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2021/5/27  西郷南洲(書懐)  漢詩

何年か前のNHK大河ドラマで「せごどん」をやってましたが、

大網教室では西郷南洲の胸のうちを述べた七言の律詩・・・「書懐」の後編

「一葦纔かに西にすれば」を皆で吟ず

   書懐  西郷南洲

一葦纔かに西にすれば大陸に通ず 鴨緑送る処崑崙迎う

秋草漸く老いて馬晨に嘶き 天際雲無く地茫々

嗚呼予二将にまさ に一生の半ばを終らんとす

肺肝其れ能く何れの処にか傾かけん感じ来って睥睨す長風の外ほか

月は東洋より西洋を照らす 月は東洋より西洋を照らす


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後編の詩の大意・・・西郷南洲は27歳の時、藩主島津斉彬に取り立てられ、

江戸屋敷ののお庭番となり、以後大西郷としての明治維新の歴史を刻むのですが

西郷は27歳の時に既に世界に目を見開いていた。

秋に月は中天に昇って晧々と輝き、東洋から西洋へと照らしている。

この月の明るいごとく、小国といえども日本の国威を列国に示すべきであると、

東洋経論をの抱負を述べたのだ。

あの当時は人生50年といわれた時代でしたが、人生の半ばを過ぎる昨今は

40歳頃であろうか、あの大西郷のスケールの大きさがこの詩文からも伝わってきます。

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タグ: 西郷南洲

2021/3/2  春暁(孟浩然)  漢詩

梅も散り始め、河津桜の見頃の暖かな日々です。

気持ちよく眠れる春の朝は鶯の声などで目覚めますが、

孟浩然の詩歌を思い出します。

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春暁(孟浩然)

春眠 暁を覚えず処処 啼鳥を聞く

夜来 風雨の声花落つること 知んぬ多少ぞ



孟浩然 689-740(盛唐)

湖北省襄陽の人。科挙の試験に失敗し、一時は山に隠棲していたが、

40歳の時、長安に出て詩才を認められた。

王維の紹介で皇帝にも会見ができる身分になったが、

のち詩句の一部が玄宗の不快を誘い追放された。

終生政府役人には就けず、不遇な一生を送り、故郷で没した。

平淡清雅の作風で五言律詩を得意とし、自然詩人として王維と並び称せられる。

享年52歳

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詩の意・・春の夜の眠りは心地よく、朝が来たのにも気づかなかった。

あちらでもこちらでも鳥が啼くのが聞こえる。

昨夜は一晩中、雨まじりの風が吹いていたが、

花はどれくらい散ってしまっただろうか。

詩吟教室も緊急事態宣言が明ければ来週にも始まりそうです

最初にこの詩や梅にまつわる詩を吟じてみたいものです。

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2021/2/12  春を探る   漢詩

日昼の暖かな日は梅を訪ねて散歩がてらに歩く日々ですが

最近のお気に入りの散歩コースは小中池公園に車を停めて、

小中池の畔から山道を登って昭和の森公園の山の頂上へ、其処から公園を散策して

梅園を廻ってゆくコースです。

山道は300メートルほどですが、結構険しい坂道で足場も険しいところですが、

上り下りは良い運動にもなります。

早春の風景ですが、宗の時代の戴益作の「春を探る」が今の風景、感じです

春を探る (戴益作)

尽日(春を尋ねて 春を見ず 杖藜踏み破る 幾重の雲 

帰来 試みに梅梢を把って看れば 春は枝頭に在ってすでに十分 


詩の心・・春の思う日に、一日中、春を探ね歩いたが春らしい風景を

見る事ができなかった。

杖をつき山野を踏みわけたが春の息吹を見つけられなかった。

家に帰り何気なしに梅の一枝をとってみると、いつのまにか蕾も膨らんでおり、

春の訪れをみせている。

尽日(じんじつ)・・一日中

杖藜(じょうれい)・・あかざの杖

宗時代の千年も前の「戴益」の作ですが、今の里山の風景も同じかもしれませんね。

まだ日陰には雪も残り、凍返る風の冷たさです・・・しかし梅の蕾は確かに膨らみ

今にも咲きそうな感じです・・。

日本全国で雪で孤立している村があり、人家がある昨今、春の訪れが待たれますね。


タグ: 戴益 早春賦

2020/12/24  本能寺の黒幕は誰  漢詩

歴史に「もし・・・」はないのだが、

「本能寺」の変が起きなかったなら、太閤秀吉の時代や徳川の世はあったのだろうか?

