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2019/10/15  山中の月(真山民)  漢詩

今日の詩吟教室は下記の中国・南宋の詩人「真山民」作の山中の月を学習。

隠者の暮らしをするこの作者は美しい抒情詩を数多く作詞しているが、何よりも

1993年(26年前)に他界した小生の師の十八番の詩であった。

民謡も得意であった先生の情緒豊かな高音の吟声は今でも耳に残っている。

そんなことを思い起こしながらこの詩歌を一節づつ伝えてゆくのだ。

しかし何時になっても師の情感はなかなか出せないものだ。

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  山中の月  真山民

我は愛す山中の月

烱然(けいぜん)として疎林(そりん)に掛かるを 
 
幽独(ゆうどく)の人を憐(あわれむ)が為に

流るる光は衣襟(いきん)に散ず

我が心本(もと)月の如く

月も亦また我が心の如し

心と月と両つながら相い照らし

清夜長とこしなえに相尋ぬ


「詩の心」

作者は山中にかかっている月、まばらな林を照らしている月を最も愛す。

この静かに隠棲している自分を憐れむかのように、

月の光は私の着物の襟の辺りを照らしてくれる。

自分の心はもとより月のように無欲で清らかだ。

あの清々しい月もまた自分の心と同じだ。

我が心と月とが互いに照らし合い、この素晴らしい、

美しい夜をいつまでも相尋ね合うのである。

「語 訳」

烱然=月の光り輝くさま。

疎林=木のまばらに生えている林。

幽独の人=静かに一人でいる人。ここでは真山民自身。

流光=月の光。

衣襟=着物のえり。

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隠棲(隠者の暮らし)は世捨て人ではなく、詩歌の境地や思想を深める為に

山中に暮らす詩人が多かったようで、李白の詩にも多く見受けられる。

中国4000年の歴史には素晴らしい詩歌や孔子・孟子などの中華思想が流れている。

最近の学校教育には漢詩は無くなってしまったが、

漢詩の深さにはいつも感動するものがあります。






2019/10/7  九月十日(重陽後一日)  漢詩

重陽後一日とされる「九月十日」は今年の暦では十月八日だそうです。。

この時期はどの教室でも「菅原道真」の詩を吟じます

845年から903年の人ですから平安の時代、平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

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重陽後一日の九月十日、清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。

    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と道真の素直な心境を詩に託したもの。

今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

失意のうちに2年後になくなるのですが、その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

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さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である

      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
  
   恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

 毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。

今週のこれからの教室ではこの道真の詩歌を、

また上杉謙信作の「九月十三夜陣中の作」なども季節のマッチした吟題として詠ってみましょう

2019/8/27  一將功 成って万骨枯る  漢詩

いつの世も世界のどこかに戦争、紛争は絶えない。

侵略戦争、はては景気の悪化による失業などで生活苦の紛争も絶えない。

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中国の唐の末期の頃の詩人「曹松」が「已亥の歳」(897年)と題する詩文に

「一將功 成って万骨枯る」と当時の世相を叙しているが、

1100年以上経た今の世相にも当てはまるようだ。


  已亥の歳  曹松 

沢國(たくこく)の江山(こうざん)  戰圖(せんと)に入る,

生民 何の計あってか  樵蘇(しょうそ)を楽しまん。

君に憑(よ)って話す莫(な)かれ  封侯(ほうこう)の事

一將 功 成って  万骨 枯る。


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詩の心

「已亥の歳」とは(唐末の黄巣の乱(875年〜84年)の最中

水の豊な長江下流の民衆は黄巣の乱でひどい戦禍を受けた。

民はぎりぎりの暮らし(樵蘇)のなか、どのように暮したらいいのか。

君よ戦争で手柄を立てたなら、大名に取り立てるなどと(封侯の事)言わないでくれ。

君の功績は多くの兵卒の犠牲の上に成り立っているのだから。

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曹松(晩唐の詩人)の後の中国の紛争の歴史、世界各地での戦争、宗教戦争、

最近ではイラク戦争、果ては金融立国の成功と挫折の陽と陰による世界的不況など

いつの世にも「一將 功 成って 万骨 枯る」は意味深長な名言に響きます。

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現在の列国の指導者、北朝鮮は元より、最強の国、日本国のリーダー、

