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2017/11/18  「ほうれんそう」と「おひたし」  エッセイ

一昔前までの企業などの組織体では「ほうれんそう」が一つの合言葉でした。

曰く・・・ほう・・報告、れん・・連絡、そう・・相談だった。

最近ではもの作って売る産業から、ネットや携帯関連のソフト産業などが台頭し、

所謂右肩上がりの高度成長時代から、右肩下がりのゆとり世代に変ってきて、

「おひたし」なのだそうだ・・。

お・・怒らない

ひ・・否定しない

た・・助ける(困りごとがあれば)

し・・指示する

若い方々から見れば組織体の一つのあり方として求められる「おひたし」だそうだ。


ところでめっきり寒くなりました・・我が家もいよいよ暖房が入りました・・。

土曜日は詩吟の日で大網、茂原と5時間・・・。

終わった4時頃の空はもう暗く冷たい雨・明日朝の最低気温は5度の予報です・

寒い時は熱燗で温まるのが一番だ・・。

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2017/10/29  エルサレムシンドローム(イスラエルの思い出)  エッセイ


エルサレムシンドローム(イスラエルの思い出)

イスラエルにダイヤモンドの仕入れに出かけていた頃の1990年代から

2000年代のイスラエルでは、パレスチナとの長年の紛争のほかに、

自爆テロが人ごみを狙ったテルアビブのターミナルや

マーケットなどで1990年以降も度々起きていた。


それでも、イスラエルへの歴史を訪ねる旅行熱は年々高まっている。

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現地法人であるメリンダ・ダイヤモンド・イスラエルは、

新潟出身のM氏を社長とし、経営を任せていた。


彼に万が一のことがあれば、ご両親に申し訳ないので、

くれぐれも身の安全には気を配るようにと忠告していた。

住居とラマトガンの会社の行き来には自分の車で移動し、

バスや電車には乗ってはいけない。

人の集まるマーケットには近寄ってはいけない、など。

駐イスラエル大使館と領事館が邦人に向けて

密な連絡と情報提供を行っているので、

日本人が巻き込まれる事故は少ないと聞いている。


領事の話によると、事故とはいえないが、

エルサレムのホテルから宿泊の日本人のことで呼び出しがよくあるそうだ。

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日本からの旅行者の多くは、「嘆きの壁」や旧市街、

イエスが十字架を背負って歩いた丘「ゴルゴダの丘」などを観光するが、

散策しているうちに興奮しする人がいる。


「神が私の元に降りてきて、命じている……」など錯乱する。

暫くすると平静を取り戻すそうだが、

これを「エルサレム・シンドローム」と呼ぶ。

あの頃の小生の場合、この地で見る夢は、飛び切りに安いダイヤモンドを仕入れる、

ヘブライ語で言う「ミツイヤ」(掘り出し物とか、格安品の意)だが、

そういった算盤がちらちら見える夢だろう。

振り返ってイスラエルでの仕入れをしながらのエルサレムや

イエスの生地ベツレヘム、死海や歴史のある街を歩いたのは

いい思い出で、これからは仕事を離れてイスラエルを又ゆっくりと旅をし、

陽気なイスラエリイと語り、昔のユダヤ人仲間と楽しみたいものです




2017/10/23  ユダヤ人と共存する(ニューヨークの思い出)  エッセイ


ユダヤ人と共存する(ニューヨークの思い出)

大分前の事になるのですが、NYでの商売のことを今でも夢に出てきたりします。

ニューヨークに進出した頃の1979年頃のニューヨークは

実にエキサイティングな街で、あらゆる業種も時代の先端を走りたくて

ニューヨークにオフィス、駐在事務所を作り、

また研修社員を送り視察団を波状攻撃のように送っていた時代でした。

音楽家の卵もブロードウエイに憧れて、着の身着のまま住み着いて

みんなが夢を追いかけていた時代でした。

もちろんバブルのずーっと前で右肩上がり経済の、総中流意識が芽生える前です。

当会社がマンハッタンの五番街の角のビル580のビル8階のユダヤ人の会社を間借りして、

パートナーにコミッションを支払ってスタートしたことは正解でした。

お蔭でユダヤ人の商法「寄らしめず、知らしめず」の

ユダヤ人同士の生の取引を知ることが出来ました。

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(30年前の筆者とユダヤ人相手の仕入れ風景)

この時のパートナーB氏は、最初にNYに行って何10件か会った業者で

最も相性の良さそうな人でした。

何度か日本の会社にも招待したりし、日本食好きの、日本贔屓でもありました。

自分の亡くなった父親と同じ年配の人でしたが、ダイヤモンドビジネスだけでなく、

経済や歴史にも詳しく、彼から学ぶことが多かったのでした。

ある時、ミスターオー(小野寺の通称を彼らはこう呼んでいた)は

飛行機に乗ることが多いので、万が一のビジネス上の支払の為に

保険に加入してくれ」と申し出があり、

彼の友人の保険会社のセールスマンが来て、面白い話を聞くのですが、

「ミスターオーはタバコを吸うか?」と聞かれるので、

当時メンソレ入りのモアというタバコをアクセサリー代わりに持っていて、

「吹かす」程度で煙を肺まで吸い込んだことはありませんでした。

B氏の友人の保険セールスマン曰く、

「明日保険会社のドクターがインタビューに来るが、タバコは?と聞かれたら

「今まで一度も吸ったことがない」と答えてくれと言うのです。

何故?

