とはいえ去る土日はまるまる自宅で寝込んでいるわけにもいかなかった。なぜなら土曜日(24日)の午後には水道橋で
OurPlanet-TVによる年一回の「通常総会」があり、しかも今回は私がその議場において、なんと「議長」を務めることになっていたからだ。
アワプラも今や内閣府の認証を受けたNPO(特定非営利活動法人)であるため、1年ごとに正会員が一堂に会する「総会」を開いたうえで、過去1年間の事業報告(+決算報告)と、今後1年間の事業計画案(+予算案)をその場で諮らなければならない。そんなわけで、NPOとしての発足以来2回目となる2006年度総会の議長役が、前年の松浦さと子さんに続いて、どういうわけか今回は私にまわってきてしまったのであった。
もとよりアワプラのようなNPOの場合、年一回のこの日のために全国の各地に散らばる会員たちが大挙して全員集まってくるわけでもない。大半は委任状の提出であり、後は普段から顔なじみの十数名が集まるという、いたって形式的かつコジンマリとしたものである。しかも驚いたことに、事務局長の池田さんが前もって結構綿密な「進行表」を用意してくれた(笑)。
で、おかげさまで、不慣れかつ体調不良の議長による進行であったにも関わらず、議事は滞りもなく無事終了。5つの議案(昨年度事業報告、同決算、今年度活動方針、同予算、新役員選任)についても異論などが飛び出すこともなく、すべて全会一致で承認された。昨年末に「レコード●賞」の審査委員を初めて務めた際、その完全に出来レース的な選考過程を目の当たりにして呆れ返ったというピーター・バラカンさん(アワプラの理事でこの日も御出席)が「うーん、レコード●賞以上だ」と冗談まじりに笑っていたくらいに反論も異論も出ない、静かな議事進行だった。
まあしかし、それにしても「総会」っていうのは他のNPOなどの団体、あるいは会社の株主総会というやつでも同じだと思うのだけど、よくも悪くも、その組織や団体の持つカラーなり時々の状況なりが滲み出る場なのだろうなと思う。かつてウォルフレンが著書『日本/権力構造の謎』の中で「日本人が公的な儀式の厳格な運営にかける神経や労力には並々ならぬものがある」みたいなことを書いていたと記憶するけど、確かに形式的な会合ではあっても、そこには舞台裏で支える人たちのキャラクターのようなものが、どうしようもなく滲み出てしまうのだろう。まさしくレコード●賞なんかもそうみたいだし(笑)。
ちなみに私の場合、自営業(というか自由業)ゆえ普段はそういう堅っ苦しい組織内のセレモニーには比較的関わらずに済んでいるわけだけれども、実は今から20年以上前の学生時代にも、今回のような総会の「議長」役を務めたことがある。
当時、私は大学の学生寮に住んでいた。最近では大学の寮とはいっても、完全個室で食堂も共同浴室もないというアパート同然のところが多くなっているようだが、私がいたのは学生3〜4人が一部屋で共同生活を行う昔ながらのスタイルの寮で(20歳前後の男子学生ばかりが150人以上もまとまって棲息するという、それだけでいかにムサ苦しく汚いかが御想像いただける通りの空間だった)、寮の運営はすべて寮生から選ばれた執行部(自治会)が、各ブロックの寮生たちに諮りながら進めるという自治寮方式が採られていた。
そうした寮自治運営のハイライトとなるのが、毎年春と秋の2回、寮生のほぼ全員を集めて寮食堂を会場に行われる「寮生大会」(寮大)だった。ここで4年生の時に私は議長を務めたのだが、実はそれ以前の1〜2年生の頃には執行部メンバーの1人(冗談のようだが、なんと私が「経理部長」をやっていたのだ!)として、半期ごとの「総括」(こわい言い方だな)と「方針」、および決算・予算を作成しては、寮大での審議を仰ぐという立場だった。
で、この「寮大」という一大セレモニーをクリアするのが、つくづく大変だったのである(溜め息←今思い出しても何だかゲンナリする)。ただ、上級生になってから務めた議長なんていうのはそんなに大したこともなくて、むしろ大変だったのは言うまでもなく「執行部」時代の頃だ。
私が大学生だった1980年代半ばといえば「大学のレジャーランド化」などが叫ばれていた、いかにも「軽薄短小」な時代だったのだけれども、その一回り昔にあたる1970年代前後の全共闘の時代における学生運動の重要拠点となっていた各地の大学寮には、当時はまだまだ往年の名残とも言うべき古典的な自治運営のスタイルが色濃く残っていた。
だから――今思い返しても笑っちゃうのだが、例えば寮大にかける議案書の冒頭は毎回必ず「情勢」という長い文章から始まっていて、そこには米ソの冷戦が激化の度合を強めているだの、パーシングUがどこそこに配備されただのといった、田舎の学生寮の自治運営にはおよそ直接関係もなさそうな話がクラシカルな闘争運動文体でもって延々と連ねられていたのだ。
大学に入る以前、静岡の高校で毎日ひたすら何も考えず竹刀ばっか振ってる剣道少年だった私には、そこに書かれてある内容たるや、およそ理解不能な代物にしか思えなかった。というか、同級生たちはもとよりそれを書いている1級上の先輩たちも、自分が何を書いているのかわからないまま書いているという感じで、とにかく「そういうことをそういう文体で書くことになっている」という感じだった。