光秀を動かしたものが怨恨であれ、野心であれ、戦国の世の結果は大きく動いた。

朝廷陰謀説や柴田勝家との共謀説、秀吉、家康黒幕説など、

本能寺を巡る歴史の謎は深いのだが、

「麒麟が来る」ではどのように描かれるのか興味津々ですが

光秀が本能寺の変の前日に公家集と開いた連歌会で示したとされる


「時は今天が下知る五月かな」の句であるが、光秀の本意が隠されているとも言われる。


時は今・・・土岐は今(土岐とは光秀の出自と言われる土岐氏のこと)
 

あめが下しる・・・あめ=天 が下しる、つまり天下を取る
 

五月哉・・・この季節である


(つまり、土岐市の出自である光秀自身が天下を取る)

多くの歴史家の説が入り乱れ、光秀の影武者が討たれ、

光秀は生きていたとする説もある。

本能寺を急襲した明智方の大将斎藤利三の娘が徳川家光の乳母「春日局」として

徳川幕府の礎を築くのだが、光秀の三女「明智珠」は後に細川ガラシャ(珠子)として

歴史に名を残すのだが、それらの点と線を探求しているとついつい寝不足になるのだが、

明智光秀=天海上人説などの珍説も最もらしき、整合性もでてくるのだが・・・。

まあ・・・光秀は山崎の合戦で討たれたということで以下の

頼山陽の本能寺と光秀の思いを詠った歌謡吟詠「光秀しぐれ」をYou Cubeでどうぞ。

吟者は詩吟界の第一人者の浪口龍童さん、詩舞は手塚婉戈さんです。




本能寺 頼山陽

本能寺溝は幾尺ぞ

吾、大事を就すは今夕に在り

茭粽手に在り茭併せて食らう

四簷の梅雨 天墨の如し

老ノ坂、西に去れば備中の道

鞭を揚げ、東を指せば天猶ほ早し

吾が敵は正に本能寺に在り

敵は備中に在り、汝能く備えよ


「敵は本能寺に在り」、「是非もない」・・・

歴史に残る言の葉だ。

頼山陽の詩文が「本能寺の変」の多々ある説の中で根幹をなしているように思えるが・・。

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2020/11/19  猿は哀しいものの例え  漢詩

李白の「早に白帝城を発す」は数ある李白の詩の中でも良く知られた詩で

特に詩吟愛好家では誰でも知っており、最も愛吟されている詩の一つです。

何処の独吟大会に行っても何人かはこの詩を吟ずる方がいます。

 早に白帝城を発す  李白

朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る

両岸の猿声啼いて止まざるに 軽舟已に過ぐ万重の山


「詩の大意」

朝早く美しい雲のたなびく白帝城を出発し

江陵までの距離千里を一日で還ってきた

両岸で啼いている猿の声哀しげに耳元に響く

軽やかな小舟は幾重に重なる山々の間を一気に通過して行く

(実際には千里も無いのだがここは李白特有の「白髪三千畳」のような

例によって針小棒大な表現で李白の独壇場だ)

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李白の肖像と下は北京故宮博物館に残っている唯一の李白の実筆の書

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この詩は李白25歳の時に蜀の国から中央に旅立つときの詩で、

