もう2週間以上も前になってしまったが、11日(日)の夜、アワプラ・白石さんと若尾さんとの3人で横浜まで行ってきた。磯子に住む飯田進さんという方にお会いするためだ。
飯田さんは1923(大正12)年生まれ。2月が誕生日だというから、まもなく満83歳になる。今の80代といえば、壮年期に第二次世界大戦下の状況を経験した最後の世代だ。そして飯田さん自身の戦争体験というのは、おそらくその世代の中でも極めて激烈なものだったのではなかろうか。なにしろこの方は戦時中に海軍の人間としてニューギニアに出向き、そこで連合軍との戦闘下における凄惨な状況を体験した後、“戦犯”として、あの「スガモ・プリズン」に収監されていたという経歴の持ち主なのだ。
太平洋戦争の最中の1943(昭和18)年、海軍ニューギニア民政府の資源調査隊員として西部ニューギニア(現在のインドネシア領)に赴任。そこで大戦末期の連合軍との戦闘下における生き地獄のごとき極限状況に遭遇する。戦後はオランダ軍により戦犯容疑者として拘束され、いわゆるBC級戦犯として「重労働20年」の判決を受けるが、1950年には東京の巣鴨刑務所(有名な「スガモ・プリズン」)に移送。4年後の1954年に仮釈放された。その後は社会福祉法人の理事長を務めるなど、福祉事業に専念。息子さんがサリドマイドの被害に遭われたりするなど、何かと御苦労が絶えなかったようだ。『終わりなき戦後』『顔のない国』『魂鎮(たましずめ)への道』などの著書もある。
そういう方に何で私が会いに行ったかというと、そもそものきっかけは若尾さんから声が掛かったからだ。上記『魂鎮への道』などの著作を読んだ若尾さんが、ぜひ飯田さんを主人公に映像作品をまとめたいと考えたのがそもそものきっかけだった。もっとも若尾さん自身は「僕はあくまで(映像の)カメラマンですから」ということで自らインタビューなどをするつもりはないらしく、代わりにアワプラでつきあいのある私が飯田さんへのインタビュアーとして白羽の矢が立ったというわけだ。
そんなわけで当然、やるからにはアワプラも噛むことになりそうな感じなわけだが、白石さんがこの日同行したのにはもう一つの理由があった。実は白石さんの旦那さんのお父さんが偶然にも飯田さんとゴルフ仲間で、よく同じコースでご一緒されたりしてるんだそうな。世の中ってのは狭いもんだな。
ともあれ、磯子の汐見台にある団地の自宅で初めてお会いした飯田さんは、実にきさくな好々爺というのが第一印象だった。
いや「爺」などと書くのは失礼なくらい83歳の今も実にお元気だ。アパートの階段は苦にする様子もなくひょいひょいと挙がるし、ご自分の話をしながらも、少し長くなると「ん、これ以上は長くなりそうだ」「ええと、時間は大丈夫?」とか、こちらを気遣って下さる。
奥さんは既に十数年前に亡くなり、現在は汐見台の団地の一室での一人暮らし。ただ、近所に住む娘さんがちょくちょくやってきているらしく、室内は凄くきれいに片付けられていた。玄関には既に他界された息子さんが、海外でバックパッカーをやっていた時に買ってきたという土産物が。
「こうして若い人たちと話すのが好きなんですよ」とのお誘いに甘え、近所の鰻屋さんで御馳走になることに。で、アパートの玄関のドアを開けたら、猫が待っていた。「もう十数年もコイツと“同棲”してるんだよ」というその長寿猫を、飯田さんは優しく抱きかかえながらひょいひょい階段を昇り、部屋の中へと連れて行く。
猫も十数歳となれば結構な長寿猫だ。同様に、若いといったって今日やって来た3人はいずれも30〜40代のアワプラの中では「長老組」。とはいえ83歳の飯田さんにとっては、自分の年齢の半分にも届かない「若造」ばかりだ。
とはいえ飯田さんは不健康な生活をしている私なんかよりも、ある意味で全然若い。前述の通り今もゴルフを嗜んでおられるわけだが、以前にコースでご一緒したこともあるらしい鰻屋さんの店員のおばさんが「お父さんは飛ばすからね〜」と感心していた。
そういえば御自宅の居間にもスキーで滑っている場面の写真があった。後で聞いてみると「今度の年末年始も娘に誘われて正月スキーに行くんです」と笑っていた。80代で志賀高原あたりの30度とかいう斜面を滑ろうっていうんだから凄いよね。「人生は楽しまなくちゃね」と、芋焼酎の杯を重ねながら言う。
そんな飯田さんが60年前にはニューギニアの戦犯収容所で、これから殺されていくという日本人戦犯たちと指を絡ませながら別れを惜しんでいた……という話が、何だか胸に迫る。
釈放後も息子さんのことや何やらで苦労が絶えなかったはずだが、そのへんのことはこの日はあまりうかがわなかった。
「奥崎謙三のことはどう思いますか」と私は聞いた。
「彼は性格異常だ」と飯田さんは言った。「でも、あも当時のことを知る人たちの中に『ゆきゆきて、神軍』にショックを受けなかった人はいないと思う」