もちろん寮大の前に寮内の各ブロックごとに何度か開かれる会議や、執行部会では「なんでこういうこと書く必要があるの?」とかいう声は出たりするわけなのだが、そのたびに「俺たちもそれをやってきたんだよ」といわんばかりの上級生たちとの間で議論が迷走してしまうのであった。まあ、今思えばどいつもこいつも20歳前後の世間知らずなガキンチョの集まりだったから仕方がないのだが、たとえば毎回議案書に出てくる「うるおいのある寮生活を求めて」という見出しの「うるおいのある寮生活」って何だ? ということだけでも無用な論争が延々と続いたのだよこれが(苦笑)。
ともあれ執行部員はそんなやり取りを踏まえながら、寮大に向けて議案書を何度も書き直すのだったが、この作業がまた大変だった。
というのは、何しろ当時はパソコンはおろかワープロもまだあんまり普及していなかったため、ぶあつい議案書の束を作成するには、まず緑色のボールペン原紙(って今の若い人はわかるかな?)に鉄筆を使って書き込み、それを輪転機を使ってワラバン紙に印刷のうえ、執行部員総がかりで並べては閉じ込む――という作業を何度も何度も繰り返していたのだ。だから寮大前は徹夜続きで授業出席にも支障を来たす有様。おかげで私も1〜2年生の時は結構単位を落とした。
そしてようやく迎えた寮大でも試練が待ち構えている。現役執行部の中心をなす1〜2年生に対し、かつて自分たちも先輩から苛められて辛酸を舐めた経験を持つ3〜4年生が、ここぞとばかりにあれやこれやのツッコミを入れてくるのだ。特に1年生の執行部員から見れば、4年生(中には7〜8年生も結構いた)の先輩なんてのは無茶苦茶ガッシリとしたオヤジに見えるから、質疑応答の中でも結構圧迫されるものがあった。
そんなわけで夕方6時から開催される寮大は、日付が変わる前に終われば上出来。大抵は明け方近くまでかかるのが通例で、時には議案が継続審議や廃案をくらって、後日もう一度寮大をやり直しなんてこともあった。事実、私の場合も――これは40過ぎた今でもそうなのだが――年長者ウケが悪いというか「あいつ生意気だ」と思われていたところがあったようで(苦笑)、何度か廃案動議や議事打ち切り動議とかを食らった覚えがある。
――とまあ、普段からいっしょに住んでいる者どうし(しかも多感な年代の若者ばかり)がそういうことをやっていたわけだ。当然、それが人間関係の悪化を招いたり、あるいは後に寂しく寮から去っていくものが出たりといった事態も後からついてくる。寮自治に入れ込んだばかりに学業が疎かになって卒業や就職が難しくなってしまったような者も結構見かけたし、私自身もあれに関わってしまったことで、ずいぶん大学生活を棒に振ってしまったとの思いが、正直なところ今もある(それ以外の普段の学生寮生活には今も凄く楽しい思い出として残っている部分がたくさんあるだけに、そこはなおさら残念だという悔いが残るのだけど……)。
ただ、今にして思えば、あの青臭かった時代におけるああいう経験が、私にとってその後の反面教師になっている部分もあるのかなあ、という気はする。
簡単に言えば、あの時代に学んだのはこういうことだ。つまり、本来の目的を失った(あるいは見失った)組織(集団)というのは得てして「組織を守る」こと事態を目的化(自己目的化)してしまう。その結果、その組織を構成する内輪のメンバーに対する締め付けを強化する方向へと走りがちになり、同時にそれは「組織の外にいる人たちの目から見て、自分たちはどんなふうに見えるのか」という視座を欠落させる弊害をも生む。また、個々のメンバーにとっては「自らの属する組織を守ること」に多くのエネルギーを注がざるを得なくなるあまり、本来ならそのエネルギーを振り分けることでできたはずのことができなくなってしまう――といったところかな。
あ、あと「通過集団」の無責任さもあの時には感じましたね。やっぱり時期がくれば自分はそこから卒業して出て行ってしまうという学生寮での自治活動の中では、後から入ってくるもののことを思えばずいぶん無責任な決定を、その時々の目先の視点だけでやっていたりもする。
もっとも、これは卒業して社会に出てみてから「何も学生に限らず、普通の会社とかでもよくある話なのだな」と気づくに至った。念頭にあるのは自分の定年後の年金生活や子供の進学・就職ばかりで、今いる社員たちの将来のことなど露ほど考えない会社経営者なんて、それこそ巷にごまんといるだろう(それこそ小泉純一郎とか石原慎太郎とかいう政治家は、自分のあとのことを考えないからこそ、ああいう政治ができたのではないか?)
ひょんなことで久々に「議長」なんていう席に座りながら、思い起こした昔話を書き連ねるうち、また長くなってしまった。なお、上の話に出てきた私の「出身寮」だが、数年前に全面改装され、今ではすっかり普通の学生アパートのような空間になってしまったらしい。
(「
岩本太郎のメディアの夢の島」と同時掲載)

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