まあ、興亜観音については既にいろんな人がウェブ上でも紹介しているようだし、驚いたことに
公式サイト(これについては後述)もあるので、関心のある方はそれぞれ調べていただければと思う。ただし、実際に訪ねてみた私の印象でいえば、門外漢がふらりと通常のお寺参り感覚で訪ねていけるほどにツーリスティックな場所でもなかった。
その日も三が日中だったというのに初詣客らしき人の姿は皆無。というか、それも無理のない話で、何しろ県道脇の標柱からして既に述べた通り、うっかりすると見過ごしてしまうような感じだったのだ(よりによってすぐ前の路上に消防栓の柱が立てられ、その影に隠れる格好になっていた)。
しかも、そこから斜面を登っていく参道の状態たるや、はっきりいってボロボロだ。中腹に設けられた山門の前までは一応クルマで入れるだけの道幅が確保されているものの、全体にかなりの急斜面で、荒れたコンクリート舗装の路面は階段になっていないぶん、やたら歩きにくい。空模様がおぼつかない日だったし、雨が落ちてこなかったのは本当に幸いだった。
「飯田(進)さんに来ていただくのは無理かなあ……」と、息を切らしつつ参道を登りながら考えた。実は若尾さん(TVカメラマン。現在、飯田さんについてのドキュメンタリーを制作中で、私もそこに参画中。
ここや
ここを参照のこと)が一足先に先月ここを訪れていて、「行ってみるといいですよ」という報告ももらっていたのだ。いずれ再びやってくることになるとは思うが、今年で84歳の飯田さんはもちろん、お年寄りや体調の悪い方々にはお薦めできないロケーションだ。
山門をくぐったところの東屋で、こんなものを見つけた。
さらに細い参道を上がっていくと、行く手に比較的新しい風情の民家が見えた。不審者の接近を感じ取ったのか、犬の吠える声が聞こえてくる。
と、その民家から犬ではなく、丸坊主頭に紺の作務衣をまとった初老の女性が駆け出してきた。私を見るや合掌し、「ようこそおいでくださいました。本堂はこちらです」と坂道の上のほうを指し、そのまま私の後ろからついて歩いてきた。ここを管理している尼僧さんのようだ。本堂下の観音像や「七士之碑」(これが松井大将ら処刑者を弔う碑。吉田茂の書による碑文が刻まれている)を見ている間に、彼女は本堂へと上がっていき、突然の参観者を受け入れる準備をする。
本堂は山腹の見晴らしの良い場所にあった。本堂前のステージからは相模灘に面した熱海の海岸線、さらには伊豆半島の山々が見渡せる。
本堂を訪ねた後、すぐ脇の鄙びた休憩所で、尼僧さんからお茶菓子をいただきながらお話をうかがう。伊丹妙徳さんという方だった。若尾さんが先日訪ねた時には会わなかったそうだが、「その時は妹が応対したようで、いずれまた別の方がお見えになるらしいというお話は聞いていました」と、にこやかな表情で言う。親御さんの代から引き継ぎ、現在は妹さんと一緒に下の庫裏(先刻の民家風の建物)に詰めながら管理にあたっているようだった。「私も今で60歳ですから、昔のことは聞いた話としてしかわからないんですよ」と、静かに笑う。
そう、東條英機や松井石根ら、ここでは「七士」とされる戦犯7人が「スガモプリズン」で絞首刑にされたのは、伊丹さんがまだ幼少だった1948(昭和23)年12月23日のことだった。「後の天皇の誕生日を狙い、敢えてその日をアメリカが選んだ」いう人もいる。
ともあれ、処刑後に7つの遺体は横浜の久保山にあった火葬場まで運ばれ、そこで荼毘に伏された。日本側は遺骨を7人別々に分けた形で運び出そうとしたらしい。だが、
「線香の香りでわかっちゃったみたいです」と伊丹さん。つまりそこでアメリカ側に見つかり、一悶着起こったらしいのだ。あげくに遺骨はゴチャゴチャにされ、多くはアメリカ側に持ち去られた(東京湾に捨てられた?)らしいのだが、偶然残った一部が日本側の手にわたり、やがて熱海にあった松井石根の自宅まで運ばれた。