「保険料が倍以上も違うから」ということでした。

判ったことは、37年以上も前のことですが、いかにタバコは健康に有害であるかが、

この保険セールスマンの一言で知り、その日からタバコは辞めて、

一本も吸ったことがないのです。

そのセールマンと接して、やはり米国の保険セールスマンは

社会的に尊敬される立派な地位を持っていることを感じたのでした。

その後から保険業の方には「良い仕事をしているね」・・・と

心から話しかけるようにもなったのですが・・。

暫くして取引先が引越しで、彼のオフィスが空くので、

「使わないか」と申し出があり、

B氏とパートナーを解消し47丁目の通りを挟んだ20WESTのビル14階の

広いオフィスに引っ越しました。

このオスィスからメリンダ・ダイヤモンドの歴史が日本のバブル景気に乗って、

大きく動き出すのでした。

1982年の秋でした。

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日本では中曽根内閣が発足した年で、

羽田沖に日航のジャンボ機が機長の狂乱で逆噴射して墜落した年でした。

ほどなくハシディクジューのブローカー諸君の紹介で、

彼らの仲間の黒マントのジューが当社に入り仕入れを担当するようになったので、

ユダヤ人ハシデック仲間を採用した日本人の自分を親しく感じてくれたのかもしれません。

当初にパートナーとしてお付き合いのあったB氏も20年前に亡くなって

また最初のNYメリンダの基礎を作ってくれた、

弊社の有能な秘書であり、NYメリンダのI女子も亡くなって8年、

この商売の長い歴史を感じるのですが、この頃のNYと東京を行ったりきたりしていた20余年の

思い出が強く残っています。

ユダヤ人はまだまだダイヤモンドビジネスの中心ですが、

今は当時の日本人バイヤーに変わり、インド人、中国人が大きく

台頭してきました。

かれこれと46年間もこの業界で、今も現役で当初からオーナー経営を細々とやっている訳です。

2017/10/22  親愛なるブローカー・ジュ―イッシュ諸君(ニューヨークの思い出)  エッセイ

親愛なるブローカー・ジュ―イッシュ諸君(ニューヨークの思い出)

ニューヨークへ会社を設立したのが、1979年で今から38年前であり、

筆者も32歳の怖いもの知らずだった。

ニューヨークのダイヤモンド街に会社を出すということは

ユダヤ人社会の中に生きるということだった。

ニューヨークのダイヤモンド商は殆んどがユダヤ人で、

当時は当地でインド人やその他のアジア系を見かけることはなかった。

ユダヤ教の中でも宗派が沢山あって正統派の一年中、

黒マントを着て宗教の教えに従っての日常生活は食べ物や

休息日などいろいろと違った生活ですが、

シナゴーグ(お寺)の違いによって黒帽子の形も微妙に違うようだが、

総じて家族思いで、ユーモアを解し、

義理人情に通じた彼らには当初から親しみを感じていた。

彼らは食べ物にも宗教上の決まりを守って爪のある動物のもの,

甲羅のあるものなどは食べず、殆ど外食もせず、ランチのサンドウイッチを持ってきて

クラブや事務所で食べるので、どう?・・ランチ行かない・・とか

今夜一杯どう?

などということはない。

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(ブローカー相手に値段交渉中の35年前の若き日の筆者)

ダイヤモンド産業に働く人々は大きく分けて、

@マニファクチュア呼ばれるダイヤモンド原石を仕入れ、研磨する人と、

その工場で働く研磨職人、

A原石や研磨済みダイヤモンドを買って商売をするデーーラー、

B売り手と買い手の間に立って商売の仲介をするブローカー、

47丁目の路面店舗には

Cエクスチェンジと呼ばれるダイヤ・宝石の小売店があり、

また宝石の器材や本を売る店やダイヤモンド・宝石の鑑別(レポート)の付帯ビジネスもあり、

五番街の47丁目角の五八〇はビルごとダイヤモンド業者数百社が入っている。

メリンダ・ダイヤモンドは1979年にこの五八〇ビルの8階801号室の

ユダヤ取引業者の事務所内に設立登記し開設された.

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NYの会社での仕事はダイヤモンドの買い付け、仕入れです。

販売先である日本のお得意様の注文と売れ行きの良いものの品筋を買うことだった。

常時は駐在している日本人社員のI女子が指示を受けながら仕入れをするが、

毎月1,2週間は自分もNYへ来て仕入れをし、3週間は日本の会社で販売に精を出す日々だった。

競争力のあるダイヤモンドが 2 ct、3 ct,5 ctが当時は飛ぶように売れたものでした。

高度経済成長の真っ只中で、毎年給料は上がり、右肩上がりの平和ないい時代だったですね

現在の中国も香港も及ばぬ経済力と消費意欲が1970〜80年代はあったのでした。

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2017/6/28  ダイヤモンドにもバブルの頃がありました  エッセイ

ダイヤモンドもバブルの頃がありました(1.032 ct ダイヤモンドリングの買取例)

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ダイヤの重量 1.032 ct Fカラー、VVS1 ベリーグッド

