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2015/7/31  ビッグアメリカン(ニューヨークの思い出)  エッセイ

ビッグアメリカン(ニューヨークの思い出)

1980年前後のアメリカにはアメリカンドリームと西部劇で見るような鷹揚なイメージもあり、

日本から見るとトランジスターラジオから次第に電気製品がアメリカに売れ始め

日本製の自動車などの輸出攻勢がトップギアに入り始めるのですが、

ニューヨーク五番街と六番街のダイヤモンドストリートの20WESTのビルの14階に移ってから、

同じビルの7階にあるサイトホルダーの中でも有力な会社であった

「ウイリアム・ゴールドバーグ社」を訪ね、

社長以下奥様、ご子息、娘さんとその婿さんと大勢の事務スタッフと

事務所内にある研磨工場のボスと研磨職員さん、

またダイニングのコックさんとこの会社の雰囲気が好きになり、

ここの親父さんの人柄に惹かれ、何百回と取引を重ねましたが、

最初の訪問で「お前に儲けさせてやる」と親父さんが

3カラットのイエローカラー・VVS1のラウンドカットのダイヤ二個を薦めてくれた

36年も前の事を今でも鮮明に覚えているのですが、

初めて見るイエローカラータイプで日本でも見たことも無いものでしたが、

西部劇のジョン・ウエィーンの様な親父さんにビッグアメリカンを重ねて、

度胸を決めて買い、やがて7カラットのDカラーの大粒石を始めて見て、

「清水の舞台から飛び降りるつもり」で買ったものでしたが、

思えば10カラットのDカラーフローレスまでを売買出来るようになったのは、

ここの親父さんとの出会いだったかも知れません。

世界中の富裕層を相手に商売をしている彼らの立場からみれば、

何個かのダイヤを買う規模の小さい客なのですが、

「今まで会った日本人の中でお前は変わっている…

薦めてもこんなタイプのダイヤを買った日本人はお前だけだ」と褒められたのか、

ジョークなのか,33歳の怖いものなしの自分には、アメリカ人の懐は広いなァ・・と

憧憬の眼差しで眺めておりました。

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彼が時折見せてくれる製作中のものだが、と断りながらも、

センターストーンが10カラット、その両脇が7カラット、

その隣が5カラット、3,2,1カラットとグラジュエションに取り巻いたネックレスで、

全てのダイヤの品質がDカラー、インタナリーフローレス、

エクセレントカットという超豪華な総金額は?

何処の誰に売るの?

どんな人が買うの?

自分には知らない途方もなく大きな世界が彼の会社にはあったようでした。

以前、国税庁が差し押さえのダイヤモンド7.5カラットD-IFのダイヤモンドが

競売になると話題になり、当ブログでも以前に取り上げましたが、

最低入札価格が4080万円と国税庁始まって以来のオークション最高価格(不動産を除く)

ということでマスコミ各社が取り上げブログを投稿した夜のNHKニュースでも

映像入りで報道されていましたが

36年前のニューヨークではそんなダイヤモンドが30個ほど束ねた

ネックレスを作っていたのです。

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(ニューヨーク時代の若き日の筆者)