「小林よしのりの『戦争論』は――」と、これは私が聞くまでもなく話題に出た。
「あれは半分正しい」と飯田さんは言った。「ただ、よしのりは自分のおじさんがどうして生き残ったのかって理由を知らないんじゃないかな?」
その世代ゆえ、ということなのだろうか。少年時代からアジア民族解放の思想に傾倒し、大東亜共栄圏の夢を信じて疑わなかったという若き日の飯田さんを待ち受けていたのは、あまりにも悲惨な修羅場だった。それも、敵軍の圧倒的な戦力によりズタズタにされたとかいうこと以前に、旧日本軍の「戦争」というものに対する、戦術や戦略面でのあまりの稚拙さゆえ、餓死したり友軍に射殺されたりといった、はっきり言って「無駄な死」が累々と繰り返される光景だった。
「でもね、少し場所が違えば全然状況が違ったんですよ」と彼は言う。「全然戦闘がなかった島もあったしね。今ここの近くのタクシー会社のオーナーやってる男は私の知り合いだけど、彼なんかは『戦場に行って楽しかった』っていう人間だった。純一郎(小泉首相)は若い頃、その彼の書生をやっとったんだよ」
そう、あの戦争の時にだって、ほんの少し場所やタイミングがずれれば遭遇する状況に天と地ほどの差が生じていたのだ。それは今だって、自然災害や悲惨な事件の現場で、ほんのちょっとのタイミングの違いが人の運命を大きく分けているという、そのことから多少なりとも推察できるはずだ(私だって1995年3月のあの日、妹が休みをとらずにいつも通り乗り換える霞ヶ関の駅で事件に巻き込まれていたなら、今頃どんな立場にたっていたかわからない)。
だから飯田さんは、御自身の体験をあの戦争全般には普遍化しようとしない。「黒か白かに分けるというのが一番よくないんですよ」と言う。そのうえで、自らの体験をスタート地点に、あの戦争を戦場で経験してきた人たちの声も聞きつつ、自らの思いを語り継いでいこうとしている。
自らを裁いた東京裁判については「あれは不公正な裁判だった」と言う。別に自分が有罪になったから言うのではなく、「勝者が敗者を裁く」というスタイル(飯田さんもインドネシアでオランダ軍側の裁きにより有罪判決を受けた)への素朴な疑問からだ。
けれども一方で飯田さんは、昨今の靖国問題をめぐって日本側から「死者を弔うのが何故悪いのか」「あの戦死者の尊い犠牲の上に今の日本の繁栄があるのだ」といった性急な議論が持ち上がることにも危惧を唱える。
「遺族だって、身内の死がのたれ死にだったと思いたくないんでしょう」と飯田さんは言った。「その気持ちはわかるんだけど……」
そう、私もこの仕事をやりながら、わかったことがある。
「ジャーナリズム」とやらを、あるいは「反体制」「市民の権利」とかを崇高な理念のように謳い上げる人たちは、それさえ旗印に掲げれば、多くの人からの支持を自分が集められると思っている。でも、それは単なる幻想に過ぎない。
それこそ今度の「姉歯」周辺の問題にしてもそうなんだろうけど、人は自分がいま生きている環境を足元から崩しかねないような「事実」が見つかった場合は、それを「嘘」にしようとする。それが客観的に見て疑いようもない事実であろうと、とにかくそれが事実になったら自分は生きていけないと思うものに対しては、明らかな事実であろうが「嘘だ」という。なぜなら、それが「嘘」でなければ自分の人生が崩壊するからだ。
ゲッペルスがかつて「嘘も1000回(100回だっけ?)言えば真実になる」と言ったのは、それ自体は倒錯的な間違いにあるにしても、自分に都合の良い情報のみを「事実」と認定したがる人間の本性からすれば紛れもなく「真実」なのだ。そういえばかつて「事実とは何か」といったことを著作の中で一生懸命に叫んでいた某「貧困なる」新聞記者さんも、自分に都合の悪そうな情報については「そんなものは枝葉末節に過ぎない」とか言いながらネグろうとしていたっけ。やれやれ。
そんなこんなの思いがあったせいか、飯田さんの話には何かと腑に落ちる部分が多々あった。たぶんこの人は、どんなにバッシングにさらされようとも、自分の体験から来る主張を決して曲げることはないだろう。でも一方で、自分の主張こそが全てを語りうる真実なのだと言い立てることもないだろう。結局「靖国問題の是非」やら何やらの黒白にこだわる連中は、何を言おうがそれを自分に都合の良い形でしか解釈しようとしないからだ。
「また話をしに来てよ」と、別れ際に飯田さんは私の肩を叩きながら言った。私から彼に話せるようなことは、おそらくそんなにない。でも、いろんなことを語り合いながら見えてくるものもあるのかな、という気はする。
(「岩本太郎のメディアの夢の島」
http://blog.livedoor.jp/ourplanet_iwamoto/ と同時掲載)

1