買い取り価格 630,000円

一言コメント・1970年代頃までは日本に入ってくるダイヤモンドはHカラー位が

色の良いダイヤモンドで、

それ以上のDEFGカラーのダイヤは殆ど輸入されておりませんでした。

因みに1978年頃のH-VVS2(Good)のキャラ石を輸入した頃は、

ダイヤのバブル期で1万ドル位しておりました。

当時のドル・円は年間平均で220円でしたから、輸入コストで230万円位でしたが、

高度成長期でキャラ石への憧れもありあり、

店頭価格で500万円以上で飛ぶように売れておりましたが、

その後にバブルがはじけ、現在では、同じキャラ石の国際取引価格は4,500ドル前後で

推移しているので、今の為替だとダイヤモンドルース(裸石)だけでは

50万円前後になってしまっている訳です。

ではこれから前のようなバブル時代の価格に戻りますかと?・・・聞かれれば、

それは需給関係によるのですが、

現在需要の強い中国・インドを中心にした実需の動向次第ですが、

中国が買っているのは、0.3ct、0.5ctのGHカラー、SIクラスのGIA付きのダイヤモンドが多く、

このへんは実需絡みで相場は強くなっていますが、

ビッグサイズや高品質のところの実需が弱く、相場も停滞気味ですが、

そこは市場の需給関係ですから、安ければ買おうとする業者や、個人客が居て、

相場を支えますので、数年相場が下げ止まりを見せて、

スモールサイズの値頃帯が上昇傾向であったことが、先行きを示唆しているようです。

高品質、高額品は売り時なのかもしれませんね。

先週香港ジュエリーショーがあり、弊社の社員もダイヤモンド製品、サンゴ製品などを

いつものように展示して参加してきましたが、前の三月は昨年の不調を取り返すように

活気があったので、今回は軒並み低調でバイヤーの食欲がなく様子見に徹し

商いは不調でした。

日本から出店の各社とも売れ残った沢山の品物をまた日本に送り戻すことになり

一様にがっかり商状だったようです。

こんなバブルの有った昔を懐かしむ訳ではありませんが、

当時の東証株価は3万9千円台に高騰し、

とりわけ不動産は東京都内には一坪1000万円以下がなく、

50坪の家に住んでいる人は資産価値が5億円とか15億円とかと踊らされ、

その後に不動産価格は10分の一、20分の一に暴落したのでした。

ダイヤモンドの相場は歴史的に景気変動で何度かの波がありましたが、

急落すれば、値ごろ感からの買い手が増えて持ち直し、

急騰すれば売りが増えて下落を繰り返してきたのでした。

有史以来採掘されて研磨して、売られてきたダイヤモンドは

世界中の彼方此方に無尽蔵にあります。

しかも価値が普遍のダイヤモンドは何百年、何千年たっても価値が変わらず、普遍なために

膨大な地上在庫があります。

これらの家庭内タンス在庫は常に売り圧迫材料となり、

またダイヤモンド鉱山は枯れることなくどんどん原石が掘り出され、

新規の供給も増えることを考慮すれば、先行き相場が上向くことは当分考えにくいのが

現実ですね。

ダイヤモンドは宝飾品としてデザインを替えたり、受け継がれて新しく作り直したりして

心豊かに楽しんで頂くのが最もよいことで、王道と思います。

そして不要な方は売却して現金化して他に使い道を考えられるのが一番と思いますね。


2017/4/25  針小棒大  エッセイ


  秋甫の歌 李白

白髪三千丈 愁に縁って箇(かく)の似く(ごとく)長し

知らず明鏡の裡(うち) 何れの処にか秋霜を得たる


詩聖「李白」の晩年の作で秋甫(現在の安徽省)の地で我が身の年老いたのを

嘆いた詩で「白髪三千丈」は大げさのようようですが、豪放磊落,豪気で奔放な

李白の哀愁の情に満ちた絶唱。「明鏡」は澄んだ鏡、「秋霜」は白髪の意味。

大意は憂いが重なって毛髪が白くなったという意味で、三千丈は900m、

長いということを示す形容で実際の長さをいうのではなく、

このような表現から、誇張した言い方の代表として「白髪三千丈」は今で用いられる。

李白の詩には代表作のひとつの「早に白帝城を発す」の詩文の中にも

朝に辞す白帝 彩雲の間 千里の江陵一日に還る

揚子江の千里(4000キロm)を船で一日で行けると急流を大げさに詠った。

李白の詩には他にも「針小棒大」な表現が

多く、詩を大きくさせる。

「針小棒大」は読んで字のごとく、針の穴の大きさを棒の大きさに例えた。

大げさにものを言う時にあの人の話は「針小棒大」だからとか言ったりします


詩にはこのような表現が似合いますが、最近の「世論調査」に拠るとと、テレビ、

新聞、マスコミが使う「世論調査」ですが、千人か2千人の回答者のデータを

世論と評している在り方には、常々疑問に感じる、日本の人口1億2千万人の内、

千人は何lに当たるのだろうか?

0.00001パーセントなのだが。

この数字を持って世論として位置づけるには参考にはなっても

「針小棒大」を通り越して無理があるのでは。

一般市民の立場では、世論調査ではこういう風に見ているのだからと、

自らを一般的な見方、考え方に近づかせようとする無意識な中庸思想の動きが

出るのだが、マスコミはこの調査に対しては、「千人からの回答によると」

と言うべきで、千人の世論として国民をリードしては非常に危険な事だと

マスコミに携わる人達責任と自覚を持っては謙虚になるべきではないかと思う。

 ヒルガオ    クリックすると元のサイズで表示します

共謀罪の審議入りで戦前の治安維持法のような危険性が指摘されているが、

言論を抑圧された歴史から、報道の自由は当然のごと復権を果たし、大きな影響力を

社会に個人に与えて居る訳ですが、マスコミの報道によって将来を絶たれた人や、

翻弄された人の数は、戦前権力によってペンを折られた人たちの数を

何千、何万倍も居るのかもしれない。

それは今や、ネット社会のこうしたブログを綴る側にも小なりと言えども同様の

責任と自覚が必要で、自戒を含めて「李白」の詩にそんな事を思った次第。

「針小棒大」の表現は詩歌,俳句の世界の中で遊びたいものですね。

タグ: 秋甫の歌

2017/4/2   憩いのカウンターバー(ニューヨークの思い出-14)  エッセイ

憩いのカウンターバー(ニューヨークの思い出-14)