サンキューミスターチェーン

このビッグアメリカンの会社に行くと、最初にダイニングでお茶を淹れてくれて、

ランチになると我々のサンドイッチも作ってくれた中国系の

人の良さそうな叔父さんが居ましたが、

何かの事情で会社を辞めたそうで、「あれ何時ものチャイニーズの叔父さんは?」と聞くと

ジュエリーの雑誌を開いて見せてくれました。

そのジュエリーの雑誌の一面に彼の写真が大きく載っており、

「サンキューミスターチェーン」と書かれた広告がありました。

ダイヤモンドの会社が会社のコックさんが辞めるに際しての感謝と惜別の広告でしたが、

なるほど会社のイメージ広告・パブリシテイとはこうしてやるものかと舌を巻いたものでした。

8年前に久々に振りに訪ねた時に、このビッグボスは前年に亡くなって居り、

奥様、ご家族にお悔やみを申し上げてきたのですが、

このビッグカンパニーもその数年前にデ・ビアスのサイトホルダーを辞めて、

南アのパートナーと組んで原石をオープンマーケットから仕入れ研磨しており、

「今の状況に満足している」と二代目さんの息子さんと、

婿さん娘さん達は相変わらず活躍していました。

日本語サイトからもグーグルでこの会社の検索を見ることが出来ます。

NYのエクセレントカンパニー、エクセレントファミリーです。

サンキューミスター「ウイリアム・ゴールドバーグ」・・・合掌。

1970年〜80年頃のアメリカには彼のような鷹揚な米国人が沢山おり、国も豊かで、

産業も、文化、音楽・芸術の発信地であったのですが、

それらに憧れと目標を見出した日本人が、一旗組も大勢ニューヨークに居りましたが、

今は大分変わってきたように思います。

世界の警察として各国に軍を派遣していた米国も軍事費の縮小で、

日本への一部肩代わりを求められた安倍首相が、

国会と国民に説明と承諾のないまま米議会で演説してきた、

集団的自衛権の行使という憲法解釈の変更が、

今や安倍内閣の致命傷となって退陣間近か?




2015/7/29  大西日贖罪曝すごと赤し  

毎日暑い日が続きます

平日でしたが、10/10開催予定の「第6回日本芸能の集い」の参加団体の

代表者会議のプログラム編成会議を招集しました。

逆に言えば、各先生とも土・日も教室を持っているので、

平日の昼の方が皆さんに都合が良いという事情もあります。

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(第5回日本芸能の集いの舞台の一幕)

今回は12時開始の16時終了とコンパクトに演目を集中して行う為に

例年だと、前夜のリハーサルもなく当日午前にリハーサルが出来るので楽ですね。

清風会の出し物も殆どが5人、から30人の合吟に剣・詩舞を入れての12番で

独吟はなしで、順番待ちの方には申し訳ないことですが、

次回に楽しみを残してもらって、遠い人は横浜、浦和方面からも参加してくれます。

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(第5回日本芸能の集いの舞台の一幕)

梅雨明けの宣言がまだないままに暑い毎日です。

雨がなくて畑のトマトにはいいですね・・・。


2015/7/27  「夏カレー畑の野菜あまた入れ」  日記


月曜日は早めに帰宅して、

室内自転車で軽く運動しmシャワーをしてからゆっくり夕食ですが、

家に入る前にトマトと胡瓜を捥いで冷蔵庫で少し冷やし食卓に乗せ、夏野菜を満喫の日々です。

カレーには茄子、ピーマン.シシトウ、ニンジン、オクラ畑の恵みを頂きます。

夏はカレーですね。

夏に食欲が落ちたことはないのだが、カレーは夏の食欲を増してくれる。

頂いたイタリアンワインの赤で舌鼓・・ミディアムボデイの飲みやすいやや甘口かな?

