1995年3月20日の朝のことは今でもよく覚えている。
目が覚めたのは8時半。大慌てで布団から飛び起きた。今の私ならむしろ早起きに属するぐらいの時間だが、当時はまだ会社勤めをしており、自宅最寄りの新中野駅(地下鉄丸ノ内線)を8時20分頃の電車に乗り、45分には南青山の会社に着くのが通常のパターンだった。
何で寝坊したかというと、この頃同居していた妹が、たまたま前日から静岡の実家に帰省していて不在だったからだ。当時、妹は私より毎朝30分ほど早く起き、寝ほすけの兄貴を出掛けに叩き起こした後、丸ノ内線と日比谷線を乗り継いで神谷町駅近くの会社に通っていた。つまり普段であれば朝8時過ぎには霞ヶ関駅の地下構内を歩いているはずの人間だったのだ。この日に休みをとっていたのは、あるいは運命を左右する判断だったかもしれない。
1月17日のブログにも書いた通り、この時、私はもうじき会社を辞めることになっていた。
前年末の大阪転勤の件で会社(宣伝会議)と揉め、1ヶ月住んだだけの大阪から東京に戻されたのが1月17日。その日の朝に起こった阪神・淡路大震災によって、喧嘩の原因となった『宣伝会議』の別冊大阪特集号がウヤムヤのうちに潰れて以来、私は転勤前と同じ『宣伝会議』の編集部員として結構マイペースで仕事ができるようになっていた。
そんな私に対して明らかにムカツキながらも内心バツが悪かったのか、社長と、その腰巾着のような上司は、たまに下らんことでイチャモンをつけてくる以外、すっかり頬っかむりを決め込んでいた。私も「先に話すことがあんのはてめーらだろーが」と露骨に踏ん反り返りながら知らん顔で仕事をしていた。何しろ自己陶酔癖のある社長が自室で恐竜の卵をなでながら(本当にそういう趣味があったんだ、この人は)机上で考えた人事異動のおかげで編集部は人手不足に陥っており、他の部員からはむしろ歓迎されたようだった。
「辞めるの止めちゃえば?」などと、時おり小声で言われた。“お山の大将”的なワンマン社長が君臨していたこの会社では、私のような反抗的な性格の人間は短期間でどんどん辞めていくらしくて、社員の多くは去勢されたように大人しい者ばかりだった。学校のクラスに例えれば、成績が飛びぬけて良くない代わりに悪くもなく、特に素行に問題もなければ積極的に手を挙げて発言するわけでもない−−そういうタイプしか最終的には残らない会社だったのだ。
だから、会社の経営に関することでも社員どうしが表立って議論をするような場面などおよそありえず、私の処遇についても上から何も情報が降りてこないまま、こうして時々横目を気にしながら小声で囁き合うのみという、実に不健全な環境がそこにはあった。その一方で、出版社には珍しく毎朝9時からは全社員による朝礼(および「社是」の唱和!)が必ず行われるのだが、ここでも一人で演説に酔いしれる社長の前で、そんな金太郎飴のごとき社員たちがうつむき加減に、気弱な笑みを浮かべつつ黙って話を聞くという、何とも不毛な光景が毎朝展開されていたのだった。
で、その朝は寝坊したおかげで、そんなかったるい朝礼に出ずにすんだわけだが、なにぶん退社間際だ。嫌みぐらいは言われるかなと思いつつ、会社に「遅れる」と電話したうえで家を出た。新中野駅からて乗った電車は、いつもより混み合って慌ただしく感じられたが「やっぱり遅い時間に乗ると混み合うな」と思った程度で、最初は気にもとめなかった。
だが、電車が一駅隣りの中野坂上についた時にはもう「何かあったのかな」と思ったことは覚えている。ホームの上を駅員が慌ただしく走っていくなど、普段にないざわつきがそこにはあったからだ。今思えば、その時すでに同駅の駅事務室には、銀座方面からやってきた電車の車内でサリンを吸って倒れた乗客が担ぎ込まれていたのだ。そう、確か中野坂上駅でも死者が1人出たはずだ。
その後も駅に着くごとに、ホームからは異常を感じさせる空気が伝わってきた。もっとも、乗客は騒ぐでもなく、いつも通りみな座って居眠りをしたり、黙って吊革につかまっていた。四ッ谷駅を出る頃「霞ヶ関駅で異臭が発生しましたので、同駅を通過します」と、およそ普段ならありえない事態が車内放送で伝えられた時も、それは変わりなかった。乗り換え駅の赤坂見附で電車を降りると、駅員が後ろからダーッと走っていき、立ち止まったホームの先端で霞ヶ関の方向を凝視していた。