1980年頃のNYには日本レストランは会社のある五番街47丁目界隈にも数件あり、

当時の「淀」、「江戸」「吉兆」、「山口」などはすぐ近くに有って、不得手な英語に緊張し、

仕入れの緊張感から開放されて、夕方これらの日本レストランのバーでグラスを傾け、

ホッとささやかな幸せを感じるのですが、うまい仕入れが出来た日も、

反省多き日もシーバースのオン・ザ・ロックにグラスを鳴らすのが至福のとき、

当時の日本では昭和40年代の初め頃は

サントリーレッドやハイニッカの五百円ウイスキーが庶民の飲み物で、

リザーブや角瓶は高級品、サントリーのオールドをボトルキープするのが夢であった時代です。

舶来のジョニ赤、ジョニ黒なんてそんな高級なものは飲んだことがない時代でしたが、

関税のないNYでは誰もがシーバースをバーにボトルキープしていたのですが、

最も今では日本も関税がなくなって、

それら高級品も国産ウイスキーと同じ値段になりましたが、

当時は免税で3本持ち帰れるウイスキーを免税店で買って、

お土産にするととても喜ばれた時代でした。

夕方の日本レストランのカウンターバーで、同じようなNYチョンガーの日本人が仕事を終えて、

憩いを求め止まり木で一杯飲んで、夕食をとって帰る人達も多かったのです。

其処で知り合った人達とゴルフ談義になってご一緒するようになったり、

証券会社の人に口座を開いて、

会社で米国株を少しずつ買っては米国経済の勉強の糸口にしたり、

不動産屋さんからNYの不動産事情を聞いたり、

トヨタの人には米国の自動車産業の話を聞いたり、

お互いの情報交換の場でもあったようで、

帰国される方がお土産にダイヤモンドを買いに来てくれたり、

結構日本に知られた経済界の有名人もNYではお互い飲み仲間、

マージャン仲間、ゴルフ仲間であったりでしたね。

取り分け日本も不動産が動き始めていたバブルの前ですが、

興味があってマンハッタンの中の不動産売り物件のコピーをもらって

土・日の休みにはマンハッタンの中を一日中歩いてみて回ったものです。

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2017/3/30  ラグビーに熱中の頃(ニューヨークの思い出-11)  エッセイ

ラグビーに熱中の頃(ニューヨークの思い出-11)

さて、ニューヨークへ踏み出して、

マンハッタンにビルを購入する勢いのあった1986年頃の昔話の続きですが、

高校時代にラグビーをやっていましたが、岩手県は盛岡工業や、

黒沢尻工業が全国区の強さでレベルが高かったのですが、

我が一関一高ラグビー部はやっと15人の部員を揃える弱小チームで

1年生の時には盛岡工業に71対ゼロで負け、3年生の時に初めて、

対外試合で勝利したようなチームでしたが、ラグビーの思いはいつまでも残り、

毎年秩父宮のラグビー場に何度も試合を見に行ったもので、

子供達が小さい頃の日曜日には、3人の子供をつれて出かける先はラグビー場で、

当時の秩父宮は芝生席で大きな木もあり、団栗を拾って子供たちは遊んでおりました。

縁があって当時ラグビーをしていた会社の公認会計士さんの紹介で入ったのが、

ガマクラブというオーバーサーテイの草クラグビーチームでした。

毎夜酒浸りのお腹の出てきた36才には50メートルを走るのにもきつかったが、

毎週多摩川土手で行われる試合には、日本に居る時は出来るだけ、

時差調整と体力作りの為に走ったものでした。

入会した時の背番号は118番で118人目の部員で、

沢山のラグビー仲間と夏には菅平合宿で鍛え、

NYに居る時には、アパートが、

国連本部に近い47丁目の二番街と三番街の間にあったのですが、

一番と二番街のアベニューの間が200メートル以上もあり、

歩道が広く、人通りも少なく、絶好のランニング場所なので、

毎朝100メートルダッシュを繰返し、NYヘルス&ラケットクラブに入って、

仕事の昼は軽く水泳をし、土日には器械運動などにラグビーの為の

トレーニングをしていた事は、健康にも良かったのでしょう。

日曜日に試合をして、そのまま成田に直行してNY便に乗ることもあり、

経済が右肩上がりで、商売も順調な39才には怖いものがなかったのでしょうね。

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(1986年当時のニューヨークオフィスでの筆者)

あれから31年、昔のガマクラブメンバーもそれぞれに歴史を刻み、70代、80代を中心に

毎年5月末に集まり交流を温めている、

すぐに昔の若い時代の自分たちにタイムスリップしてします。

3年後の東京オリンピックではラグビーが正式種目になって全国各地で試合が行われる。

みんなで揃って応援に行こうと語り合っている。

2016/6/8  イスラエルに杉原千畝通り  エッセイ

第2次世界大戦中に「命のビザ」を発給し、

数千人のユダヤ人を救った当時のリトアニアの日本外交官、故杉原千畝氏の没後30年にちなみ、

イスラエル中部ネタニヤ市で7日、杉原千畝氏の名をヘブライ語に冠した

通りの記念式典が行われたそうです。

NYに会社を創立して、NYでダイヤの仕入れを始めた1979年頃に

ダイヤを売りに来る黒マント姿ののユダヤ人のブローカーに、

ミスター杉原を知っているかと何人かに聞かれたことがありましたが、

当時は知らなかったので、「知らない」…と答えると寂しそうな顔をしていました。

クリックすると元のサイズで表示します(35年前の筆者とユダヤ人)

「どういう人か?」・・・と聞くと「親が杉原氏のお陰で生き延びて今日があり、

自分が生まれたのだ」・・・と言います・・。

自分の無知を恥じて、いろいろな人に聞いて見たが余り知っている人も少なく、

当時はインターネットもなかったので、図書館に行って調べるしかなかったのですが、

よく知っているユダヤ人に聞くのが早いと、杉原氏とユダヤ人ンの経緯を聞いたものでしたが、

その内テレビのドキュメンタリーなどにも紹介されるようになったり、

ドラマ化されたテレビになったのは大分後に(20数年後)なってからでした。

2000年になって当時の河野洋平外務大臣の時に名誉回復されたのでした

外交官として独断で行った行為が外務省訓令違反として、

名誉回復するまでに長い時間が掛かったのでしょうが、

彼らユダヤ人は日本人を見ると杉原千畝氏に重ねて見てくれる人たちもおり、

義理、人情が日本人によく似たところのある、

ユダヤ人の恩を忘れないという生きざまがありましたが、

杉原千畝氏の没後30年を記念して、日本通過ビザによって難を逃れたユダヤ人が、

多くたどりついた町としてで知られるネタニヤ市に通りは今後建設される予定だという。

招待された杉原氏の四男、伸生氏(67)は

「とても名誉なことだ。父もここにいたら良かった」と語ったそうです。

クリックすると元のサイズで表示します(写真は時事)