1本飲んでしまうと、カミさんに飲みすぎと言われちゃうので、

三分の一は残すことに。

まあ9時過ぎからのBS6の「酒場放浪記」などを見ていると、

ついつい焼酎などを取り出しそうですけどね。

飲みすぎに注意・・・注意・

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2015/7/25  平家物語の一節  エッセイ

土曜日は詩吟の日で、午前は東金、午後は土気教室。

19日に新小岩で清風会の合同一吟会で皆さんが熱唱し、盛り上がった後だけど、

今日も全員が出席、

土気教室では岳風会の経験者の新しい見学者が一名見えて、

暑い中ですが、詩吟熱は相変わらず高いものがあります。

土気教室では会員さんからのリクエストで丘灯至夫作の日本讃歌と

平家物語の一節をやってみる。

漢詩のみならず、いろいろな詩に皆さんが興味があるようです。

平家物語の一節

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

驕れる者久しからず ただ春の夜の夢のごとし

猛き人も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ


吟じ終わった最後は南無阿弥陀仏の気持ちになるような気がします。

作者については古来多くの説があり、

鎌倉末期に世に出た吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長なる人が平家物語の作者であり、

生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述があるようですが、

正確なことは判りません、

栄華を極めた平氏の滅亡を描いた「驕れるもの久しからず」の一節は何時の時代にも

共通したものがあり、日本人の琴線に触れるものがあるようです。

今でいうなら総理大臣安部晋三だろうか・・本人が絶賛したアベノミクスの成果といえば、

国民の60%以上の人が生活が苦しいとの世論調査。

内閣の支持率も30%台で、

国民にも国会の承認のないままに集団的安全保障法案を米国会で約束し、

TTP法案を約束した売国的、パフオーマンス首相を国民は許さない。

自己陶酔によった安部晋三の「猛き人も遂には滅びぬ ・・・」

風前の灯だ。

学者や文化人がこぞって「安部政治を許さない・・」と

反対の声を上げられた総理も見たことがない。

日本国のためにも9月退陣説までとは言わず、一日も早く退陣させなければと思う。

思えば、麻生太郎、鳩山由紀夫、管直人から野田佳彦、安部晋三と

日本はトップに恵まれないのが不幸なことだが、

政治家そのもののレベルが可なり低くなってきていたことも事実だね。

昔は「末は博士か大臣か」・・という大志のように目標とされたものだったが、

いまは少年には政治家のなりたいという大志や目標はないそうですね。

優秀な人は政治の世界に行かなくなり、

世襲議員か、はたまた就職の一手段と捕らえられているのも寂しいことですね。

2015/7/24  一カラットがメレ石(イスラエルの思い出)  エッセイ

一カラットがメレ石(イスラエルの思い出)

イスラエルが軌道に乗り出した1987年。

現地のスタッフから、10ct、15ctのピケやラディアントカット、

プリンセスカッの大きな魅力的なダイヤモンドを買いたいが、

仕入れの予算が50万ドルほど上回るが、大丈夫ですか?」と

東京のオフィスに夜中にFAXが入る。

よしカネの心配は任せておけ、好きなようにやれ」と返事を出し、

さて、国内の売掛金の回収や、

手元の商品の販売に手持ちの受取手形を割り引く。

1ドル145円程度の1987年頃、7000万円の追加資金需要に必死になったものだが、

何とかしようと思えば一日で何とかなった良い時代だった。

一カラットのダイヤモンドが小さく見えて、一カラットをメレーダイヤと豪語していた。

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最近では一カラットの高品質のダイヤモンドは、国内には在庫が少なく、

探しても見つからないこともある。

最近は輸入が殆どなく、流通在庫は海外に出荷されるので

国内需要のある時には現物がないのが現状なのです。

反面、香港のジュエリーショーでは20カラット、30カラットのダイヤが

ゴロゴロと転がっている。

日本の市場には往時の面影はなく、栄枯盛衰は一場の夢だった。

ダイヤモンドも富の有る所を求めて居所を移っているようだ

ダイヤモンドの仕入れの形態も原産地、研磨地からの輸入から

いまは殆んどが国内の以前販売したダイヤモンドの買取。

もしくは市場での仕入れと大分変わってきました

2015/7/23  ミツイヤ(バーゲン)の落とし穴・・(ニューヨークの思い出)  エッセイ

ミツイヤ(バーゲン)の落とし穴・・(ニューヨークの思い出)

スーパーのバーゲン品やデパートの特売コーナーは世界中どこでも賑わう。

定価を知っていれば、良品の格安品を買い逃したら損だと人は群がる。

ダイヤモンドの世界にもバーゲンがある。ヘブライ語でミツイヤと言う。

ダイヤモンドは原石を研磨して研磨済みのダイヤモンドとして製品化するが、

原石が思った以上に良品質の研磨状態に仕上がった場合はお赤飯ものだ。

一つ二つ下のグレードで値踏みした品物がGIAのレポートを取ったらグレードがアップしたとか、

市場価格よりもかなり安く手に入れた時はバイヤーとして最も嬉しい瞬間だ。

その逆もある。グレードを間違って高く買ってしまったり、

一度「マザール」(成約を意味するユダヤ語)した商品を見直し、

これは本当にミツイヤだったか、

自分のミスを見直したりする。

集中力が維持するのは難しい。

疲れてくるとミスを招くので、休憩するが、

ブローカーや売り手はこちらの気を引くために、「ミツイヤ」を連呼する。

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(1980年代の筆者の仕入れ風景)

「追えば引く、逃げれば追う」、欲しがっていては相手の術中に嵌ってしまう。

こうしたダイヤモンドの仕入れを専門に行うバイヤーという専門職が

1990年代まではあったのですが、弊社のイスラエルメリンダ・ダイヤモンドも2004年に撤退し、

日本人ではダイヤモンド専門ののバイヤーはなくなってしまったのですが

今は中国人やインド人業者にそうした専門職があり、もちろんユダヤ人業者にも居りました。

私も1990年代までの20数年間は海外での仕入れ専門で動く時期が三分の一以上ありました。

現在は海外で仕入れすることはありませんが、

弊社の仕入れに費やす営業努力は全体の半分から三分の二以上ありました。

思い起こせばあの頃が一番油の乗っていた日本の経済成長期とマッチした頃でしたね。

今日は夕方明るい内に帰宅したので、犬をつれて散歩・・。

稲穂が付き、田んぼが緑色になってきました。

もう一月もするとこの界隈の田圃の稲刈りが始まりますね。

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2015/7/22  親愛なるブローカー・ジュ―イッシュ(ニューヨークの思い出)  エッセイ