果ては企業のリーダーなど「万骨枯る」の図になってはいないだろうか。

しかしながらどんな時代にも民衆は楽しみを希望を持って子孫に繋いでいるものだ。

(写真は全てロイター) クリックすると元のサイズで表示します

花鳥風月はどんな時代にも誰にでも平等に変らずに廻り、音楽、文化、芸術などの

人の心には兵卒も将軍もない。




2019/8/19  心頭を滅却すれば火も自ずから涼し  漢詩

武田信玄が禅に帰依し、その師「快川和尚」の恵林寺は武田家の菩提寺とも言われますが、

天正10年(1582年)4月3日織田と武田の戦によって

武田の残党がこの恵林寺に逃げ込んだとして、信長の息子織田信忠によって取り囲まれ

快川和尚は寺を頼って来たものは全て仏弟子として渡すわけにはまいらぬと断り、

火をかけれれ、快川紹喜以下、僧100名近くが業火の中、経を唱え、辞世の言葉を残して

生きながら刮然として焼死するのですが、その時快川和尚が唱えた

「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉が残っていますが、

詩吟の教室では猛暑の夏に、己を励ます意味に於いても、以下のこの詩を吟じます

夏日悟空上人の院に題すするの詩  杜荀鶴(とじゅんかく)

三伏門を閉じて披一衲を披く

兼ねて松竹の蔭房廊を蔭う無し

安禅は必ずしも山水を須いず

心頭を滅得すれば 火も亦涼し
 


快川和尚の兄の子の朴蔵主はまだ子供なので、

快川和尚は「お前はここから脱して、私達の最後を後世に伝えなさい。」と命じます

その若い僧は後に末宗和尚となり、徳川家康からの寄進を受けて恵林寺を再建しています。

こうして恵林寺の「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」の名言が

今にも伝えられているのかもしれません。

板垣退助が暗殺された時に「板垣死すとも自由は死なず・・・」といったのは

おそらく後世の創作されたものでしょうが、

心頭を滅却の話は焼死を免れた子供の僧たち、或いは取り囲んだ織田方の武将から

伝わっていったものでしょう。

猛暑の昨今、家の中でも暑いですが、この詩を思い出したいものです。

2019/6/24  本能寺の黒幕は誰?  漢詩

天昌10年(1582年)6月2日、(今年の旧暦6月2日は7月17日に当たる)

織田信長が本能寺で明智光秀に打たれ、業火の中に自刃・・・。

戦国の最大のミステリーと言われる[本能寺の変」は明智光秀単独犯説から、

朝廷黒幕説から最近は土佐の長宗我部元親氏と光秀の交流を示す文献が見つかったとして

ニュースになったりしましたが、黒幕には他に家康説や秀吉説もあり、

いずれも説得力があるのだが、

幕末の頼山陽は大作「日本外史」の中でも光秀を戒めているが、

以下の有名な七言律詩「本能寺」の一詩は本能寺の変の有様を生々しく描写している。


 本能寺 頼山陽

本能寺溝は幾尺ぞ 吾大事を就すは今夕に在り

茭粽手にあり茭を併せて食らう 四簷の梅雨 天墨の如し

老ノ坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げ、東を指せば天猶ほ早し

吾が敵は正に本能寺に在り敵は備中に在り、汝能く備えよ


「時は今天の下知る五月哉」、「敵は本能寺に在り」、「是非もない」・・・

歴史に残る言の葉だ。

頼山陽の詩文が「本能寺の変」の多々ある説の中で根幹をなしているように思えるが・・。

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本能寺の変You Tube↓

http://www.youtube.com/watch?v=I06Uh4LWgqU&feature=related

信長が好んで舞い、本能寺の業火の中で、最後に舞ったといわれる幸若舞の敦盛の一節↓

 幸若舞の敦盛の一節

人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり

一度生を受け滅せぬ者の有るべきか


この敦盛の一節は熊谷次郎直実が「一の谷」の戦で、平敦盛と組み合い、

一度は「敦盛」を助けようとした直実も、味方の手前、

無残にも若き首を落とさなければならなかった直実の心内を語ったのですが、

そして直実は世の無常を感じ、その後は出家して敦盛の菩提をとむらうのですが、

信長の愛唱した敦盛の一節は

人の世は儚く短いものだ、だからこそ死を恐れず短い人生を思う存分生きようではないか・

・・との戦国の風雲児信長の心境であったのかもしれない。

信長がここで死ななかったら日本の歴史はどうなっていたのだろうか

人間50年の一生は「仏の世界の下層の四天王」の一昼夜に過ぎず、

人の世の命のはかなさを語っている。

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本能寺の跡地はビルの片隅の小さな空き地となって残っているだけで、

