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2020/10/31  広瀬淡窓(故国の春)  漢詩

鋭きも鈍きも共に捨てがたし

   錐と槌とに使い分けなば
 

1805年宮崎の日田に私塾桂林荘を開いた教育家で商家の出身である

広瀬淡窓は自作の歌のような思想を持ち、後に咸宜園と名を改め以降

10代の塾長の元、八十年間で伸べ4800人余の門弟を世に送り出した。

同じ時期の吉田松陰の松下村塾には維新の傑物が輩出したが、

そこには尊皇攘夷の思想が根底にあり、塾生も攘夷の志士であったが、

咸宜園には数学や天文学・医学のような様々な学問分野の身分の種々な人々が

排出されていた事に淡窓の教育家としての偉大な姿が偲ばれる 

咸宜園(かんぎえん)↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E5%AE%9C%E5%9C%92

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広瀬淡窓は3年の学門を修め、故郷へ帰る塾生に次の詩を贈った

桂林壮雑詠その三(故国の春)

 長鋏帰りなん故国の春

    時々務めて払う簡編の塵

 君看よ白首無名の者

   會是経を談じて席を奪いし人

「学問を続けなさい,そうしないと周りにいる白髪の普通の叔父さんで

終ってしまうんだよ」と叱咤激励した。

友多き 友の中にも 友ぞなき

 沈むも浮くも友にこそよれ(淡窓)


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桂林荘雑詠(諸生に示す)2013/5/15のブログ↓

http://wind.ap.teacup.com/applet/uminoko/20100515/archive




2020/10/30  「試し掘る甘藷巨大に太りをり」  日記

サツマイモを一株ほど試し掘り・・。

思いのほか大きくなってました。

50株は植えてあるので、非常時の食料保存に安心します。

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秋茄子の残っていた10株も引き抜きました・・

茄子がなくなると寂しくなりますね

2020/10/29  「十三夜真山民の詩を詠ず」  漢詩

秋晴れが続き十三夜の月が綺麗に見えます・・。

寒くもなく良いお月見が出来ました・。

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中国・南宋の詩人「真山民」作の山中の月を学習。

隠者の暮らしをするこの作者は美しい抒情詩を数多く作詞しているが、何よりも

1993年(27年前)に他界した小生の師の十八番の詩であった。

民謡も得意であった先生の情緒豊かな高音の吟声は今でも耳に残っている。

そんなことを思い起こしながらこの詩歌を一節づつ伝えてゆくのだ。

しかし何時になっても師の情感はなかなか出せないものだ。

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  山中の月  真山民

我は愛す山中の月

烱然(けいぜん)として疎林(そりん)に掛かるを 
 
幽独(ゆうどく)の人を憐(あわれむ)が為に

流るる光は衣襟(いきん)に散ず

我が心本(もと)月の如く

月も亦また我が心の如し

心と月と両つながら相い照らし

清夜長とこしなえに相尋ぬ


「詩の心」

作者は山中にかかっている月、まばらな林を照らしている月を最も愛す。

この静かに隠棲している自分を憐れむかのように、

月の光は私の着物の襟の辺りを照らしてくれる。

自分の心はもとより月のように無欲で清らかだ。

あの清々しい月もまた自分の心と同じだ。

我が心と月とが互いに照らし合い、この素晴らしい、

美しい夜をいつまでも相尋ね合うのである。

「語 訳」

烱然=月の光り輝くさま。

疎林=木のまばらに生えている林。

幽独の人=静かに一人でいる人。ここでは真山民自身。

流光=月の光。

衣襟=着物のえり。

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隠棲(隠者の暮らし)は世捨て人ではなく、詩歌の境地や思想を深める為に

山中に暮らす詩人が多かったようで、李白の詩にも多く見受けられる。

中国4000年の歴史には素晴らしい詩歌や孔子・孟子などの中華思想が流れている。

最近の学校教育には漢詩は無くなってしまったが、

漢詩の深さにはいつも感動するものがあります。









タグ: 十三夜 真山民

2020/10/28  爽やかに健康寿命 伸ばしけり  日記

爽やかなゴルフ日和、思い立ってゴルフへ・・・。

汗ばむこともなく、寒くもなくまさにゴルフシーズンですね。

この季節になるとゴルフ場に孔雀草の大鉢が置かれる。

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水曜日だけどゴルフ場は満員だ、東コース、西コース共に38組づつ入っているそうです。

さて、景気が良くなったのかな?