親愛なるブローカー・ジュ―イッシュ(ニューヨークの思い出)

ニューヨークへ会社を設立したのが、1979年で今から36年前であり、

筆者も32歳の怖いもの知らずだった。

ニューヨークのダイヤモンド街に会社を出すということは

ユダヤ人社会の中に生きるということだった。

ニューヨークのダイヤモンド商は殆んどがユダヤ人で、

当時は当地でインド人やその他のアジア系を見かけることはなかった。

ユダヤ教の中でも宗派が沢山あって正統派の一年中、

黒マントを着て宗教の教えに従っての日常生活は食べ物や

休息日などいろいろと違った生活ですが、

シナゴーグ(お寺)の違いによって黒帽子の形も微妙に違うようだが、

総じて家族思いで、ユーモアを解し、

義理人情に通じた彼らには当初から親しみを感じていた。

彼らは食べ物にも宗教上の決まりを守って爪のある動物のもの,

甲羅のあるものなどは食べず、殆ど外食もせず、ランチのサンドウイッチを持ってきて

クラブや事務所で食べるので、どう?・・ランチ行かない・・とか

今夜一杯どう?

などということはない。

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(ブローカー相手に値段交渉中の35年前の若き日の筆者)


ダイヤモンド産業に働く人々は大きく分けて、

@マニファクチュア呼ばれるダイヤモンド原石を仕入れ、研磨する人と、

その工場で働く研磨職人、

A原石や研磨済みダイヤモンドを買って商売をするデーーラー、

B売り手と買い手の間に立って商売の仲介をするブローカー、

47丁目の路面店舗には

Cエクスチェンジと呼ばれるダイヤ・宝石の小売店があり、

また宝石の器材や本を売る店やダイヤモンド・宝石の鑑別(レポート)の付帯ビジネスもあり、

五番街の47丁目角の五八〇はビルごとダイヤモンド業者数百社が入っている。

メリンダ・ダイヤモンドは1979年にこの五八〇ビルの8階801号室の

ユダヤ取引業者の事務所内に設立登記し開設された。


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(後のNYメリンダ・ダイヤモンドの自社ビル)

NYの会社での仕事はダイヤモンドの買い付け、仕入れです。

販売先である日本のお得意様の注文と売れ行きの良いものの品筋を買うことだった。

常時は駐在している日本人社員のI女子が指示を受けながら仕入れをするが、

毎月1,2週間は自分もNYへ来て仕入れをし、3週間は日本の会社で販売に精を出す日々だった。

競争力のあるダイヤモンドが2ct、3ct,5ctが当時は飛ぶように売れたものでした。

高度経済成長の真っ只中で、毎年給料は上がり、右肩上がりの平和ないい時代だったですね

現在の中国も香港も及ばぬ経済力と消費意欲が1970〜80年代はあったのでした。


2015/7/20  夏の浜渚を低くグライダー  日記

海の日の大網白里海岸は夕方のなってもまだ沢山の家族連れが・・。

半ズボンにTシャツで浜辺を散歩し、

小さなテントを張って海を前に読書するいい季節です。

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昨日は詩吟の会「清風会」の昇段・合同一吟会を新小岩地区センターで開催しました。

75名が参加し朝9時過ぎから5時まで盛り沢山の一吟と隠し芸も・・・。

愉快な仲間たちです。

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詩吟は自らの気を養うものですが、

大きな声を出し健康に良いことは勿論、沢山の仲間と触れ合い、中高年には最適ですね。

自分は多くの人に詩吟を広め、仲間を増やしてゆきたいと思っている。


2015/7/18  テルアビブのダイヤモンド産業(マイビジネスストーリー)  