当時を偲ぶものはなかったが、本能寺の能の字の右側が去るの字になっている。

本能寺で信長の首を上げておれば、光秀の天下になったかも知れず、

骨一片の残さず、信長の怨念というか、ミステリーを深めてしまった。

この黒幕説のあれこれを調べてゆくと中々眠れなくなってくる・・。

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光秀は山崎の合戦で死んでおらず、天海和尚となって歴史に再び登場し、

天海和尚は家康、家光に使え日光東照宮を作ったが、

東照宮の柱に明智の桔梗の紋所があったり、

日光には「明智平」という地名も今も残っている。

昨夜は前日寝不足だったが、本能寺の変You Tubeなどを見ていてまた夜更しをしてしまった。

真夏の夜は歴史ミステリーが似合う

2018/9/25  桂林荘雑詠(故国の春)  漢詩

鋭きも鈍きも共に捨てがたし

   錐と槌とに使い分けなば


1805年宮崎の日田に私塾桂林荘を開いた教育家で商家の出身である

広瀬淡窓は自作の歌のような思想を持ち、後に咸宜園と名を改め以降

10代の塾長の元、八十年間で伸べ4800人余の門弟を世に送り出した。

同じ時期の吉田松陰の松下村塾には維新の傑物が輩出したが、

そこには尊皇攘夷の思想が根底にあり、塾生も攘夷の志士であったが、

咸宜園には数学や天文学・医学のような様々な学問分野の身分の種々な人々が

排出されていた事に淡窓の教育家としての偉大な姿が偲ばれる 

咸宜園(かんぎえん)↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%B8%E5%AE%9C%E5%9C%92

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淡窓は3年の学門を修め、故郷へ帰る塾生に次の詩を贈った

桂林壮雑詠その三(故国の春)

 長鋏帰りなん故国の春

    時々務めて払う簡編の塵

 君看よ白首無名の者

   會是経を談じて席を奪いし人

「学問を続けなさい,そうしないと周りにいる白髪の普通の叔父さんで

終ってしまうんだよ」と叱咤激励した。

友多き 友の中にも 友ぞなき

 沈むも浮くも友にこそよれ(淡窓)


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桂林荘雑詠(諸生に示す)2013/5/15のブログ↓

http://wind.ap.teacup.com/applet/uminoko/20100515/archive




2018/4/3  「清明や写生豊かな杜牧の詩」  漢詩

火曜日も詩吟の日です・・

午前中は幕張本郷教室、午後は武蔵野線で一時間余り移動して西浦和教室です・・。

清明の時期に因み杜牧の清明や春の詩歌など各2時間余りづつ・・。

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  清明 (杜牧)

