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2020/10/26  雨にも負けず  日記

雨ニモ負ケズ  宮沢賢治

「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ丈夫ナ体ヲ持チ、

決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ッテイル。

一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベアラユルコトヲ自分ヲ勘定ニ入レズニ、

ヨク見聞キシ分カリ、ソシテ怒ラズ、野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ藁ブキノ小屋ニイテ、

東ニ病気ノ子ドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニ疲レタ母アレバ、

行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ、南ニ死ニソウナ人アレバ、

行ッテ怖ガラナクテモイイト言イ、北ニ喧嘩ヤ訴訟ガアレバ、

ツマラナイカラヤメロト言イ、日照リノトキハ涙ヲ流シ、寒サノ夏ハオロオロ歩キ、

ミンナニデクノボウト呼バレ、褒メラレモセズ、苦ニモサレズ、ソウイウ者ニ私ハナリタイ」


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雨にも負けず、風にも負けず・・」の詩は誰でも何度か朗誦し、

聞いた事があり、知っています。

この詩を韻読調に読み、若干節を付けて詩吟界で初めて朗誦したのが、

我々の所属する公益社団法人日本吟道学院の創始者です。

宮沢賢治は1896年、質屋・古着商を営む商家に生まれ、

凶作や飢饉に見舞われる過酷な風土の中で育ち、

決して体が丈夫でなかった賢治は、「将来は農家の人達の役に立ちたい」という思いを

一層深めていったものと思われます.

花巻市にある宮沢賢治記念館にはその足跡の「風の又三郎」や「銀河鉄道」等

イートハーブの作品が沢山残されているが

「この雨にも負けず」の詩文は賢治の没後の1934年以降に、

弟の清六によって遺稿として世に出たもの。

東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、

花巻の実家に戻って闘病中だった1931年秋に使用していた黒い手帳に記されていたものでした。

この東北砕石工場と言うのが岩手県東山町松川の石灰採掘工場なのだが、

実は小生はこの松川村で小学校時代の6年間を過ごし、

宮沢賢治の「雨にも負けず」を書いた地に賢治が没した20年後に居たのだ。

日本の原風景のような長閑な「山河豊かな自然の恵みのある地」で育ててもらった訳です。

しかし、この「雨にも負けず」詩は賢治そのものではなく、実在のモデルが居たらしいのです。

斉藤宗次郎
さんという賢治より20年先輩のキリスト信奉者だったそうです。

宗次郎さんはお寺の子として生まれたそうですが、小学校の教員の頃に

キリストの洗礼を受けクリスチャンとなったそうで、

当時の世相は耶蘇教(ヤソ)と言われなき迫害を受けた時代で、

耶蘇の教師は要らないとクビになり、毎朝3時に起きて新聞配達を職業としながら、

詩文にあるような暮らし振りであったそうですが、

自分の娘が村の子供たちに耶蘇教(ヤソ)の子といじめられ,

お腹を蹴られたのが元で腹膜炎で亡くなるなど、

キリストのように自らへの受難に耐え、博愛周囲に及ぼすその生き方に、

賢治は結びの詩文にあるように「そういう者に私はなりたい」と

斉藤宗次郎さんを讃えている。

1926年に彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越したが、

花巻の地を離れる日には、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、

神主、僧侶、一般の人が駅で見送ったそうです。

その群衆の中に宮沢賢治もいたのだそうです。

1938年結核が元で38歳で没したが、賢治のイートハーブ理想郷)は今も受け継がれている

詩吟をやっていると、こうした昔親しんだ詩歌にも再び親しむことが出来て、

子供の頃の昔と違って今はその詩歌の背景や意味を調べたりもするので、

自らが勉強になる訳です。

2020/10/26  「爽やかや浜辺に人出繰り出せり」  日記

週末から爽やかな晴天です・・浜辺も付近のお店も食べ物屋さんも賑わってました・・

孫が就職が決まったと挨拶にやっと世の中動き出したかな・・。

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近所の「ばんや」で孫に天丼でもと案内したら、

何と若い人たちが30人位店の前で行列して待っていた。

何がどうしたか?

まあ・・景気の良くなりそうな賑わいで良かったと・・ここは諦めて白子のお気に入りの

蕎麦屋「川岸」へ向かったが、15台停められる駐車場が一杯・・・此処も満員で

茂原のイタリアン・・ポポラーレへ1時半頃に行ったがここで145分待ちで

やっとのランチでしたが肌で感じたこの実感は嬉しいものがありました。

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夜はヤクルトスワローズの五十嵐亮太投手の引退試合とそのセレモニーに感激・・。

7分間の五十嵐投手の引退のスピーチは笑顔で内容の濃いもので、

22年間中継ぎ投手を通しご苦労様でした・・いつの日かヤクルトの指導者として

戻って来て欲しいものだ

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