東西冷戦下での緊張が高まっていた1950年代のアメリカ、全米三大ネットワークのひとつ・CBSの高名なニュースキャスターであるエド・マローが、当時の共和党上院議員ジョセフ・マッカーシーに主導された反共キャンペーン(俗に言う「赤狩り」)に対して、自らの報道番組「シー・イット・ナウ」を舞台に戦いを挑んだ――。
彼の地アメリカではもちろんのこと、日本においても報道関係者なら知らぬ人などおそらくほとんどいないだろうというくらいに有名な史実だ。私自身も何度か本などで読んだことがあるし、ずいぶん前になるがテレビドラマ化されたものを見て、強く印象を受けた覚えがある。
にも拘らず、なぜ今この『
グッドナイト&グッドラック』が報道関係者から持て囃されているのか。言うまでもなく、モノクロ映像で再現された1950年代の伝説的な神話の光景に、2000年代初頭の現在の状況をみんながダブらせながら観ているからだ。アメリカはもとより、NHK問題やら何やらで「政治とジャーナリズム」との関係性のあり方が問われる日本のメディア業界人にとっては、観ながらさぞや身につまされた映画であったに違いない。
ストーリーについては上記の通り既によく知られた史実でもあるし、未見の若い人たちにネタバレとなっても申し訳ないので、とりあえずここでは省略する。ただ、全編を通じて私の印象に残ったのは、まだテレビが若くて伸び盛りのメディアだった20世紀の中盤、その現場で活躍していたジャーナリストたちの気骨漢ぶりだった。
日本に比べると政治権力からのジャーナリズムの独立性が制度的にも文化的にも保障されているように見えるアメリカだが、それでも抱える事情は彼の地でも同じだ。政治家からはあの手この手の圧力がかかるのは日常茶飯事。それも劇中で描かれているように、何たって空軍の将校までが局まで直談判におしかけてくる世界なのだ。もとより営利企業ゆえ、トップは経営を揺るがしかねない報道には表情を曇らせ、現場に対してそれとなく、いや、時にはあからさまに自重を求めてくる。
マローとは立場を超えた友人関係にあったCBSの社長も、番組が反マッカーシー・キャンペーンを企てるや、新聞に出す番組宣伝広告用の経費を出さないと通告。マロー、そして相棒のプロデューサーであるフレッド・フレンドリー(劇中では本作の監督を務めたジョージ・クルーニーが演じる)は自ら3000ドルを払ってニューヨーク・タイムズに広告を出し、あくまで予定通りの放送を行う。
「全部お前のせいにしといたからな」と、本番直前のスタジオでフレッドはマローに囁く。
「イエロー(腰抜け)め」とソッポを向きつつ毒づいたマローに、フレッドはしれっとした顔で返す。
「レッド(アカ=共産主義者)って言われるよりゃいいさ」
こんな具合に、敢えて火中の栗を拾いに飛び込んだような状況を、マローたちスタッフは逆にむしろ楽しんでいるようにも見える。生放送が終わった直後には爽快な気分のもとにみんなで拍手。そのままバーに繰り出して翌朝まで痛飲し、上がってきた早番の朝刊に載った番組評を観ながら快哉をあげる。
とはいえ襲い掛かってくるプレッシャーは並大抵のものではない。局の経営者は「スタッフに共産党シンパがいないかどうかを徹底的に洗え! 揚げ足を取られるな!」と厳命。番組のスタッフの一人は「少し前に別れた妻が、自分と結婚する以前に共産党主催の集会に出ていた」と自ら降板を申し出る。
別の番組でマローを応援した同僚のキャスターは、保守派新聞にボロクソに叩かれたあげくに自ら死を選ぶ。マッカーシーからの反論に番組で真っ向から答えたマローだが、一方で同僚に番組での反論を諌めていたことを思い、深い罪悪感に苛まれる。
熾烈な戦いは結局、マローらのキャンペーンに腹を立てたマッカーシーが自ら番組に出演して行った反論が仇となり、失脚へと追い込まれる形で終わる(「私は正しい!」とか叫んでいるマッカーシーの映像を見ながら、私は思わず安倍晋三を想起した。いや、くらべるのはマッカーシーに対して失礼かなとは思うのだけれども)。
だが、マローたちの払った代償も大きかった。毎週火曜夜に放送されていた「シー・イット・ナウ」の時間帯は、スポンサー受けもよくて制作費も安いクイズ番組に差し替えられ、マローたちは月一回・日曜午後の枠へと追いやられる。番組スタッフだった男女二人(実は夫婦なのだが周囲には秘密。ただしスタッフ間では公然の事実)は、現場を足元から切り崩そうとする局より「社内結婚は禁止」と定めた社内規程に違反しているとの今さらながらの理由で解雇をちらつかされる(これも実際にあったことなんだとか。まあ、こうした陰険なやり方っていうのは日本に限らずどこの国でもあるんだね)。
そんな中でもマローの功績を高く評価した報道関係者たちは、後年になって「エド・マローを称える会」と称したパーティを開く。が、その華やかな宴席の壇上に呼ばれたマローは冒頭から「耳の痛い話をします」と切り出し、沈みかえる聴衆の前でテレビ産業の現状に対する辛辣な批判を展開した後に、
「Good Night,and Good Luck」
