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2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。



多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

              

先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。



多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

              

先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。



多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

              

先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。



多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

              

先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。



多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

              

先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。



多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

              

先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/27  雪っこ  エッセイ

岩手の陸前高田市に本社を置く「酔仙酒造」が作っている

活性原酒「雪っ子」を上野の会社の近所の酒屋で見つけた。

何十年振りに見たことになる。

岩手の盛岡や一関でも何処でも冬は置いてあるのですが、

父が亡くなって36年目ですが、盛岡で晩年の父が飲んでいてご相伴をした時以来

あまり記憶がないのですが、無性に懐かしさを覚えて、

180mm缶をあるだけの4缶買ってしまった。

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多分父親を偲ぶ・・父が愛飲していたお酒であったかもしれませんが、

味は覚えていました。

トロリと甘く、喉越しを過ぎると酸味があり、独特の旨さがあります。

飲み口が良く、幾らでも飲めそうな、女性でも口当たりの良いのですが、

ところが、アルコール度数が20度から21度ありますから、

一缶も飲めば大概出来上がってしまいます。

後を引いて飲み過ぎると、帰りの雪道で腰を取られてしまう・・・要注意なのです。

酔仙酒造は3年前の津波で本社工場が壊滅し、その後復興を目指し、

一関市千厩の玉の春酒造の一部を借りて創業を始め、翌年12年に大船渡市に

工場を作り、「雪っ子」も12年10月に出荷することが出来たようです。

大船渡も小生が中学3年生の時に住んだ街で懐かしい思い出があります。

酔仙酒造のお酒を飲むことも復興支援かなと、

お酒飲みは後付の理由を真しやかにつけたがるものですが・・・・・。

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先週は上野の夜の詩吟教室で720mmの「雪っ子」と李白酒造の「李白」720mmを

12人の仲間で詩吟を終えてから、一杯やりましたが、

李白の「月下独酌」、「山中対酌」を吟じながらやると、

これまた一段と李白の詩に興が乗ってきます。

   月下独酌 李白


 花の下 一壷の酒 独り酌んで相親しむ無し
 

 杯を挙げて明月を邀え 影に対して三人と成る
  
 
 
 月既に飲むを解せず 影徒らに我が身に随う

 
 暫く月と影とを伴い 行楽須らく春に及ぶべし


 我歌えば月徘徊す  我舞えば影零乱す


 醒むる時は同じく交歓し 酔うて後はおのおの分散す
 

 永く無情の遊びを結びて ばくたる雲漢に相期す
  

詩の心・・・李白44歳、長安滞在中の作とされます。

 月下花咲く木陰に酒壷を持ち出し、相伴してくれる友もなく、

 ひとり手酌で飲んでいる。

 そこで杯を挙げて、月を招き、自分の影も合わせて三人となった。

 月はもともと飲めないし、影もひたすら私の真似をするだけである。

 しばらく、この月と影とを友として飲み、心いくまでこの春を楽しむことにしよう。

 私が歌えば、月はそれに合わせて動き廻り、私が舞えば、

 自分の影もそれに合わせてゆらめく。

 酔いつぶれるまでは、三人で楽しみ、酔ってしまえば互いに別れ別れだ。

 いつまでもこのような、清らかな関係の交遊を続け、

 この次は、あのはるかな天の河ででも再会するとしよう。

 詩想の奇抜なことはまさに李白の独壇場でありましょう。

 自分と、自分の影と、月と3人が喜びを交わすというこんな世界はお酒を酌み交わしながら

 連吟で詠えば自ずと李白の世界に入って行きます。

つくづく李白の時代に生れたならば、李白と共に酒を酌み交わしたいと思うもの。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。



やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)



(同飛び梅の秋の風情)



平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。



    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である



      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。



やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)



(同飛び梅の秋の風情)



平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。



    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である



      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。



やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)



(同飛び梅の秋の風情)



平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。



    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である



      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。



やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)



(同飛び梅の秋の風情)



平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。



    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である



      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。



やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)



(同飛び梅の秋の風情)



平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。



    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である



      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。



やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)



(同飛び梅の秋の風情)



平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。



    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である



      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  学問の神様菅原道真の忌  漢詩

本日25日は菅原道真の忌日です。

暖かくなった東京地方、花粉も飛び始めたそうですが、今年は少ないようでまずは一安心。

お昼すぎ湯島天神に散歩に出てみました。

本殿横には太宰府天満宮から寄贈された梅が飾られておりました。

道真公ゆかりの北野天満宮では恒例の梅花祭が行われていたようですが、

ここ湯島天神では京都の舞妓さんが薄茶を振舞ってくれる行事はありませんが、

8分程度に開いた満開の梅が大勢の参拝客をもてなしてくれます。

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やはり道真の忌は「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)

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平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。

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    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。


今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である

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      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
 
 
  
  恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週の詩吟教室は道真に因んだ上掲の詩を吟じて、道真公を偲ぶことになりそうです。

2014/2/25  高くなった「金」をここで一旦利食い売り  仕事

「金」プラチナ相場が原油高。CRB商品指数の上昇に伴い堅調です。

年初(1/6)の「金」1236ドル、グラム4168円(年末比68円高)、104円67銭で始まったが

本日(2/25)で1336ドル、グラム4393円と102円49銭と2円以上も円高になったのにも

関わらず上昇している。

(1円の円高は約43円、グラム建て価格を引き下げるので、

2円18銭の円高は約94円ほど安くなる計算です)

年初に比べドル建てで100ドル、グラム建てで225円ほど高くなっているのは、

米国の量的緩和縮小策が開始されたことで、新興国の通貨安や株安によるもので、

市場参加者の多くが今年の「金」相場の見通しに弱気だったのですが、

投機筋が「金」先物を買いだしたりして、

シカゴ先物市場の買い残高が2月移行増加して、

「金」ETFの残高減少も歯止めが掛かってきていることがあげられます。

今朝早く、お見えになったお客様は高くなったこの相場を見て売り時と判断したそうで、

コツコツと買い集めた25g、50g、100gの純金を売却されました。



純金は売り買いの手数料が低いので銀行の為替両替手数料の約1%と比べると

10分の一程と安いのです。

自由競争のこの世界は低利率でやっているのですが、

護送船団の銀行は利権に守られているのですが、

賢い消費者は年利率0.1%以下の銀行利息を敬遠して、

一部を「金」投資に実際に回しているのですね。

インドや中国ではこうした「金」投資は一般的なのですが、

日本もこうした時代に入っていることを

「金」買取の現場から痛感します。





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