テルアビブのダイヤモンド産業(マイビジネスストーリー

イスラエルにダイヤモンドの仕入れに出かけたのは1978年、32歳のときだった。

あの頃のことを今も鮮明に憶えている。

アンカレッジで機体の修理に9時間止まり、パリで一泊をした長旅をへてやっとイスラエル入り。

まず友人の案内で取引先の研磨工場を初めて見学した。

ダイヤモンドの原石を円盤に据えて廻して、

ピンセットに挟んで五八面のファセットをカットし、ガードルを磨き、手作業で研磨する。

顕微鏡の世界の技術に感心して見入ったものだった。

工場で働く人たちは若い人が多く女性職人も大勢いた。

音楽を聴きながら研磨に精を出していて、仕事場は活気に満ちていた。

ユダヤ人国家イスラエルは、第二次世界大戦後に悲願のイスラエル建国を果たし、

その後、ダイヤモンド産業を国の基幹産業の一つとして育成していた。

私が訪れた1978年頃は、

ダイヤモンドの輸出入に関税を掛けないなどの優遇策を講じたことにより、

ダイヤモンド・ビジネスが急速に発展していた。

1949年にはたった512万ドルだったイスラエルのダイヤモンドの輸出は、

1960年には5623万ドルに、1970年には2億204万ドルに、1980年には14億906万ドルとなった。

なんと、加工ダイヤモンドの輸出がイスラエルの全産業の輸出の約4分の1以上を

占めるまでになった。

香港という中継地でダイヤモンドの仕入れをしてきた私は、

ダイヤモンドの量の多さに仰天した。

検品する一つのロット(紙に包んだダイヤモンド)に3分石(0.3ct)が100個以上も入っていた。

30ctは小さいほうのロットで、その3倍も、5倍もあるロットに、

あまりの量にオファーができず困ったものだ。

最初のイスラエル出張はテルアビブ郊外のダイヤモンド工場を数軒訪ねただけだったが、

当時32歳の自分には大きな衝撃だった。

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(エルサレム嘆きの壁の前の弊社スタッフ)

後にラマトガン(テルアビブ東部)にあるダイヤモンド取引所のビル内に、

メリンダ・ダイヤモンド・イスラエルの現地法人を置くことになるとは、

とてつもない大量のダイヤモンドの検品に埋もれることになるとは、

この時はそんな将来のことなど全く夢にも思っていなかった。

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(ベツレヘムでラクダに乗る若き頃の筆者)

シャバットとカシェット

イスラエルに現地法人を作り、ニューヨークのスタッフのM氏がテルアビブに常駐し

ダイヤモンドの仕入れに当たるようになった。

自分はニューヨークに毎月のように出かけていたが、イスラエルは好きな国でした。

ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、

ヘブライ語でシャバットと言う。

彼らはケンケン・ローロー(イエスorノー)の商売たけなわの金曜日の昼過ぎになると、

ソワソワし出して帰宅を急ぐ。

こちらは週末最後の仕入れのマザール(商談成立)を取ろうと必死だが、

彼らの宗教では安息日には完全に文明の日常生活から離れなくてはいけない。

車やバスに乗ったり、電気、ガスなどで火を使ったりするのは御法度である。

一切労働をしない。

これは、『出エジプト記』二〇章の教えに基づく行事である。

神が天地創造において7日目に休まれてこの日を祝福し、

聖であると宣言し、労働してはいけないと教えている。

また『申命記』五章では、

神がユダヤ人をエジプトの奴隷状態から連れ出して休みを与え、

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と教えている。

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(エルサレム旧市街での若き日の筆者)

ユダヤ人にとっては毎週行わなければならない大切な宗教行事である。

ダイヤモンドの取引で、検品をしたダイヤモンドを小袋に入れて、

買い手のオファーと支払い条件を封筒の表に書き入れることを「カシェット」と言う。

仲介のブローカーは品物を販売する売り手側とその「カシェット」について交渉するが、

シャバットの前に仕事の成果を出そうと彼らも必死になる人もいる。

売り手もシャバットに入る前にひと商売をしようとカウンターオファーなどを出したりする。

金曜の三時前がこのケンケン・ローローのピークになる。

金曜日のランチはこの大仕事が終わってからゆっくり取ることにしていた。

ニューヨークでは韓国料理や馴染みの日本料理屋が遅くまでやっているが、

テルアビブでは出前のサンドイッチを頼むか、一軒しかない中華屋に行って、

早々とその週の反省会を兼ねた宴会を始めるのが常だった。

しかし考えてみれば、休日はゴロ寝や娯楽、スポーツ、旅行などの私たちと違って、

ユダヤの人たちは一日現世から離れ、聖書を読み、断食し祈りに専念している。

人間形成において長い間のこの差は大きいのでは?、と思うものだった。

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(イスラエルマサダの要塞に立つ若き日の筆者)