しかし客を良く見ているとリタイア組が多いような気がする・・。

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2020/10/26  雨にも負けず  日記

雨ニモ負ケズ  宮沢賢治

「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ丈夫ナ体ヲ持チ、

決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ッテイル。

一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベアラユルコトヲ自分ヲ勘定ニ入レズニ、

ヨク見聞キシ分カリ、ソシテ怒ラズ、野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ藁ブキノ小屋ニイテ、

東ニ病気ノ子ドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニ疲レタ母アレバ、

行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ、南ニ死ニソウナ人アレバ、

行ッテ怖ガラナクテモイイト言イ、北ニ喧嘩ヤ訴訟ガアレバ、

ツマラナイカラヤメロト言イ、日照リノトキハ涙ヲ流シ、寒サノ夏ハオロオロ歩キ、

ミンナニデクノボウト呼バレ、褒メラレモセズ、苦ニモサレズ、ソウイウ者ニ私ハナリタイ」


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雨にも負けず、風にも負けず・・」の詩は誰でも何度か朗誦し、

聞いた事があり、知っています。

この詩を韻読調に読み、若干節を付けて詩吟界で初めて朗誦したのが、

我々の所属する公益社団法人日本吟道学院の創始者です。

宮沢賢治は1896年、質屋・古着商を営む商家に生まれ、

凶作や飢饉に見舞われる過酷な風土の中で育ち、

決して体が丈夫でなかった賢治は、「将来は農家の人達の役に立ちたい」という思いを

一層深めていったものと思われます.

花巻市にある宮沢賢治記念館にはその足跡の「風の又三郎」や「銀河鉄道」等

イートハーブの作品が沢山残されているが

「この雨にも負けず」の詩文は賢治の没後の1934年以降に、

弟の清六によって遺稿として世に出たもの。

東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、

花巻の実家に戻って闘病中だった1931年秋に使用していた黒い手帳に記されていたものでした。

この東北砕石工場と言うのが岩手県東山町松川の石灰採掘工場なのだが、

実は小生はこの松川村で小学校時代の6年間を過ごし、

宮沢賢治の「雨にも負けず」を書いた地に賢治が没した20年後に居たのだ。

日本の原風景のような長閑な「山河豊かな自然の恵みのある地」で育ててもらった訳です。

しかし、この「雨にも負けず」詩は賢治そのものではなく、実在のモデルが居たらしいのです。

斉藤宗次郎
さんという賢治より20年先輩のキリスト信奉者だったそうです。

宗次郎さんはお寺の子として生まれたそうですが、小学校の教員の頃に

キリストの洗礼を受けクリスチャンとなったそうで、

当時の世相は耶蘇教(ヤソ)と言われなき迫害を受けた時代で、

耶蘇の教師は要らないとクビになり、毎朝3時に起きて新聞配達を職業としながら、

詩文にあるような暮らし振りであったそうですが、

自分の娘が村の子供たちに耶蘇教(ヤソ)の子といじめられ,

お腹を蹴られたのが元で腹膜炎で亡くなるなど、

キリストのように自らへの受難に耐え、博愛周囲に及ぼすその生き方に、

賢治は結びの詩文にあるように「そういう者に私はなりたい」と

斉藤宗次郎さんを讃えている。

1926年に彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越したが、

花巻の地を離れる日には、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、

神主、僧侶、一般の人が駅で見送ったそうです。

その群衆の中に宮沢賢治もいたのだそうです。

1938年結核が元で38歳で没したが、賢治のイートハーブ理想郷)は今も受け継がれている

詩吟をやっていると、こうした昔親しんだ詩歌にも再び親しむことが出来て、

子供の頃の昔と違って今はその詩歌の背景や意味を調べたりもするので、

自らが勉強になる訳です。

2020/10/26  「爽やかや浜辺に人出繰り出せり」  日記

週末から爽やかな晴天です・・浜辺も付近のお店も食べ物屋さんも賑わってました・・

孫が就職が決まったと挨拶にやっと世の中動き出したかな・・。

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近所の「ばんや」で孫に天丼でもと案内したら、

何と若い人たちが30人位店の前で行列して待っていた。

何がどうしたか?