イスラエルの空港ロビーで元赤軍派のテロリスト岡本公三の小銃銃乱射事件で

26人が殺害され、73人が重軽傷を負う大事件がありました。

このような日本人がイスラエルで善良な市民を無差別に殺した事件もありましたが、

彼らユダヤ人からは岡本事件のことを聞かれたことも、言われたこともありませんでしたが、

杉原千畝のことは良く話を聞きました。

今朝のニュースからいい話だ・・・と思った次第です。





2016/4/28  木鶏に及ばず  エッセイ

木鶏に及ばず

木鶏(モッケイ)は中国の荘子に収められている故事に由来する言葉で、

木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさすのですが、

その逸話は

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昔、闘鶏を飼い育てる紀悄子という名人がいて、

王が献上された一羽の優れた鶏をこの名人に託した。

王が「もうぼつぼついいかな」・・・と尋ねると、

「まだいけません、今、カラ元気の最中です」

10日ばかりして再び聞くと

「まだまだ相手を見ると興奮します」

さらに10日ほどして、待ちかねた王が催促すると

「まだ、ダメです。相手に対して、カサにかかるところがあります」

又、10日ほど待って、しびれを切らした王が聞くと

「もういいでしょう、いくら挑戦してきても、一向に平気、

木彫りの鶏(木鶏)のようにその徳が完全なのです。

どんな相手も、みんな退却するでしょう」と言ったと言う。

            クリックすると元のサイズで表示します
          
第三十五代横綱双葉山は安岡正篤先生に傾倒していたそうですが、

彼は当時前頭4枚目の安藝ノ海(後の三十七代横綱)に敗れて記録が

69連勝でストップした時、洋行中であった安岡先生に

「未だ木鶏に及ばず」と打電したという逸話があります。


安岡正篤↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4

親しい友人で8年前になくなった業界新聞の社長さんI氏が「モッケイ二オヨバズ」を

上梓し、その2巻を頂いたことがあったが、あの達人から見れば、

さてさて、自分は今どの辺なのだろうか?

生涯木鶏に及ばずなのだろう。

I氏は大正の生まれで、年は親子ほどの差があったが「ウマ」が合い、

I氏行きつけの日暮里下町の安いカラオケ屋で良く歌ったものだった。

詩吟もやり、「芳野懐古」の詩文が好きで得意にしていたものだ

I氏を思い出し、氏の残した著書「モッケイ二オヨバズ」を思い出し読み返してみる。

連休に入ったら墓参りに行きたいと思っている。

2016/4/20  日本人と乃木希典  エッセイ

石原慎太郎氏が「天才」田中角栄と言う書を世に出して注目されている。

徳川幕府の大政奉還から149年、

その後に活躍した日本人として印象深い英雄を3人並べるとすると、

西郷南洲、乃木希典、田中角栄かもしれないとする見方がある。

乃木希典は我々の良く歌う詩吟の最も人気のある「金州城」はあの「川中島」と双璧と言える。

吟詠家が好きな「金州城」の詩文は以下のように、詩吟をやらない人にも知られている。

     金州城下の作

   山川草木転(うた)た荒涼

   十里風腥(なまぐさ)し新戦場

   征馬前(すす)まず人語らず

   金州城外斜陽に立つ


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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より乃木希典について引用し、研究してみた。

1849年12月25日 − 1912年9月13日

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) − 大正元年(1912

年)9月13日)は、日本の武士・長府藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。

第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で

呼ばれることも多い。吉田松陰は親戚に当たる。

東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。

しかしいわゆる「殉死」の評価についても諸説あるように、

司馬遼太郎など「愚将」とする考え方もあるが、これに対する反論・擁護論も

数多くある[1]。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学に

おいて質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は

質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。

乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、

軍人としての生涯の多くを司令官として過した。

また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、

当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。

山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。

クリックすると元のサイズで表示します水師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセル将軍

旅順攻略戦後にロシア軍旅順要塞司令長官アナトーリイ・ステッセリとの間で

水師営の会見が行われた。

そこでの乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、諸外国の記者が持つ日本人観に

大きな影響を与えたといわれている。

乃木はステッセルらロシア軍幕僚にも帯剣を許し、

従軍記者たちの再三の要求にも関わらずロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず、

彼らの武人としての名誉を重んじた。

乃木の姿勢は世界中から賞賛され、日本の国際的地位すら向上させたことから、

やがて乃木は「旅順の凡将」から、東郷平八郎とならぶ日露戦争の英雄となり、

その後、長く軍人精神の具現者と見なされるようになった。

乃木がこの戦争で勝典、保典の二人の子息を失ったことへの同情や、

旅順攻囲戦が極めて困難な作戦であったことが伝わったことから、

乃木の凱旋は最も多くの国民が押し寄せたといわれる。

クリックすると元のサイズで表示します

日露戦争時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、

歴史好きの人たちの間でも度々議論になっている。

乃木が優秀な将軍であるという認識は、日露戦争当時の主流であったが、

一部に乃木無能論もあった。これが一般的になったのは

司馬遼太郎の『坂の上の雲』によるところが大きい。

乃木について厳しい評価をした司馬の『坂の上の雲』発表後すぐに、

乃木擁護論が発表されるなど大きな議論ともなった。

第二次世界大戦以前、乃木は彼自身の名声と軍部の情報操作もあって、

軍神となったある種の信仰の対象であり、『坂の上の雲』発表当時

もまだ乃木に対する評価は高かった。一方、より多くの部下を戦死させたほうが、

活躍した将軍であるという偏屈な視点を、明治・昭和期の軍人・日本人に植えつけた

とも評され、現在も議論は続いているが平行線となっている。

乃木の評価の大部分は人格的功績や軍人精神などにあり、

必ずしも軍事的才能ではない事なども要因である。近年では、

複雑な背景下でロシア軍は3年は持ちこたえれると考えていた旅順攻囲戦を

半年で勝利したことや、奉天会戦では4万数千の兵力でロシア軍10万と互角以上に

戦ったことによりロシア軍司令官クロパトキンに重大な戦局の誤断を生じさせ

日本軍の勝利に導くなど、乃木の軍事的な才能も再評価されていると言う意見も

肯定派からあるが否定派からは地理・条件・要塞を考慮せず合理性に欠ける作戦を

取り続け多数の兵を犠牲にしたとの評価も根強くあり、評価は定まってはいない。

日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたトルコでも喜ばれ

乃木は国民的英雄となった。同国では、子どもに乃木の名前を付ける親までいた。

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爾霊山(にれいさん)は203高地の当字で、乃木のこの詩によって有名になった。