1970年から80年代は日本ではダイヤモンドブームでイスラエルやアントワープの

ダイヤモンド研磨地で仕入れる品物は競争力があり、飛ぶように売れたものでした。




2015/7/17  一足先の、男女雇用機会均等法(ニューヨークでの第一歩・・マイビジネスストーリー)  エッセイ

一足先の、男女雇用機会均等法(ニューヨークでの第一歩・・マイビジネスストーリー)

1978年に初めてニューヨークでダイヤモンドの買い付けをして、

予想以上のビジネスの可能性を見いだした。

ツーリストバイヤー(出張買い付け)ではより安く安定的に

ダイヤモンドを仕入れることが出来ない。

常時仕入れをするためには現地法人を作り、社員を置く必要があると考えて、

ニューヨークに住む英語の堪能な日本人を採用することにした。

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ニューヨークで販売されている日本の新聞に日本語で求人募集のチラシを折り込んだ。

いわゆる米国の雇用均等法によって、性別を限定して募集することは出来ないし、

面談で学歴や個人情報に関することを聞くのはいけない。

雇用均等法は、1979年の日本ではこの法律はまだなく、成立するのは十数年後である。

「男子募集」と書いたら、たちまち思わぬ反応があった。

女性が応募してきた。

そして、こんな差別的な募集広告を出してはいけない・・・との電話の批判もあった。

思わぬ勉強をして出会ったのが、NYメリンダ・ダイヤモンドの基礎を

築いてくれたI女子であった。

彼女はGIA(ジェモロジカル・インスティテュート・オブ・アメリカ)を出た才媛で、

ユダヤ人が経営するカラーストーンの会社に勤務していたが、

日本人のダイヤモンド業者の求人募集に親しみを感じて応募してきた。

米国人と結婚し米国永住権を持っていて、

GIAを出ているので即戦力として面接に来たその日から活躍してもらうことになった。

以後15年、NYメリンダ・ダイヤモンドを実質的に切り盛りしてもらったのだった。

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1979年当時はNYに憧れ、芸術家の卵も一旗組も、企業の米国進出熱も高く

アメリカンドリームの米国は世界から見ても憧れの国だった。

この年は赤ヘルの広島カープが優勝した年だった。

あれから野球ファンも女性が増え、今やカープ女子という言葉もある。

あゝうゥと大平正芳さんが総理大臣で、人気アニメ「ドラエモン」の放映がはじまり、

「北国の春」を千昌夫が「舟歌」を八代亜紀が歌い始めて年だった。

日本ではスナック、NYではピアノバーが全盛で

今のような政治デモもなくダイヤモンドがよく売れた、平和ないい時代だった。

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2015/7/16  仕事始めは、「イエローページ」(マイビジネスストーリー)  エッセイ

仕事始めは、「イエローページ」(マイビジネスストーリー)

1978年、初めてニューヨークにダイヤモンドの仕入れに行った。

香港での仕入れから元はイスラエルとニューヨークらしいのが分かり、

イスラエルの初訪問の同じ年にニューヨークへ飛びました。

ニューヨークへ仕入れルートの開発に乗り出したのは1978年(32歳)の秋だった。

春のイスラエルのテルアビブ出張に続いての出張だった。

当時の日本は右肩上がりの経済が、さらに加速しようかという時代だった。

大平内閣が発足し、試験管ベビーが誕生、大相撲では北ノ湖が年間五場所優勝、

万年Bクラスの我がヤクルトスワローズが悲願の初優勝を果たした。

個人的には父親が57歳で亡くなった年でした。

当初はユダヤ人のビジネストークの小気味良さに引かれたものでした。

ニューヨークには全く仕入先の目星もツテもなく、事前に東京のジェトロで調査をしたが、

エイ「当って砕けろ」……と度胸ひとつでホテルの予約だけをして飛行機に乗った。

パンナム航空のアンカレッジ経由(当時、ニューヨーク直行便はアンカレッジで給油した)で

16時間ほどかかったが、売り出されたばかりのソニーのウォークマンを

肩からぶら下げて長旅を楽しんだ。

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ニューヨークに着いた。英語がさっぱりわからず、取りあえず通訳を雇って行動しようと思い、

ホテルにチェックインすると、まずは部屋に置いてあったイエローページで

「ジャパニーズ・インタープリター」のページを引いた

(インタープリターの英単語だけは日本でメモしておいた)。

通訳はすぐに見つかり、部屋に来てもらった。

さあ・・ニューヨークでの第一歩が始まる。

30分ごとにダイヤモンド商を巡る(ニューヨークでの第一歩)

