。もっとも当年83歳の人にすればほとんど子供同然に写るらしい。
立ち寄った近所の店では、店員たちが「お父さん、お元気ですね〜」と、次々に声を掛けてくる。前にも書いたが、何しろ今でもゴルフコースに出たり、冬場には志賀高原の急斜面をスキーで駆け下りるという人なのだ。
ニューギニアの戦場では死線をさまよい、戦後に自決しようとするもはたせず、現地での戦犯裁判ではあわや刑場の露として消えかけ、やっと日本に戻ってきたと思ったらスガモ・プリズンに収監され、とうとう20代を戦争でまるまる棒に振ることになってしまった。ならばこそ、まさに九死に一生を得た人生を存分に楽しまなきゃ損だ……という生命力が今でも溢れ返っているということなのか。
そんな飯田さんに、これから私はさらに辛い思い出を語らせることになるのかもしれない。すなわち息子さんの話だ。スガモ・プリズンを出て、市民生活に復帰して家庭も得た飯田さんを待ち受けていたのは、息子さんがサリドマイド禍に遭うという、あまりに悲痛な経験だった。そして、そのことが飯田さんをして、八十歳を超えた今も児童医療福祉活動に取り組むモチベーションへとつながっていく。
実はつい先日、その医療福祉財団の事務所まで「仕事」の打ち合わせに行ってきた。何でもその財団が近々「周年史」を作る予定があり、原稿仕事を担うライターとして、たまさか自分の周辺をうろうろしていた私に、飯田さんが白羽の矢を立てたのだ。
私にしても、これからの取材の際に質問するつもりでいた飯田さんの戦後の動静について、財団からの仕事を通じて予備知識を蓄えることができるという意味では好都合である。本来ならば取材中の相手から仕事を回してもらうなどというのは慎まなければならないことなのだが、これも何かの縁だろうかと思いながら引き受けた。それにしても、そもそもは若尾さんから頼まれて何の気なしに関わり始めた取材なのに、何時の間にかずいぶん深入りしてしまっているものだと思う。
その若尾さんは目下、本業の仕事で四国に出張しているため、飯田さんへの次の取材は5月に入ってからになりそうだ。
次回は若尾さんの提案で、飯田さんに都内・池袋の高層ビル「サンシャイン60」まで来てもらおうかという話をしている。もとより今の若い人たちにはピンと来ないだろうが、実は「サンシャイン60」は上記の「スガモ・プリズン」の跡地に建てられているのだ。
飯田さんに最初にその話を持ちかけたところ「ああ、じゃああそこにはホテルもあるはずだからこの際泊まろうか」などという。かつて「戦犯」として過ごした場所に、年月を経て「宿泊客」として滞在しようという心境はどんなものかと思うのだが(笑)。はたして初夏の頃、高層ビルを見上げながら、はたして今度はどんな話が聞けるのだろうか。

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