清明の時節雨紛々 路上の行人魂を断たんと欲す

借問す酒家はいずれの処にかある 牧童遥かに指さす杏花の村

詩の大意・・旅先で」冷たい雨に打たれた杜牧の春愁をかきたてられた叙情詩です

百花繚乱の好時節に杏花村をを訪れた時の詩です・・杏花村は酒造が盛んな村でもあります。



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タグ: 清明 杏花村

2018/2/5  詩吟の講習会  漢詩

3日(土)は学院ホールにて詩吟の講習会でした。

毎年この時期に千葉・茨城地区講習会を開催するのですが今年は3回目です。

三人の講師の先生が一時間の持ち時間で準備した吟題で長年の自分の詩吟感を織り交ぜての

講義ですが、それぞれの個性豊かな熱心な講義でした

その中の一人の先生は水戸のご出身だそうで、

ご当地水戸藩の浪士が時の江戸幕府の大老井伊直弼を襲った「桜田門の変」の

水戸浪士佐野竹之助の「出郷作」を取り上げた 

水戸で育った講師の先生の解説にはこの事件の背景に新鮮な話があり、勉強になりました。

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  「出郷作」 佐野竹之助 

 決然国を去って天涯に向う

 生別又死別を兼ぬるの時

 弟妹は知らず阿兄の志

 慇懃袖を牽いて帰期を問う


詩の心・・作者は安政7年(1860)3月3日桜田門外に大老井伊直弼を刺殺した

     水戸藩浪士17名の内の1人。この詩はその出立に際して決意の詩。

     この旅立ちは決死の門出、「兄に代わって孝行せよ」と口に出し得ない

     断腸の思いが秘められています。

     同作者の辞世の和歌
 
     桜田の花と屍は散らせどもなにたゆむべき大和魂

70名の参加で、実技研修の17名の熱吟もあり大変熱気ある講習会でした。
    

2017/5/29  猿は哀しいものの例え  漢詩

李白の「早に白帝城を発す」は数ある李白の詩の中でも良く知られた詩で

特に詩吟愛好家では誰でも知っており、最も愛吟されている詩の一つです。

何処の独吟大会に行っても何人かはこの詩を吟ずる方がいます。

 早に白帝城を発す  李白

朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る

両岸の猿声啼いて止まざるに 軽舟已に過ぐ万重の山


「詩の大意」

朝早く美しい雲のたなびく白帝城を出発し

江陵までの距離千里を一日で還ってきた

両岸で啼いている猿の声哀しげに耳元に響く

軽やかな小舟は幾重に重なる山々の間を一気に通過して行く

(実際には千里も無いのだがここは李白特有の「白髪三千畳」のような

例によって針小棒大な表現で李白の独壇場だ)

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李白の肖像と下は北京故宮博物館に残っている唯一の李白の実筆の書

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この詩は李白25歳の時に蜀の国から中央に旅立つときの詩で、

はやる思いに小舟に任せ軽快に江陵に下る時に作ったとの説と、

玄宗皇帝に3年ほど使えた李白が、粛宗が玄宗に無断で皇位に付いた事を認めず

反乱軍に加わったかどで捕えられ、配流の途上に白帝城付近で恩赦となり

59歳のこの時に作ったと説があるが、調べるほど判らないが、

小生には25歳の時の作のような気がする。

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ところで中国の故事にある「断腸の思い」とは

晋の武将 桓温 ( かんおん ) は、蜀の地にあった成漢に攻め込み

三峡(長江の上流の渓谷)までやってきた。

そこで、部隊の中に猿の子を捕らえた者がいた。

子猿を捕らえられた母猿は、岸沿いに哀しげに叫びながら、

百里以上もついてきて、ついには船に飛び乗ったが、

途端に息絶えて死んでしまった。

その母猿の腹を割いて見ると、腸(はらわた)が細々にちぎれていたそうです。

断腸の思いは、又別な説にはは谷底に落ちた小猿を母猿が

100里も啼きながら追いかけ、まさに腸が飛び出さんばかりの啼き声を言ったようだ。

猿にまつわる哀しい話」として伝えられており、

古来中国では「猿の鳴き声は哀しい物の例え」として語られているようで

猿と言うと、日本では動物園の猿や、猿回しの猿のイメージが強いようですが

中国と日本では猿についての印象が違うようです。

詩吟はこうした時代の背景や作者の詩の心を調べ、

詩歌を謳い上げる事で、詩歌の世界に自ら入り遊ぶことができ、

声を出して吟ずる事で自らの「気」を高め、心身ともに健康に良いのだ。

今週の教室でもこの詩を朗々と吟じあげよう。
タグ: 断腸の思い

2017/3/28  春暁  漢詩

「春眠暁を覚えず・・・・・」で始まるよく知られた

孟浩然の「春暁」を吟詠・・・鳥の鳴声に目覚めるこれからの季節感だ。

まあ、小生のような田舎暮らしだから、小鳥の声に目覚めるとは言うのだろうが・・・。

毎朝の目覚めは鶯のホーホケキョで一日中鳴いている・・・・。

  「春暁」  孟浩然

春眠暁を覚えず

処処に啼鳥を聞く

夜来風雨の声

花落つること知んぬ多少


詩の大意・・・春の夜の眠りは心地よく、朝が来たのにも気づかなかった。

あちらでもこちらでも鳥が啼くのが聞こえる。

昨夜は一晩中、雨まじりの風が吹いていたが、

花はどれくらい散ってしまっただろうか。

孟浩然の「春暁」の朗読↓

http://kanshi.roudokus.com/syungyou.html

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孟浩然(689-740)は盛唐の代表的詩人で「李白」は12歳年上の孟浩然を漢詩人として