まあ・・景気の良くなりそうな賑わいで良かったと・・ここは諦めて白子のお気に入りの

蕎麦屋「川岸」へ向かったが、15台停められる駐車場が一杯・・・此処も満員で

茂原のイタリアン・・ポポラーレへ1時半頃に行ったがここで145分待ちで

やっとのランチでしたが肌で感じたこの実感は嬉しいものがありました。

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夜はヤクルトスワローズの五十嵐亮太投手の引退試合とそのセレモニーに感激・・。

7分間の五十嵐投手の引退のスピーチは笑顔で内容の濃いもので、

22年間中継ぎ投手を通しご苦労様でした・・いつの日かヤクルトの指導者として

戻って来て欲しいものだ

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2020/10/24  鞭聲肅肅夜河を過る  詩吟

第4週土曜日は東金教場の詩吟教室です。

新しい方たちが多いため9月から第一巻から順番に進めている

今日は頼山陽作の「川中島」です。

 「川中島の戦いの一節」を吟じた

450年その昔、三太刀七太刀切り込めば

軍配団扇で打ち払う甲越主将の一騎打ち

 降るとみて笠とる暇もなかりけり

 川中島の夕立の雨

鞭聲肅肅夜河を過る 曉に見る千兵の大牙を擁するを

遺恨なり十年一劍を磨き 流星光底長蛇を逸す


詩の心・・・副題を「不識庵 機山を打つの図に題す」とあり

不識庵(上杉謙信)が機山(武田信玄)を襲う図である

馬の鞭の音さえもたてないよう、

上杉謙信軍は静かに夜に乗じて川を渡った。

夜が明けると武田軍の目の前までに迫っていた。

西条山を降り立った上杉軍は「車懸かり」の陣形で

渦巻き返す犀川を渡り川中島の中州へ突入すると、

武田群は鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣」を敷いて待ち受ける

しかし長い年月で磨き上げた謙信の腕前もかいなく、

流れ星のごとく一瞬の差で、信玄を打ち逃がしてしまった。

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川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及び

実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、

第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、

一般に「川中島の戦い」と言った場合、

最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を

指すことが多いようです。

この戦いの模様を頼山陽が生き生きと描写したのが上掲の詩で

詩吟といえば「鞭聲肅肅(べんせいしゅくしゅく)」とも言われている。

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石原詢子さんの吟じる川中島(不識庵機山を撃つの図に題す)と武田武士もいい↓

http://www.youtube.com/watch?v=olguD6WJ3Qc

2020/10/23  秋耕や畝の構図を考へる  日記

畑の今の収穫は殆ど終り秋茄子くらい、

甘薯、里芋は来月、大根は12月後半からです。

来春に採れるそら豆、莢豆、玉葱の種を蒔くのですが

限りある畑の畝の構図を考える❗️

ニンニクが二畝と小松菜、ホウレン草を植えているので、今後に収穫の終るサツマイモ、

サトイモの後の畝など結構頭を使うものです。

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タグ: 畑の段取り

2020/10/22  「紹興酒取り出す秋の夜長かな」  日記


今宵は紹興酒を取り出しての一杯、度数は日本酒とほぼ同じ15度ですが、

もち米と麦が原料なので日本酒より飲み易いのかな。

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20代の頃に仕事で台湾、香港に行っていた頃に中華料理にはこの紹興酒を良く飲んでいた。

地元の人たちはカンペイ、カンペイと飲み干した杯を見せ合っては飲んだもの・・。

新小岩の教室が夜の時間帯だった頃は帰りは中華屋さんでいつも紹興酒を飲んでいたものだ
タグ: 紹興酒

2020/10/19  断腸の思い  

李白の「早に白帝城を発す」は数ある李白の詩の中でも良く知られた詩で

特に詩吟愛好家では誰でも知っており、最も愛吟されている詩の一つです。

 早に白帝城を発す  李白

朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る

両岸の猿声啼いて止まざるに 軽舟已に過ぐ万重の山


「詩の大意」

朝早く美しい雲のたなびく白帝城を出発し

江陵までの距離千里を一日で還ってきた

両岸で啼いている猿の声哀しげに耳元に響く

軽やかな小舟は幾重に重なる山々の間を一気に通過して行く

(実際には千里も無いのだがここは李白特有の「白髪三千畳」のような

例によって針小棒大な表現で李白の独壇場だ)