漢詩作家として世に残した乃木将軍の名詩には、他に日本を神州と詠った「富岳」

などが、「金州城下の作」、「爾霊山」と共に詩吟愛好家に好まれている。

     爾霊山  乃木希典

   爾霊山険なれども豈に攀(よ)ぢがたからんや

   男子功名克艱を期す

   鉄血山を覆て山形改む

   万人斉しく仰ぐ爾霊山


 乃木希典の代表作とも思われる「富岳」の書き落とし文は以下の通りです。

      富岳 乃木希典

   崚曾たる富岳千秋に聳え

   赫灼(かくしゃく)たる朝揮八洲を照す

   説くを休めよ区区たる風物の美

   地霊人傑是れ神州

クリックすると元のサイズで表示します乃木将軍と静子婦人

自決する朝の写真と言われる

乃木は、1912年9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。

まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、

再び衣服を整えたうえで、自ら頚動脈と気管を切断して絶命した。

遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを

償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は

うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

という辞世を詠んでいる。

この事件は当時の社会にあってきわめて衝撃的にうけとめられ、

結果的に死後乃木の盛名をさらに高からしめることになった。

事件に対する態度は主として、

(1)天皇に忠誠を誓う武士道的精神、

(2)軍人精神の極致として賞賛するうけとめか封建制の遺風による野蛮で

時代遅れの行為として皮肉にとらえるうけとめかた 作戦失敗を繰り返し、

多くの部下を無為に死傷させた、当然の結果といううけとめかた 。

(4)古武士のような徹底した清廉な生き方を称賛するうけとめかたの

4種類に区分できる。

生前から(4)の受け止め方は国民の間で主流であった。

事件直後は(1)(2)(3)(4)が混在していたが、やがて大正デモクラシーの影響によって

(2)の立場を取る側とそれに対抗して乃木を神格化しようとする

(1)の立場が主流になる。昭和初年ごろから社会全体が右傾化してゆく風潮のなかで

(1)が圧倒的な勢力を得たこともあった。

戦後は、陸軍悪玉論や軍人に対する嫌悪感から(3)を支持する意見と、

(4)を支持する意見がある。

(1)の立場はもちろん、何時の世にも存在する。

なお、夏目漱石の『こころ』における受け止め方がその典型であるという意見が

極めて一部にあるが「こころ」の先生も、漱石自身も乃木の自殺を

(1)のような立場で「天皇に忠誠を誓う武士道的精神を賞賛する」受け止め方は

していない。「こころ」の先生と遺書、56節を一読すればわかることである。

(2)については森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』などが挙げられる。

(鴎外は乃木の殉死に衝撃を受けてこの作品を執筆した)。

(3)については京都帝国大学教授谷本富(とめり)、信濃毎日新聞主筆桐生悠々なが、

事件直後に新聞紙上で殉死批判を展開した結果物議を醸すこととなった。

(4)については乃木夫妻の殉死後、日本各地に乃木神社が建てられたのが、

代表的な例として挙げられる。

このほか、彼を題材にした文学作品に櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、

司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などがある。

また、第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、

『乃木大将と日本人(原題『Nogi』)』を著し故人を讃えた。

乃木伯爵家は成人した息子は二人とも日露戦争で戦死、長女と三男は夭折した。

息子の戦死後、乃木家の戸籍に入っていた実弟集作を大館氏に養子として出したため

嗣子がおらず、山縣有朋や寺内正毅らは養子を立てて相続させようと画策したが、

乃木の遺言により廃絶している。しかし乃木夫妻の死からちょうど3年後にあたる

大正4年(1915年)9月13日、乃木家の旧主にあたる長府藩主の後裔、

毛利子爵家の次男元智が伯爵に叙爵され、姓も乃木に改めた上で新乃木伯爵家を

創設したが批判の声が強く、元智は昭和9年(1934年)に爵位を返上、

姓も毛利に戻した。

乃木は明治天皇からの信望が厚く、明治天皇が後継者と期待していた

裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として学習院院長に命じられる。

幼親王も乃木を慕い、乃木も聡明な親王に陽明学を勧めた。

殉死の前日、乃木は親王に自ら写本した山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を

渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。

当時弱冠10歳の親王は、乃木のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、

思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。

昭和天皇は晩年まで、生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けた。

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長々と乃木希典を列記しかもフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの

ペーストが殆どで中味が希薄ですが、より正確に詳しく書かれていましたので

乃木希典を吟ずる詩吟愛好者の参考になれば幸と思います。

乃木希典と日本人の琴線というものがあるように思うこの頃です。

昨日は午前、午後と幕張、西浦和で教室があり、月に一度は顔を出すことにしているので

両方に出かけ、平日なのに会社には夕方顔を出しただけ。

今日は詩吟教室はなしなので朝から会社、そして真直ぐに家に帰る予定。

明日夜は上野教室、土曜日は東金、土気教室と、

乃木希典を詠いたい気分ですね。
タグ: 乃木希典

2016/3/23  ベルギーでのテロ事件に思う  エッセイ

ベルギーの首都ブリュッセルの空港や地下鉄駅で22日、テロのよる爆破で多くの死傷者が・・。

爆発は空港で2回あったそうで、

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1980年代にはダイヤモンドの仕入れの為にこのブリュッセルの空港に降り立ち、