NYのホテルに着いて、まずイエローページの職業欄から

ダイヤモンド・ホールセール(卸売り)を一行ごと追いながら、

電話で30分ごとにアポイントを取り、翌日から行動を開始した。

マンハッタンを方々移動するのかと想像していたら、

何のことはないほとんどが同じビルの中か、付近のビルに集中していた

(後でわかることだが五番街の47丁目と六番街の間がダイヤモンド・ストリートで、

業者はここに集中している)。

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通訳を交えて30分単位に商談し、ビジネスとなれば共通の土俵なので、

言葉の障害も乗り越えて仕事は予想外にスムーズに運んだ。

商談が成立すると直接弊社の取引銀行経由で品物を日本へ送ってもらうことにした。

ニューヨークのダイヤモンド業界はユダヤ人社会に支えられている。

黒マントに髭面のユダヤ人とのビジネストークは、

小気味の良いマネートークの世界で当初から親しみを覚えたものだ。

数多くの業者に会い、今後取引できそうな相手を在庫や相性、

ダイヤモンド・ビジネスの考え方などから探り、彼らの仕事の仕方を学んだ。

この時に頼んだ女性の通訳は優秀な人で、

米国人と結婚し子供を育てながら働いているバリバリのキャリアウーマンだった。

大変てきぱきして人で、ニューヨークにおけるビジネスのナビゲーターとなってくれた。

NYメリンダ・ダイヤモンドの会社設立の際の登記手続きのための弁護士の紹介、

銀行口座の開設や銀行貸し出しのアポイント、

ウォール街や24年後にテロ攻撃で崩壊したツインタワー(貿易センタービル)の案内など、

有能な秘書として働いてくれた。

銀行では、今で言うATMの自動振込みや引き出し、

銀行間の送金などを初めて体験し新鮮な驚きを受けた。

帰国後その模様を取引銀行の人に話すと、

「そんなことが出来たら銀行の平均残高の計算が立たないよね……」と考え込んでいた。

当時のニューヨークには日本の5年、10年先を見通せるヒントが方々に転がっていたのだ。


2015/7/15  新ジャガの籠を重ねて梅雨明くる  

いつもより早起きをしてジャガイモ掘りに精を出しました。

土を掘るとザクザク出てくる芋掘りは毎年やっててもワクワクする仕事で

早起きも苦にはならない。

金脈を掘り当てたような楽しさは、

もしかして山師の血が流れているのかもしれませんね。

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日が高くなって暑くならない内に仕事をしたいだけですが、蚊に刺されるので対策が必要。

出勤前の朝飯前のひと仕事です。

セミが鳴き始めましたね・・梅雨が明けたような感じです。

今夜はポテトサラダかな。

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2015/7/14  「湯を沸かし唐黍を捥ぐ暮しかな」  日記