会社に着くと、私の遅刻の件は全く不問に付されていた。というよりも、それどころではなかったのだ。ある女性社員の旦那さんが事故に巻き込まれて病院に担ぎ込まれていたほか(結局、大事には至らなかったようだが)、社員の家族からの安否を尋ねる電話も次々とかかってきていた。営業の連中も、とにかく地下鉄がそんな具合では満足に外回りにも出られないということで、もはや仕事にならないという状況だった。この朝は東京じゅうのオフィスで似たような光景が展開されていたに違いない。
その日は残業もそこそこに家路についたわけだが、帰り道にふと思いついて、丸ノ内線を銀座まで逆送してみることにした。
霞ヶ関駅は依然として通過扱いになっていた。普段の丸ノ内線は各駅停車ばかりだから、駅を通過する光景は珍しい。しかも、いつもなら大勢の客でにぎわう霞ヶ関駅である。明かりがついたままのホームにはロープが張られ、当然人影はまったく見られなかった。そんな異様な光景が流れる車窓を見ながら「明日からどんなことになっていくんだろう・・・・・・」とぼんやり考えた。
2日後、今度はいつも通りの時刻に妹から起こされ、何気にテレビをつけると、富士山麓にあるオウム真理教団施設に警察の強制捜査が入ったというニュースが慌ただしく伝えられていた。「そういうことか」と、再びぼんやりと考えた。
「TさんやN君たちが『岩本君を許してやってください』と言ってくるんだ・・・・・・」
さらにその8日後、部屋に呼び出した私を前に社長は言った。「私が君を許さないと思ってるんだ」
その通りじゃないかよ、と内心思った。はっきり言って、私は社長以外の誰と揉めたわけでもなかった。社員に対して別に恨みはない。ただ「こういう馬鹿な経営者のいる会社はさっさと見限ったほうがいい」と思い、こっちから三行半を突きつけ、それに社長がキレちゃった結果として、そういう宙ぶらりんの状態になってしまっているのだ。
「・・・・・・反省してるか?」と、珍しく神妙な顔で社長は言った。
「反省してます」と私は答えた。無論、彼が言う意味での「反省」ではなかったけど。
「そうか。だったら・・・・・・まだ、この会社にいたっていいんだよ?」
「もう決めたことですから」とニベもなく私は言った。「明日で辞めさせていただきます」
翌日、私は実にせいせいした思いで同僚たちに別れを告げ、1年半勤めた会社を辞めた。1995年3月31日。そう、ちょうど10年前の今日だ。
翌朝からは妹に起こされることもなく、8時半頃にのろのろ起き出しては、テレビを見ながら一人で朝飯を食べる日々になった。
テレビをつけると、どのチャンネルもほとんどオウムの話題しかやっていなかった。一応見はするものの、5分と経たないうちにいつもスイッチを切った。麻原彰晃のドアップを見ているだけで朝飯が不味くなるというのもあったけど、オウム教団や信者たちの様子、さらにはそれを伝えるテレビ局の連中のメンタリティに対しても生理的な嫌悪感が拭えなかったのだ。
「異常な集団」だって? 何を言ってるんだ。俺なんかつい先日まで似たような集団にいたんだよ・・・・・・。実際、そこに描かれる集団としてのオウムの姿を見ながら「これって、こないだまで俺がいた会社と同じじゃん」と何度となく思ったものだ。そして、それをさも正義感面して伝えるお前等だって所詮は似たようなもんだろ、と。
会社を辞めると決意した時点で、「次はフリーライターだな」と内心ほぼ自動的に決めていた。もう組織の中に入るのはこりごりだった。もちろん経済的に苦しくなるのは見えていたけど、とはいえ自分の思いと無関係のところで自分の居場所を決められたり、納得のいかない仕事を悶々とした思いのままにやらされる日々はもうまっぴらだった。それよりは、たとえ貧乏になったとしても、それが自分の思うように生きた結果であるなら、まだ納得できるじゃないか(親に面倒や心配をかけそうなのが心苦しいけど・・・・・・)。だったらこれからは、組織に属さないで一人で自由に生きていこう−−。
大震災とサリン事件という、二つの未曾有の出来事に見舞われ、すっかりパニック状態になってしまった世の中を横目に、ぼんやりとそんなことを考えながら、私はひっそりとフリーライターになった。あの日々からもう10年。
そう、もう10年も経ったんだよ。

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