はやる思いに小舟に任せ軽快に江陵に下る時に作ったとの説と、

玄宗皇帝に3年ほど使えた李白が、粛宗が玄宗に無断で皇位に付いた事を認めず

反乱軍に加わったかどで捕えられ、配流の途上に白帝城付近で恩赦となり

59歳のこの時に作ったと説があるが、調べるほど判らないが、

小生には25歳の時の作のような気がする。

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ところで中国の故事にある「断腸の思い」とは

晋の武将 桓温 ( かんおん ) は、蜀の地にあった成漢に攻め込み

三峡(長江の上流の渓谷)までやってきた。

そこで、部隊の中に猿の子を捕らえた者がいた。

子猿を捕らえられた母猿は、岸沿いに哀しげに叫びながら、

百里以上もついてきて、ついには船に飛び乗ったが、

途端に息絶えて死んでしまった。

その母猿の腹を割いて見ると、腸(はらわた)が細々にちぎれていたそうです。

断腸の思いは、又別な説にはは谷底に落ちた小猿を母猿が

100里も啼きながら追いかけ、まさに腸が飛び出さんばかりの啼き声を言ったようだ。

猿にまつわる哀しい話」として伝えられており、

古来中国では「猿の鳴き声は哀しい物の例え」として語られているようで

猿と言うと、日本では動物園の猿や、猿回しの猿のイメージが強いようですが

中国と日本では猿についての印象が違うようです。

詩吟はこうした時代の背景や作者の詩の心を調べ、

詩歌を謳い上げる事で、詩歌の世界に自ら入り遊ぶことができ、

声を出して吟ずる事で自らの「気」を高め、心身ともに健康に良いのだ。

今週の教室でもこの詩を朗々と吟じあげよう。
タグ: 断腸の思い

2020/11/8   山 行 杜牧  漢詩

秋のこの季節に必ず詠うのは杜牧作の山行です

   山 行 杜牧

遠く寒山に上れば石径斜なり

白雲生ずる処人家有り

車を停めて坐ろに愛す楓林の晩

霜葉は二月の花よりも紅なり 
     
  
  山 行 杜牧

 遠上寒山石徑斜

 白雲生處有人家

 停車坐愛楓林晩

 霜葉紅於二月花

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「通 釈」

秋の日の山歩きの効用を鑑賞した杜牧の詩。

白雲が湧くところに人家が見える。
 
車を止めて、気の向くままに、あまりにも美しい夕暮れの

楓林の紅葉を愛で、霜で紅葉した葉は美しく、春・二月の花よりも一層鮮やかな紅いと結んだ。

詩吟愛好家には人気のあるこの詩は秋のこの季節には好んで詠われる。

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杜 牧(と ぼく)803年- 853年中国、晩唐期の詩人。

平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とした。

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杜牧の詩で「項羽」の最期の地となった烏江で作った「烏江亭に題す」の詩文の中には

捲土重来(けんどちょうらい)」という言葉の出典となっている詩がある。

捲土重来のブログ↓

http://wind.ap.teacup.com/applet/uminoko/20091025/archive

日曜日の今日は午前中からスカパーで女子ゴルフをテレビで観戦して

申ジェの優勝と笹生、畑中らの猛追を面白く見ていました。

2020/10/31  広瀬淡窓(故国の春)  漢詩

鋭きも鈍きも共に捨てがたし

   錐と槌とに使い分けなば
 

1805年宮崎の日田に私塾桂林荘を開いた教育家で商家の出身である

広瀬淡窓は自作の歌のような思想を持ち、後に咸宜園と名を改め以降

10代の塾長の元、八十年間で伸べ4800人余の門弟を世に送り出した。

同じ時期の吉田松陰の松下村塾には維新の傑物が輩出したが、

そこには尊皇攘夷の思想が根底にあり、塾生も攘夷の志士であったが、

咸宜園には数学や天文学・医学のような様々な学問分野の身分の種々な人々が

排出されていた事に淡窓の教育家としての偉大な姿が偲ばれる 

咸宜園(かんぎえん)↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E5%AE%9C%E5%9C%92

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広瀬淡窓は3年の学門を修め、故郷へ帰る塾生に次の詩を贈った

桂林壮雑詠その三(故国の春)

 長鋏帰りなん故国の春

    時々務めて払う簡編の塵

 君看よ白首無名の者

   會是経を談じて席を奪いし人

「学問を続けなさい,そうしないと周りにいる白髪の普通の叔父さんで

終ってしまうんだよ」と叱咤激励した。

友多き 友の中にも 友ぞなき

 沈むも浮くも友にこそよれ(淡窓)