車でアントワープに向かったものでした。

この美しいベルギーで未曽有の大事件が起きてしまった。

22日の欧州株式市場では航空会社やホテルなど観光業の業績への影響を懸念し、

関連企業の株価が大幅安となり、遠く離れた日本の円が買われ110円台一時入るなど、

本日(23日)は112円台前半で推移している。

今週末に復活祭(イースター)の休暇を控えた欧州では混乱が続いている。

こうした、いつ標的とされるかも判らぬテロに世界中の人々が慄き、怒りを覚える。

先日テレビのドキュメンタリーで、テロリストは養成されたテロ集団だけでなく、

ネットによって共鳴する全く市井の市民がある日テロ行為を犯してしまう土壌があり、

現実のものとなっているらしい。

IS(イスラム国)の入国を防ぐだけでは追いつけないのだそうだ。

米国の大統領選でトランプ氏の存在感が大きくなり、懸念されている報道もあるが、

トランプ氏に共鳴するアメリカ市民も多い訳で、トランプ氏の「国境閉鎖」発言や

「誰を入国させるかをチェックすべきだ」…の発言も米国市民の恐怖心を巧みに捉えている。

昔、ダイヤモンドの仕入れによく行ったアントワープはヨーロッパ第2位の港を抱える

昔も今も活気溢れたコスモポリタンシティです。

ダイヤモンド産業は15世紀から盛んになり、世界最大のダイヤモンド研磨の中心地。

ダイヤモンドの原石は採掘されませんが、昔から原石が此処に集まり、

優れた研磨技術によって、世界のダイヤモンドの6割はアントワープから消費国に出荷される。

気温が低く雨の多い国なので、一年中傘をカバンに入れて居るそうですが、

ベルギー人のビール好きは有名で街のあちこちのオープンカフェイでは

大きな釜で茹で上げられたムール貝をつまみに昼から女性が一人で飲んでいるのも珍しくない。

但しビールの度数が7−9%と高く、気を付けないと酔っぱらってしまいます。

中世の頃からの建物が多く、ホテルも中世建築風のものがそのままで、

ホテルで朝食を頂き、歩いてダイヤモンド取引所や業者(1500社ほどはあります)の

クリックすると元のサイズで表示します(職人の研磨風景)

オフィスを訪ね、夕食もいつもホテルだった。

ニューヨークのような華やかさは全くないが、

落ち着いた街並みに夜は静かに本を読んでたのを思い出します。

その本とは当時は松下幸之助や土光敏夫さんのビジネス書をよく読んでいたかな。

日本人には童話『フランダースの犬』の舞台としても広く知られます。

空港や欧州連合(EU)本部に近い地下鉄駅での爆破事件は大昔のことを思い出してしまった。

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(アントワープのダイヤモンド博物館)

2016/3/13  日本の債務とダイヤモンド・宝石  エッセイ

日本の債務とダイヤモンド・宝石

日本全体の政府総債務残高(地方を含む)は2015年で1229兆円(内政府の純債務は629兆円)、

一人当たりに換算すると1024万円だそうですが、日々増加しているそうです。

さて、それに対して個人の貯蓄が1400兆円あって

それが国債・地方債の受け皿になっているから、

対GDP比ではギリシャよりも悪いのですが、

比較的に安心だという評価が世界に共通しているようです。

その他に個人には家屋など不動産などの資産がありますが、

これは住んでいるので容易に売却する事が出来ません、車や洋服、家具調度品、

日用品なども売っても幾らにもなりませんが、

タンスの中に眠っているダイヤモンド・宝石・貴金属類は売れば相当なお金になります。

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何しろ戦後に推定で100兆円内外のダイヤモンド・宝石・貴金属が売られましたので、

流通マージンや加工など付加価値を差し引くと30兆円から50兆円の素材原価価格があります。

これらが「金」プラチナと同じ様に現金で売れると浸透してゆけば、相当なお金になります。

特に「金」プラチナは1990年代に較べると 現在は約倍以上になっています。

意外に注目されていませんが、それらは株・有価証券並みに流動性が高いものです。

株式は売却後4営業日後の現金化ですが、

ダイヤモンドは売りにお出でいただくと、その場で現金化になります。

先日も東北からのお客様が上京されてダイヤモンド一個をお売り頂き、

500万内外の現金をお持ち帰りになりました。

その時間は凡そ15分でした。

ダイヤモンド・宝石が現金になることを宣伝して行きたいものです。

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2016/3/8  ニューヨークの思い出  エッセイ

 ラグビーに熱中の頃(ニューヨークの思い出)

さて、ニューヨークへ踏み出して、

マンハッタンにビルを購入する勢いのあった1986年頃の昔話の続きですが、

高校時代にラグビーをやっていましたが、岩手県は盛岡工業や、

黒沢尻工業が全国区の強さでレベルが高かったのですが、

我が母校の一関一校ラグビー部はやっと15人の部員を揃える弱小チームで

1年生の時には盛岡工業に71対ゼロで負け、3年生の時に初めて、

対外試合で勝利したようなチームでしたが、ラグビーの思いはいつまでも残り、

毎年秩父宮のラグビー場に何度も試合を見に行ったもので、

子供達が小さい頃の日曜日には、3人の子供をつれて出かける先はラグビー場で、

当時の秩父宮は芝生席で大きな木もあり、団栗を拾って子供たちは遊んでおりました。

今はラグビーワールドカップで競合南アフリカを破ったジャパンの活躍で、

五郎丸人気と相まってラグビー人気が高まってきましたが、昔はマイナーなスポーツで

縁があって当時ラグビーをしていた会社の公認会計士さんの紹介で入ったのが、

ガマクラブというオーバーサーテイの草クラグビーチームでした。

毎夜酒浸りのお腹の出てきた36才には50メートルを走るのにもきつかったが、

毎週多摩川土手で行われる試合には、日本に居る時は出来るだけ、

時差調整と体力作りの為に走ったものでした。

入会した時の背番号は118番で118人目の部員で、

沢山のラグビー仲間と夏には菅平合宿で鍛え、

NYに居る時には、アパートが、国連本部に近い47丁目の二番街と三番街の間にあったのですが、

一番と二番街のアベニューの間が200メートル以上もあり、

歩道が広く、人通りも少なく、絶好のランニング場所なので、

毎朝100メートルダッシュを繰返し、NYヘルス&ラケットクラブに入って、

仕事の昼は軽く水泳をし、土日には器械運動などにラグビーの為の

トレーニングをしていた事は、健康にも良かったのでしょう。

日曜日に試合をして、そのまま成田に直行してNY便に乗ることもあり、

経済が右肩上がりで、商売も順調な39才には怖いものがなかったのでしょうね。

クリックすると元のサイズで表示します(1986年当時のニューヨークオフィスでの筆者)