という、往年の番組における末尾の名セリフを残して壇上から去っていく。登壇の際に湧き起こった盛大な拍手は聴こえてこないまま、映画はそこで終わる。
――って結局ストーリー書いちゃったな(笑)。まあしかし、史実を題材にしたこの映画については、基本となるストーリーよりも、むしろそれぞれの局面におけるシークエンスの妙こそを楽しみながら観てもらったほうが良いかと思う。即ちこの作品は「エンターテインメント」として見るのが正しい。
もちろん、監督のジョージ・クルーニーは映画化に際して、1950年代当時の様子をリアルに表現することに拘った。マッカーシーらが出てくる場面を含めた当時の外的状況については、再現ではなしに、あえて当時のニュースフィルムを使用。また、それらとの違和感をなくそうとの考えから、プロの役者による再現シーンも含めた全編をモノクロ映像で統一したという判断も正解だったと思う。マロー役のデヴィッド・ストラザーンも、はっきり言ってまさにエド・マローその人にしか見えないというくらいのハマリ役だった。ほんと、はっきり言ってめちゃくちゃカッコよかったですよ。俺もフリーライターなんかやめて今からニュースキャスターめざそうかと一瞬思ったくらい(笑)。
ただし、そうしたディレクションや配役の妙が、逆に作品を小粒なものにしてしまった感も否めないところだ。いや、ダイアン・リーブスによるジャズ・ナンバーも含めて、作品が総体として実にタイトで小気味良いテイストにまとめあげられたのには心底好感が持てる。だが一方で、メインのストーリーは全て屋内劇(見ていた限りでは屋外ロケのシーンは絶無)で、敵方のマッカーシーサイドは基本的に再現映像でまとめるという構成だったからか、歴史上の事実についての再現ドラマとしては、スケール的に思ったよりも小じんまりとしたものになっているなという気はした。
で、おそらくこの映画、そのへんをめぐって評価が分かれたりするんではないかとも思った。例えば宮台真司さんはこの映画について自分のブログで「
感動的だからこそ政治的には適切ではない」という評価をしている。確かに、マローたちがなした仕事の背景にある文脈や、あのエピソードが今日の政治状況に対して突きつけているメッセージについて、そのバックグラウンドを全て捨象したうえで捉えるのは危険なことだろうなと私も思う。
とはいえ、私はこの作品をできるだけ大勢のメディア関係者や、将来ジャーナリズムの世界で仕事をしたいと考えている人たちにも観てもらいたいと思った。なぜなら、ここには「なんで自分はこういう仕事をやってるんだろう?」と自信がなくなった時に、少しは元気付けてくれるだけのものがしっかりと描かれているからだ。要するにみんな「楽しいから」、そして「自分の目の前にある状況をそのまま見過ごすことに納得できないから」というプリミティブな動機が根源にあればこそ「ジャーナリスト」だの「報道関係者」だの「フリーライター」だのといった人々は、今の世にもかろうじて生き長らえているのだ。
何しろ今は「ジャーナリスト」「マスコミの人」とか言われた時点で、尊敬どころか軽蔑の視線すら浴びかねない時代だ。なればこそ、こういう映画を観ることで、自分が何でこの世界に入ってきたのかをメディア関係者が問い直す機会になってくれたらいいなとは思う。まあ宮台さんが言うように、元気になっただけで背景を見通す視座を獲得できないまま狭窄して行ってもらうのも困るのだけど。
最後にほとんど蛇足のような感想をひとつ。この映画、タバコがすごい〜(笑)。
いや、1950年代ってどこもかしこもそんな感じだったんだろうし、リアルに徹すればああいう描写になったっていうのもわかるんだけど、逆に「この際だから徹底的に吸っちゃるぞ!」ってくらいに喫煙シーンが全編に充満してたのが面白かった。何たってエド・マローからしてオンエアの直後から左手に吸い掛けを挟みながら「Good Evening」とかってビシッとポーズを(カッコいいのだ、これが)決めていたりするのだから。
最近のハリウッド映画ともなれば、テレビ放映の際の権利まで織り込み済みだろうに、この作品では堂々と「KENT」のモノクロCMまで出てくるからな。モノクロ映像を選んだことを含めて、敢えて今のメディアや世の“良識”をわざと逆撫でしにかかったんじゃないかという気すらしてくる(笑)。
聞けば監督のジョージ・クルーニーは、この作品の製作資金を捻出するために自宅を抵当に入れたという話だ。このあたりはマローやフレンドリーが自腹で新聞広告の料金を払ったとかいう話にも通じるようで興味深い。
オリバー・ストーンのように単細胞でもなければ、マイケル・ムーアのように無邪気でもないように見えるクルーニーは、ある意味バランスの取れているようにも見えるけど、そこが逆にどこか頼りない印象を与えるとしたらもったいない話だ。できればこの先、したたかで確信犯的な映像作家としての道を歩んでいってもらいたいものですね。私はその辺のショービジネスの事情は知らないので、今回の映画を見た限りにおいてそうした感想を抱いた次第。

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