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桂林荘雑詠(諸生に示す)2013/5/15のブログ↓

http://wind.ap.teacup.com/applet/uminoko/20100515/archive




2020/10/29  「十三夜真山民の詩を詠ず」  漢詩

秋晴れが続き十三夜の月が綺麗に見えます・・。

寒くもなく良いお月見が出来ました・。

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中国・南宋の詩人「真山民」作の山中の月を学習。

隠者の暮らしをするこの作者は美しい抒情詩を数多く作詞しているが、何よりも

1993年(27年前)に他界した小生の師の十八番の詩であった。

民謡も得意であった先生の情緒豊かな高音の吟声は今でも耳に残っている。

そんなことを思い起こしながらこの詩歌を一節づつ伝えてゆくのだ。

しかし何時になっても師の情感はなかなか出せないものだ。

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  山中の月  真山民

我は愛す山中の月

烱然(けいぜん)として疎林(そりん)に掛かるを 
 
幽独(ゆうどく)の人を憐(あわれむ)が為に

流るる光は衣襟(いきん)に散ず

我が心本(もと)月の如く

月も亦また我が心の如し

心と月と両つながら相い照らし

清夜長とこしなえに相尋ぬ


「詩の心」

作者は山中にかかっている月、まばらな林を照らしている月を最も愛す。

この静かに隠棲している自分を憐れむかのように、

月の光は私の着物の襟の辺りを照らしてくれる。

自分の心はもとより月のように無欲で清らかだ。

あの清々しい月もまた自分の心と同じだ。

我が心と月とが互いに照らし合い、この素晴らしい、

美しい夜をいつまでも相尋ね合うのである。

「語 訳」

烱然=月の光り輝くさま。

疎林=木のまばらに生えている林。

幽独の人=静かに一人でいる人。ここでは真山民自身。

流光=月の光。

衣襟=着物のえり。

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隠棲(隠者の暮らし)は世捨て人ではなく、詩歌の境地や思想を深める為に

山中に暮らす詩人が多かったようで、李白の詩にも多く見受けられる。

中国4000年の歴史には素晴らしい詩歌や孔子・孟子などの中華思想が流れている。

最近の学校教育には漢詩は無くなってしまったが、

漢詩の深さにはいつも感動するものがあります。









タグ: 十三夜 真山民

2020/6/24  本能寺の変の黒幕は?  漢詩

大河ドラマ「麒麟がくる」では、信長が桶狭間で今川義元を打つ場面で一旦放送が

コロナの影響で撮影が出来ず、前の戦国大河ドラマの名場面が放映されているが

6月30日から撮影が始まるらしい。

さて「麒麟がくる」のクライマックスとなるであろう[本能寺の変」は

天昌10年(1582年)6月2日、(今年の旧暦6月2日は7月17日に当たる)

織田信長が本能寺で明智光秀に打たれ、業火の中に自刃・・・。

戦国の最大のミステリーと言われる[本能寺の変」は明智光秀単独犯説から、

朝廷黒幕説から最近は土佐の長宗我部元親氏と光秀の交流を示す文献が見つかったとして

ニュースになったりしましたが、黒幕には他に家康説や秀吉説もあり、

いずれも説得力があるのだが、

幕末の頼山陽は大作「日本外史」の中でも光秀を戒めているが、

以下の有名な七言律詩「本能寺」の一詩は本能寺の変の有様を生々しく描写している。


 本能寺 頼山陽

本能寺溝は幾尺ぞ 吾大事を就すは今夕に在り

茭粽手にあり茭を併せて食らう 四簷の梅雨 天墨の如し

老ノ坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げ、東を指せば天猶ほ早し

吾が敵は正に本能寺に在り敵は備中に在り、汝能く備えよ


「時は今天の下知る五月哉」、「敵は本能寺に在り」、「是非もない」・・・

歴史に残る言の葉だ。

頼山陽の詩文が「本能寺の変」の多々ある説の中で根幹をなしているように思えるが・・。

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信長が好んで舞い、本能寺の業火の中で、最後に舞ったといわれる幸若舞の敦盛の一節↓