あれから30年、先日も昔のガマクラブ、ラグビーチームの仲間30名が居酒屋にに集った。

3年前にチームの監督であった池野氏が亡くなり、「偲ぶ会」が開かれ、

その時には70名の仲間が集まり

20年、30年前がタイムスリップして昔の仲間が変わらぬ友情を確かめ合った。

思えば監督がチームを作り育てたチームだったが、

故人となって又昔の仲間を結束させてくれた。

今でも当時の仲間と、トップリーグやスーパーリーグの試合を一緒に見に行ったりしますが、

2月の末に行われたサンウエルブズ(ジャパン)VSライオンズ(南アフリカ)の

スーパーリーグの試合では秩父宮ラグビー場が超満員で立ち見が出たものでした。

つくづく昔ラグビーをやっていて良かったと思いますね。

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2016/3/4  ビッグアメリカン(ニューヨークの思い出−9)  エッセイ

ビッグアメリカン(ニューヨークの思い出−9)

共和党のトランプ氏の強烈な個性がアメリカ人を惹き付けるのでしょうか

ビッグアメリカ、偉大な国アメリカを掲げるトランプ氏が

共和党候補として有力な立場になってますね。

1980年前後のアメリカにはアメリカンドリームと西部劇で見るような鷹揚なイメージもあり、

日本から見るとトランジスターラジオから次第に電気製品がアメリカに売れ始め

日本製の自動車などの輸出攻勢がトップギアに入り始めるのですが、

ニューヨーク五番街と6番街のダイヤモンドストリートの20WESTのビルの14階に移ってから、

同じビルの7階にあるサイトホルダーの中でも有力な会社であった

ウイリアム・ゴールドバーグ社を訪ね、

社長以下奥様、ご子息、娘さんとその婿さんと大勢の事務スタッフと

事務所内にある研磨工場のボスと研磨職員さん、

またダイニングのコックさんとこの会社の雰囲気が好きになり、

ここの親父さんの人柄に惹かれ、何百回と取引を重ねましたが、

最初に「お前に儲けさせてやる」と親父さんが3カラットの

イエローカラー・VVS1のラウンドカットのダイヤ二個を薦めてくれた

37年も前の事を今でも鮮明に覚えているのですが、

初めて見るイエローカラータイプで日本でも見たことも無いものでしたが、

西部劇のジョン・ウエィーンの様な親父さんにビッグアメリカンを重ねて、

度胸を決めて買い、やがて7カラットのDカラーの大粒石を始めて見て、

「清水の舞台から飛び降りるつもり」で買ったものでしたが、

思えば10カラットのDカラーフローレスまでを売買出来るようになったのは、

ここの親父さんとの出会いだったかも知れません。

世界中の富裕層を相手に商売をしている彼らの立場からみれば、

何個かのダイヤを買う規模の小さいな小さな客なのですが、

「今まで会った日本人の中でお前は変わっている…

薦めてもこんなタイプのダイヤを買った日本人はお前だけだ」と褒められたのか、

ジョークなのか,当時33歳の怖いものなしの自分には、アメリカ人の懐は広いなァ・・と

憧憬の眼差しで眺めておりました。

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彼が時折見せてくれる製作中のものだが、と断りながらも、

センターストーンが10カラット、その両脇が7カラット、

その隣が5カラット、3,2,1カラットとグラジュエションに取り巻いたネックレスで、

全てのダイヤの品質がDカラー、インタナリーフローレス、

エクセレントカットという超豪華な総金額は?

何処の誰に売るの?どんな人が買うの?

自分には知らない途方もなく大きな世界が彼の会社にはあったようでした。

4年前国税庁が差し押さえのダイヤモンド7.5カラットD-IFのダイヤモンドが

競売になると話題になり、当ログでも昔取り上げましたが、

最低入札価格が4080万円と国税庁始まって以来のオークション最高価格(不動産を除く)

ということでマスコミ各社が取り上げブログを投稿した夜のNHKニュースでも

映像入りで報道されていましたが

37年前のニューヨークではそんなダイヤモンドが30個ほど束ねた

ネックレスを作っていたのです。


サンキューミスターチェーン


このビッグアメリカンの会社に行くと最初にダイニングでお茶を淹れてくれて、

ランチになると我々のサンドイッチも作ってくれた中国系の人の

良さそうな叔父さんが居ましたが、

何かの事情で会社を辞めたそうで、「あれ何時ものチャイニーズの叔父さんは?」と聞くと

ジュエリーの雑誌を開いて見せてくれました。

そのジュエリーの雑誌の一面に彼の写真が大きく載っており、

「サンキューミスターチェーン」と書かれた広告がありました。

ダイヤモンドの会社が会社のコックさんが辞めるに際しての感謝と惜別の広告でしたが、

なるほど会社のイメージ広告・パブリシテイとはこうしてやるものかと舌を巻いたものでした。

9年前に久々10年振りに訪ねた時に、このビッグボスは前年に亡くなって居り、

奥様、ご家族にお悔やみを申し上げてきたのですが、

このビッグカンパニーもその数年前にデ・ビアスのサイトホルダーを辞めて、

南アのパートナーと組んで原石をオープンマーケットから仕入れ研磨しており、

「今の状況に満足している」と二代目さんの息子さんと婿さん娘さん達は

相変わらず活躍していました。

日本語サイトからもグーグルでこの会社の検索を見ることが出来ます。

NYのエクセレントカンパニー、エクセレントファミリーです。

サンキューミスターウイリアム・ゴールドバーグ・・・合掌。










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