8時過ぎに帰宅し、暗い中、車のヘッドライトの光でトーモロコシを初収穫、

お湯を沸かして畑から捥いで来る・・・。

美味しさは言うまでもない、ご飯代わりですね。

捥ぎたてのトマト、ナスのシギ焼き、枝豆と

畑の恵みを頂く夏は最高ですね・・。

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明日は早起きして残っているジャガイモを掘りますかね。

2015/7/14  EU圏からのギリシャ支援合意で安堵する市場は、「金」相場はどうなる?   時事

13日未明、欧州諸国の首脳は、約17時間におよぶ協議の末、

条件付きながらギリシャ向けに最大860億ユーロ(11兆6千億円)を支援することで合意。


ギリシャのチプラス首相は、債権団の主要な要求を15日までに法制化する必要がある。

これを受けて世界の株式市場は昨日から 急騰しており、ドル高・円安となり、

市場のリスクオン(投資意欲の盛り上がり)の動きから

「金」相場は週明けのNY市場では1149ドルの安値まで売られ、

3/17の1141.6ドルの年初来安値を意識する水準まで下落している。

ユーロ・ドルは前日の取引で、ギリシャ向け支援合意が伝わると、

一時1ユーロ=1.1197ドルまで水準を切り上げたが、

その後の海外市場にかけては売りが優勢となり、1.0996ドルまで下落。

14日11時現在では1.1000ドル近辺で推移しており、

ギリシャ政府は法案の整備が15日まで出来ないことを読み始めているようだ。

今後は米国の利上げの時期をめぐるドルの行方に注目が集まっており、

「金」市場にはドル高は重しとなり、

年初来安値を割り込んでゆくことが予想されるが、

反面円安はグラム建て価格を押し上げるため(一円の円安はグラム当たり凡そ37円高くなる)。

ギリシャは1820年から1930年までの間に5回のデフォルト(債務不履行)をした

過去の歴史から国民全体が「借りたものは返さなくとも良い」 、

「働かない方が良い」の悪しき風習のDNAを持っている国だけに

再建の道のりはかなり、厳しいと予想されます。

さて一時的にはEU圏からの支援合意で世界的株高、円安となっていますが、

まだまだ予断を許さないところです。

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(上は東京工業品の2014年からの週足チャートです)


ギリシャも大変ですが、日本の安倍政権も危険ですね・・・。

世論調査は何処も支持を不支持が上回り、末期症状に近いのだが、

もとより知能指数が人並みで妄想、独善型でマスコミを操り、

株高と円安で演出したアベノミクスは、国民の60%以上が生活が苦しいとの

世論調査が示すように破綻しており、

米国様のいいなりに集団安全保障法案を通し、原発を再稼働させ、

TTPを推進させ自己保身を図る安倍晋三を退陣させ、

安倍内閣を倒さなければ、日本は危険です。

国民は既に気がついています、全国に抗議デモが起こっているが、

やがて弾圧を恐れて、太鼓持ちになっていたマスコミが

安倍を見切ってこうした報道がなされるようになれば、

やがて健康を理由にまた安倍は退陣するかもしれないが、一刻も早いほうが良い。

ここ一週間が国会の山場のようですね。





2015/7/13  華僑商人について思うこと(マイビジネスストーリー)  エッセイ

1955年に直木賞を受賞した台湾出身の邱永漢氏は、

華僑商人をテーマにした本をたくさん書いている。

香港で、翡翠で一財産を築いた宝石店社長などと会うと、

邱氏の描く華僑商人とダブらせ、鷹揚とした仕草に人生の年輪を感じ取ったものだ。

ところが今やGDP世界第二位となり、経済発展の目覚しい中国の企業家の中には

中国共産国家の新経済政策から進出してきた人たちも多く、

幾多の辛酸と歴史を経た華僑商人とは全く異質である。

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商道徳上の基本概念から少し離れた価値観を持たっている人もいて、

トラブルが絶えないそうだ。

対ユダヤ人とは全くありえないような支払いをめぐるトラブルもある。

統制経済から自由競争経済に入って日が浅いためか。

世界経済人の仲間入りできるようになるには,もう少し時間がかかりそうだ。

当面は現金決済のビジネスが安全のような気がしている。

しかしながら、好き嫌いは別にして、これからは中国を見据えてビジネス展開を

宝石業界も進めて行くべき課題だと思う。

過渡期の今は辛抱と注意を払って、

大国の巨大な消費力を取り込んでゆくことが大事なのかもしれない。

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1978年に香港に現地法人を作った私は、二週間に一度は香港へ来て飲茶をしながら

中国の未来に夢を馳せていた。

1983年にニューヨークに軸足を移したために香港の会社は撤退した。

香港は現在の中国・アジアの窓口の中心としてとして、

特に宝石業界では最も賑わっている都市だ。


あれから今まで続けていればという残念な思いはあるが、

覆水盆に返らず、である。

37年前ですが、翡翠商やダイヤモンド商の華僑商人と初めてあった時の印象は

小説の中で知る彼らの鷹揚とした雰囲気と大阪商人に似た算盤上手の彼らには

32歳の若造から見れば、ある種の畏敬の念と共にビジネスをし、

昼は飲茶、夜は有名中国料理店に招待を受け、美味しい中華に舌ずつみを売ったものでした。

ニューヨークやイスラエルのユダヤ人では食事をご一緒することは希でしたが、

今の香港人華僑商人はどうなのだろうか?

最近の香港はジュエリーショーに出店して逆に売る立場になっているので

食事を招待されることは無くなってきたのですが、

40年前は、古き良き時代だったのかもしれません。

会社兼住居にしていた九龍島サイドの14階から

東洋の真珠と例えられた香港島の夜景を見ながら

グラスを片手に将来の大きな夢を描いていた37年前の頃を鮮明に覚えている。

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