 幸若舞の敦盛の一節

人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

一度生を受け滅せぬ者の有るべきか


この敦盛の一節は熊谷次郎直実が「一の谷」の戦で、平敦盛と組み合い、

一度は「敦盛」を助けようとした直実も、味方の手前、

無残にも若き首を落とさなければならなかった直実の心内を語ったのですが、

そして直実は世の無常を感じ、その後は出家して敦盛の菩提をとむらうのですが、

信長の愛唱した敦盛の一節は

人の世は儚く短いものだ、だからこそ死を恐れず短い人生を思う存分生きようではないか・

・・との戦国の風雲児信長の心境であったのかもしれない。

信長がここで死ななかったら日本の歴史はどうなっていたのだろうか

人間50年の一生は「仏の世界の下層の四天王」の一昼夜に過ぎず、

人の世の命のはかなさを語っている。

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本能寺の跡地はビルの片隅の小さな空き地となって残っているだけで、

当時を偲ぶものはなかったが、本能寺の能の字の右側が去るの字になっている。

本能寺で信長の首を上げておれば、光秀の天下になったかも知れず、

骨一片も残さず、信長の怨念というか、ミステリーを深めてしまった。

この黒幕説のあれこれを調べてゆくと興味は更に深くなる・。

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光秀は山崎の合戦で死んでおらず、天海和尚となって歴史に再び登場し、

天海和尚は家康、家光に使え日光東照宮を作ったが、

東照宮の柱に明智の桔梗の紋所があったり、

日光には「明智平」という地名も今も残っている。

今夜も本能寺の変You Tubeなどを見ていてまた夜更しをしそうだ。

真夏の夜は歴史ミステリーが似合う

さて、「麒麟がくる」のドラマでは本能寺の変をどのように描き、

光秀の末路をどのようにするのか興味深い。

2019/10/15  山中の月(真山民)  漢詩

今日の詩吟教室は下記の中国・南宋の詩人「真山民」作の山中の月を学習。

隠者の暮らしをするこの作者は美しい抒情詩を数多く作詞しているが、何よりも

1993年(26年前)に他界した小生の師の十八番の詩であった。

民謡も得意であった先生の情緒豊かな高音の吟声は今でも耳に残っている。

そんなことを思い起こしながらこの詩歌を一節づつ伝えてゆくのだ。

しかし何時になっても師の情感はなかなか出せないものだ。

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  山中の月  真山民

我は愛す山中の月

烱然(けいぜん)として疎林(そりん)に掛かるを 
 
幽独(ゆうどく)の人を憐(あわれむ)が為に

流るる光は衣襟(いきん)に散ず

我が心本(もと)月の如く

月も亦また我が心の如し

心と月と両つながら相い照らし

清夜長とこしなえに相尋ぬ


「詩の心」

作者は山中にかかっている月、まばらな林を照らしている月を最も愛す。

この静かに隠棲している自分を憐れむかのように、

月の光は私の着物の襟の辺りを照らしてくれる。

自分の心はもとより月のように無欲で清らかだ。

あの清々しい月もまた自分の心と同じだ。

我が心と月とが互いに照らし合い、この素晴らしい、

美しい夜をいつまでも相尋ね合うのである。

「語 訳」

烱然=月の光り輝くさま。

疎林=木のまばらに生えている林。

幽独の人=静かに一人でいる人。ここでは真山民自身。

流光=月の光。

衣襟=着物のえり。

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隠棲(隠者の暮らし)は世捨て人ではなく、詩歌の境地や思想を深める為に

山中に暮らす詩人が多かったようで、李白の詩にも多く見受けられる。

中国4000年の歴史には素晴らしい詩歌や孔子・孟子などの中華思想が流れている。

最近の学校教育には漢詩は無くなってしまったが、

漢詩の深さにはいつも感動するものがあります。






2019/10/7  九月十日(重陽後一日)  漢詩

重陽後一日とされる「九月十日」は今年の暦では十月八日だそうです。。

この時期はどの教室でも「菅原道真」の詩を吟じます

845年から903年の人ですから平安の時代、平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

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重陽後一日の九月十日、清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。

    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と道真の素直な心境を詩に託したもの。

今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

失意のうちに2年後になくなるのですが、その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

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さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である

      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
  
   恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

 毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週のこれからの教室ではこの道真の詩歌を、

また上杉謙信作の「九月十三夜陣中の作」なども季節のマッチした吟題として詠ってみましょう

2019/8/27  一將功 成って万骨枯る  漢詩

いつの世も世界のどこかに戦争、紛争は絶えない。

侵略戦争、はては景気の悪化による失業などで生活苦の紛争も絶えない。

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中国の唐の末期の頃の詩人「曹松」が「已亥の歳」(897年)と題する詩文に

