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2017/6/2  本能寺の変の黒幕は?  日記

歴史に「もし・・・」はないのだが、

天昌10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀に打たれ、業火の中に自刃・・・。

この「本能寺」の変が起きなかったなら、太閤秀吉の時代や徳川の世はあったのだろうか?

光秀を動かしたものが怨恨であれ、野心であれ、戦国の世の結果は大きく動いた。

朝廷陰謀説や柴田勝家との共謀説、秀吉、家康黒幕説など、

最近は土佐の長宗我部元親氏と光秀の交流を示す文献が見つかったとして、

長宗我部氏との共謀説、いずれも説得力があるのだが、

本能寺を巡る歴史の謎は深いのだが、

光秀が本能寺の変の前日に公家集と開いた連歌会で示したとされる

「時は今天が下知る五月かな」の句であるが、光秀の本意が隠されているとも言われる。

時は今・・・土岐は今(土岐とは光秀の出自と言われる土岐氏のこと)
 
あめが下しる・・・あめ=天 が下しる、つまり天下を取る
 
五月哉・・・この季節である

(つまり、土岐市の出自である光秀自身が天下を取る)

多くの歴史家の説が入り乱れ、光秀の影武者が討たれ、光秀は生きていたとする説もある。

本能寺を急襲した明智方の大将斎藤利三の娘が徳川家光の乳母「春日局」として

徳川幕府の礎を築くのだが、光秀の三女「明智珠」は後に細川ガラシャ(珠子)として

歴史に名を残すのだが、それらの点と線を探求しているとついつい寝不足になるのだが、

明智光秀=天海上人説(或いは天海上人は光秀の息子説)などの珍説も最もらしき、

整合性もでてくるのだが・・・。

まあ・・・光秀は山崎の合戦で討たれたということで以下の

頼山陽の本能寺と光秀の思いを詠った歌謡吟詠「光秀しぐれ」をYou Cubeでどうぞ。

吟者は詩吟界の第一人者の浪口龍童さん、詩舞は手塚婉戈さんです。

歴史を感じる迫力があります。



幕末の頼山陽は大作「日本外史」の中でも光秀を戒めているが、

以下の有名な七言律詩「本能寺」の一詩は本能寺の変の有様を生々しく描写している。

本能寺 頼山陽

本能寺溝は幾尺ぞ

吾、大事を就すは今夕に在り

粽手に在り併せて食らう

四簷の梅雨 天墨の如し

老ノ坂、西に去れば備中の道

鞭を揚げ、東を指せば天猶ほ早し

吾が敵は正に本能寺に在り

敵は備中に在り、汝能く備えよ


「敵は本能寺に在り」、「是非もない」・・・歴史に残る言の葉だ。

本能寺の変You Tube↓

http://www.youtube.com/watch?v=I06Uh4LWgqU&feature=related


信長が好んで舞い、本能寺の業火の中で、最後に舞ったといわれる幸若舞の敦盛の一節↓

 幸若舞の敦盛の一節

人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

一度生を受け滅せぬ者の有るべきか


この敦盛の一節は熊谷次郎直実が「一の谷」の戦で、平敦盛と組み合い、

一度は「敦盛」を助けようとした直実も、味方の手前、

無残にも若き首を落とさなければならなかった直実の心内を語ったのですが、

そして直実は世の無常を感じ、その後は出家して敦盛の菩提をとむらうのですが、

信長の愛唱した敦盛の一節は

人の世は儚く短いものだ、だからこそ死を恐れず短い人生を思う存分生きようではないか・

・・との戦国の風雲児信長の心境であったのかもしれない。

信長がここで死ななかったら日本の歴史はどうなっていたのだろうか

人間50年の一生は「仏の世界の下層の四天王」の一昼夜に過ぎず、

人の世の命のはかなさを語っている

明日土曜日の大網と茂原教室では頼山陽作「本能寺」を吟じてみよう





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