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李白の肖像と下は北京故宮博物館に残っている唯一の李白の実筆の書

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この詩は李白25歳の時に蜀の国から中央に旅立つときの詩で、

はやる思いに小舟に任せ軽快に江陵に下る時に作ったとの説と、

玄宗皇帝に3年ほど使えた李白が、粛宗が玄宗に無断で皇位に付いた事を認めず

反乱軍に加わったかどで捕えられ、配流の途上に白帝城付近で恩赦となり

59歳のこの時に作ったと説があるが、調べるほど判らないが、

小生には25歳の時の作のような気がする。

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ところで中国の故事にある「断腸の思い」とは

晋の武将 桓温 ( かんおん ) は、蜀の地にあった成漢に攻め込み

三峡(長江の上流の渓谷)までやってきた。

そこで、部隊の中に猿の子を捕らえた者がいた。

子猿を捕らえられた母猿は、岸沿いに哀しげに叫びながら、

百里以上もついてきて、ついには船に飛び乗ったが、

途端に息絶えて死んでしまった。

その母猿の腹を割いて見ると、腸(はらわた)が細々にちぎれていたそうです。

断腸の思いは、又別な説にはは谷底に落ちた小猿を母猿が

100里も啼きながら追いかけ、まさに腸が飛び出さんばかりの啼き声を言ったようだ。

猿にまつわる哀しい話」として伝えられており、

古来中国では「猿の鳴き声は哀しい物の例え」として語られているようで

猿と言うと、日本では動物園の猿や、猿回しの猿のイメージが強いようですが

中国と日本では猿についての印象が違うようです。

詩吟はこうした時代の背景や作者の詩の心を調べ、

詩歌を謳い上げる事で、詩歌の世界に自ら入り遊ぶことができ、

声を出して吟ずる事で自らの「気」を高め、心身ともに健康に良いのだ。

明日は西浦和で教室があり、久々「早に白帝城を発す」をやってみようかな。

2020/10/16  「五万本の鶏頭咲かす牧広し」  日記

房総半島の袖ヶ浦市にある東京ドイツ村に来て見ました・・。

平日で人出が少なく広々としたテーマパークには鶏頭が5万本余・・・圧巻でした。

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赤くなったコキアの群生を見たかったのですが、植える時期の長雨で今年は植えられなかった

そうですが、小菊を束にしたような小菊(マム)の群生は見事でした。

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2020/10/4  「栗を剥く不器用な手に包丁持ち」  日記

知人より見事な屋敷栗を頂きました・昼ごはんになりました。

我が家の庭にも栗の木がありますが、山栗で小粒です。

しかしまだ毬栗が口を開けるまでには日数がありそうです。

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タグ: 茹で栗

2020/10/3   東照公遺訓   詩吟

土曜日は詩吟の日です

午前中の大網教室は九巻の東照公遺訓の歌として添えられている「人はただ・・・・」の一節を

人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな

芋の葉に溜まった露の落ちるのを見て、人生訓に例えた歌として知られている。

家康の一生も幼くして織田家、今川家の人質として暮らし、武田軍との戦に破れ、

信長の命により長男の信康、正妻の「築山殿」をも死に陥れ、秀吉の妹の旭姫を正妻とし、

数多の試練を経た苦労人にして天下を取り得た人の人生訓だ・・・。

     東照公遺訓 徳川家康

人の一生は 重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず 

不自由を常と思えば不足なし心にに望みおこらば 

困窮したる時を思い出すべし堪忍は無事長久の基怒りは敵と思え

勝つことばかり知り負くる事を知らざれば害その身に至る

己れを責めて人を責むるな及ばざるは過ぎたるに勝れリ 
 

徳川幕府265年の礎を築いた 徳川家康公の処世訓だ・・・・。

「座右の銘」としてこの遺訓を書斎や職場に掲げて己の戒めとしている方達も多い。

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我々子供の頃の「家康像」イメージは狸親父そのものだったが、

歴史の評価は変わってきている。

この教訓詩を吟じるのも己の戒めとして良いものだ・・。

麒麟が来る」ではどのように家康像が描かれているのか楽しみだ。

タグ: 徳川家康




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