「一將功 成って万骨枯る」と当時の世相を叙しているが、

1100年以上経た今の世相にも当てはまるようだ。


  已亥の歳  曹松 

沢國(たくこく)の江山(こうざん)  戰圖(せんと)に入る,

生民 何の計あってか  樵蘇(しょうそ)を楽しまん。

君に憑(よ)って話す莫(な)かれ  封侯(ほうこう)の事

一將 功 成って  万骨 枯る。


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詩の心

「已亥の歳」とは(唐末の黄巣の乱(875年〜84年)の最中

水の豊な長江下流の民衆は黄巣の乱でひどい戦禍を受けた。

民はぎりぎりの暮らし(樵蘇)のなか、どのように暮したらいいのか。

君よ戦争で手柄を立てたなら、大名に取り立てるなどと(封侯の事)言わないでくれ。

君の功績は多くの兵卒の犠牲の上に成り立っているのだから。

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曹松(晩唐の詩人)の後の中国の紛争の歴史、世界各地での戦争、宗教戦争、

最近ではイラク戦争、果ては金融立国の成功と挫折の陽と陰による世界的不況など

いつの世にも「一將 功 成って 万骨 枯る」は意味深長な名言に響きます。

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現在の列国の指導者、北朝鮮は元より、最強の国、日本国のリーダー、

果ては企業のリーダーなど「万骨枯る」の図になってはいないだろうか。

しかしながらどんな時代にも民衆は楽しみを希望を持って子孫に繋いでいるものだ。

(写真は全てロイター) クリックすると元のサイズで表示します

花鳥風月はどんな時代にも誰にでも平等に変らずに廻り、音楽、文化、芸術などの

人の心には兵卒も将軍もない。




2019/8/19  心頭を滅却すれば火も自ずから涼し  漢詩

武田信玄が禅に帰依し、その師「快川和尚」の恵林寺は武田家の菩提寺とも言われますが、

天正10年(1582年)4月3日織田と武田の戦によって

武田の残党がこの恵林寺に逃げ込んだとして、信長の息子織田信忠によって取り囲まれ

快川和尚は寺を頼って来たものは全て仏弟子として渡すわけにはまいらぬと断り、

火をかけれれ、快川紹喜以下、僧100名近くが業火の中、経を唱え、辞世の言葉を残して

生きながら刮然として焼死するのですが、その時快川和尚が唱えた

「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉が残っていますが、

詩吟の教室では猛暑の夏に、己を励ます意味に於いても、以下のこの詩を吟じます

夏日悟空上人の院に題すするの詩  杜荀鶴(とじゅんかく)

三伏門を閉じて披一衲を披く

兼ねて松竹の蔭房廊を蔭う無し

安禅は必ずしも山水を須いず

心頭を滅得すれば 火も亦涼し
 


快川和尚の兄の子の朴蔵主はまだ子供なので、

快川和尚は「お前はここから脱して、私達の最後を後世に伝えなさい。」と命じます

その若い僧は後に末宗和尚となり、徳川家康からの寄進を受けて恵林寺を再建しています。

こうして恵林寺の「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」の名言が

今にも伝えられているのかもしれません。

板垣退助が暗殺された時に「板垣死すとも自由は死なず・・・」といったのは

おそらく後世の創作されたものでしょうが、

心頭を滅却の話は焼死を免れた子供の僧たち、或いは取り囲んだ織田方の武将から

伝わっていったものでしょう。

猛暑の昨今、家の中でも暑いですが、この詩を思い出したいものです。

2019/6/24  本能寺の黒幕は誰?  漢詩

天昌10年(1582年)6月2日、(今年の旧暦6月2日は7月17日に当たる)