「知り合いの方の遺骨だが、然るべき時期がくるまで誰にもわからないよう保存しておいてください」と、運んできた人は言った。それ以上の細かい経緯は説明されなかったが、松井が建立した興亜観音を守っていた伊丹家の先代は、それだけで事情を察したという。
「ですから昭和34(1959)年(上記「七士之碑」が建てられた年)までは遺骨の(埋葬)場所をあっちこっちに移し変えながら守っていたんです」と伊丹さんは説明した。そうでもしないと、いつ暴かれてしまうかということだったらしい。
現在、興亜観音は「宗教法人礼拝山興亜観音」によって運営され、有志による「興亜観音を守る会」が施設老朽化にともなう改築事業の費用を支援しているのだという。最近では本堂前のステージ(以前は京都の清水寺のような木製だったが現在では鉄製に)や、先刻伊丹さんが出てきた庫裏の改築などを行ったほか、上記の公式サイトも「守る会」で開設しているのだとか。もっとも、御他聞に漏れず会員の高齢化が進むなど、運営面ではいろいろと課題も抱えているようだ。
休憩所の中には、いろいろなものが飾られていた。日中戦争当時の南京市内を俯瞰した絵図や、松井石根が収監中のスガモプリズンの中から興亜観音にあてて送った書面、教育勅語等々。「難しいことはわかりませんから」という伊丹さんだが、さすがに個々の展示品についての説明は立て板に水を流すがごとくだった。
写真を撮ってもいいですか? との申し出にも、伊丹さんは「どうぞどうぞ!」と実に屈託がない。本堂の前からの見事な眺望に「デートコースになっちゃいそうですね」などとアホな感想を漏らした私にも、ひたすらにこにこ応じるのみだ。
「あらためてまた仲間と一緒にうかがいますよ」と言ってその場を辞す私に、伊丹さんは合掌しながら「ぜひまたお越しください」と、深々と頭を下げた。もと来た参道を降り出すと、頭上から独特な調子の太鼓の音が響いてきた。
その太鼓の音に送られ、急な坂道をとぼとぼと降りながら、やはり複雑な思いが胸の中に去来した。
半年前、スガモプリズン跡の石碑の前で、湧き起こってくる不愉快な疑念を飯田さんに向かって思わずぶつけた時のこと。あるいはかつてオウム問題を取材していた頃、信者と住民側の双方のもとに行って話を聞きながら、どちらの言説に対してもザラリと感じた違和感。そして、それと裏腹の、彼らがそれぞれ抱える日々の営みや、自らにとって大切なものを守りたいと願う心象への愛おしさ……。
まあ、このへんの思いはもうちょっと整理しなおし、なおかつ勉強し直してから改めて書こうと思う。
ただ一つだけ、そんな中で今のうちに書き記しておくと、数日前の年末に処刑されたサダム・フセインのことも帰り道では考えた。彼の遺体は、一応故郷へと移送され、一族の墓地に埋葬されたという。
彼の墓所を、イラクの人々はこれから先、どのように処遇していくのだろうか。自分たちを強権の下に支配した独裁者として唾を吐きかけるのだろうか。それともアメリカによって殺された自国の指導者として、人目を偲ぶかのように密かに悼み続けていくことになるのか。
というか、もしイラク人から「日本では過去にどうしたんだ? たとえばトージョーたちの時などは……」と聞かれたら、我々はどう答えればいいのだろうか。靖国神社や、スガモプリズンの処刑場跡の石碑や、この興亜観音などに案内して「こうなってます」と、ありのままを見せればよいのだろうか。見せたとして、彼は納得してくれるのだろうか……。
いずれにせよ、ここには近々またやってくることになると思う。また、戦犯たちの遺骨を祀った場所は、実はここ以外にも愛知県内にもう一ヶ所存在する。そちらも早いうちに訪ねてみたいと思っているところだ。

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