織田信長が本能寺で明智光秀に打たれ、業火の中に自刃・・・。

戦国の最大のミステリーと言われる[本能寺の変」は明智光秀単独犯説から、

朝廷黒幕説から最近は土佐の長宗我部元親氏と光秀の交流を示す文献が見つかったとして

ニュースになったりしましたが、黒幕には他に家康説や秀吉説もあり、

いずれも説得力があるのだが、

幕末の頼山陽は大作「日本外史」の中でも光秀を戒めているが、

以下の有名な七言律詩「本能寺」の一詩は本能寺の変の有様を生々しく描写している。


 本能寺 頼山陽

本能寺溝は幾尺ぞ 吾大事を就すは今夕に在り

茭粽手にあり茭を併せて食らう 四簷の梅雨 天墨の如し

老ノ坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げ、東を指せば天猶ほ早し

吾が敵は正に本能寺に在り敵は備中に在り、汝能く備えよ


「時は今天の下知る五月哉」、「敵は本能寺に在り」、「是非もない」・・・

歴史に残る言の葉だ。

頼山陽の詩文が「本能寺の変」の多々ある説の中で根幹をなしているように思えるが・・。

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本能寺の変You Tube↓

http://www.youtube.com/watch?v=I06Uh4LWgqU&feature=related

信長が好んで舞い、本能寺の業火の中で、最後に舞ったといわれる幸若舞の敦盛の一節↓

 幸若舞の敦盛の一節

人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

一度生を受け滅せぬ者の有るべきか


この敦盛の一節は熊谷次郎直実が「一の谷」の戦で、平敦盛と組み合い、

一度は「敦盛」を助けようとした直実も、味方の手前、

無残にも若き首を落とさなければならなかった直実の心内を語ったのですが、

そして直実は世の無常を感じ、その後は出家して敦盛の菩提をとむらうのですが、

信長の愛唱した敦盛の一節は

人の世は儚く短いものだ、だからこそ死を恐れず短い人生を思う存分生きようではないか・

・・との戦国の風雲児信長の心境であったのかもしれない。

信長がここで死ななかったら日本の歴史はどうなっていたのだろうか

人間50年の一生は「仏の世界の下層の四天王」の一昼夜に過ぎず、

人の世の命のはかなさを語っている。

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本能寺の跡地はビルの片隅の小さな空き地となって残っているだけで、

当時を偲ぶものはなかったが、本能寺の能の字の右側が去るの字になっている。

本能寺で信長の首を上げておれば、光秀の天下になったかも知れず、

骨一片の残さず、信長の怨念というか、ミステリーを深めてしまった。

この黒幕説のあれこれを調べてゆくと中々眠れなくなってくる・・。

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光秀は山崎の合戦で死んでおらず、天海和尚となって歴史に再び登場し、

天海和尚は家康、家光に使え日光東照宮を作ったが、

東照宮の柱に明智の桔梗の紋所があったり、

日光には「明智平」という地名も今も残っている。

昨夜は前日寝不足だったが、本能寺の変You Tubeなどを見ていてまた夜更しをしてしまった。

真夏の夜は歴史ミステリーが似合う

2018/9/25  桂林荘雑詠(故国の春)  漢詩

鋭きも鈍きも共に捨てがたし

   錐と槌とに使い分けなば


1805年宮崎の日田に私塾桂林荘を開いた教育家で商家の出身である

広瀬淡窓は自作の歌のような思想を持ち、後に咸宜園と名を改め以降

10代の塾長の元、八十年間で伸べ4800人余の門弟を世に送り出した。

同じ時期の吉田松陰の松下村塾には維新の傑物が輩出したが、

そこには尊皇攘夷の思想が根底にあり、塾生も攘夷の志士であったが、

咸宜園には数学や天文学・医学のような様々な学問分野の身分の種々な人々が

排出されていた事に淡窓の教育家としての偉大な姿が偲ばれる 

咸宜園(かんぎえん)↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E5%AE%9C%E5%9C%92

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淡窓は3年の学門を修め、故郷へ帰る塾生に次の詩を贈った

桂林壮雑詠その三(故国の春)

 長鋏帰りなん故国の春

    時々務めて払う簡編の塵

 君看よ白首無名の者

   會是経を談じて席を奪いし人

「学問を続けなさい,そうしないと周りにいる白髪の普通の叔父さんで

終ってしまうんだよ」と叱咤激励した。

友多き 友の中にも 友ぞなき

 沈むも浮くも友にこそよれ(淡窓)


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桂林荘雑詠(諸生に示す)2013/5/15のブログ↓

http://wind.ap.teacup.com/applet/uminoko/20100515/archive







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