大変尊敬しており、大先輩の旅立つに際し、

「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の詩を作っている。

  黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る  李白

故人西のかた黄鶴楼を辞し

烟花三月揚州に下る

孤帆遠影碧空に尽き

唯見る長江の天際に流るを


詩の大意・・・・・烟花三月に孟浩然が乗った舟を李白が楼の上からジーッと

見守っている、どんどん小さくなって、

しまいには水平線と青空に溶けるように見えなくなってしまう。

尊敬する大兄を送る李白の情が溢れている。

漢詩は読んでゆくと千年以上も前の文化・文明の頃の古人の想いと情景が広がってきて、

それを吟詠すると自分自身の思いが広がってくる。

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送の朗読You Tube↓

http://kanshi.roudokus.com/koukakurou-moukounen.html

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春はあけぼの。

やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。


春はあけぼのの頃がよい。

だんだんに白くなっていく山際が、少し明るくなり、

紫がかった雲が細くたなびいているのがよいと清少納言は上掲の二人の中国の詩人よりも

150年ほど後に世に生まれ、平安時代にこの有名な後世に残る傑詩を記している。

このような春を感じるのに、もう少しですね。

クリックすると元のサイズで表示します(写真は大門さんの提供)

タグ: 春は曙

2017/2/13  雪梅 (方岳)  漢詩

早咲きの梅が大分開き始めた時に降る雪、これは風情が有りますね。

本当に風情のあるのは「百花に先駆けてひっそり咲く梅に小雪が舞う風景」ですが

小雪が舞うには気温が5度以下に下がってこないと降りませんので、

日中が10度前後の日は、このようなチャンスが有りませんが、何度かは

東京でも白梅に小雪が舞う日が過去にはありました。

先日、茨城に10センチも積もった日に、

水戸の偕楽園の3分咲きの梅の花びらに雪が積もっている中継がテレビで在りましたが

なかなかに風情のあるものですね。

中国の南宋の時代(鎌倉時代頃)の詩人「方岳」は「雪梅」と題する詩を

作り、梅と雪と詩が出来て、春を最も感じさせるものと言っている。

  雪梅  方岳

 梅有りて雪無ければ 精神ならず

 雪有り詩無ければ 人を俗了す

 薄暮詩成って 天又雪ふる

 梅と併せて 十分の春を為す


詩意 梅が咲いていても雪が降っていないと風景が生き生きとしたものにはならない。

雪が有っても詩心が起きないようでは、せっかくの風景も平凡なものになってしまう。

夕暮れ時、詩が出来上がり、雪が降ってきた。梅と雪と詩を合わせて春の情趣を

十分に味わえるものである

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(写真は上野公園の東照宮牡丹園に雪の降った数年前のものです)


2017/2/9  大槻磐渓  漢詩

平泉懐古 大槻磐渓

三世の豪華 帝京に擬す朱楼碧殿 雲に接して長し

只今惟東山の月のみ有って来り照す当年の金色堂


大槻磐渓(1801〜76年)作の平泉懐古、春日山懐古は

詩吟愛好家に好まれて良く詠われています。

蘭学者大槻玄沢の二男で、開国を唱えた和魂洋才の儒学者であり、

一関駅前には「大槻三賢人」の銅像が立っており、まず旅人を迎えてくれます。

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三賢人とは父大槻玄沢・大槻磐渓・そして次男の大槻文彦です。

一関から西の平泉寄りに中里町がありますが、

そこに玄沢の叔父の家系が一関の大槻宗家があり、奇岩で有名な厳美渓があり、

一関市内は磐井川が流れ北上川に注いでいますが、

今でも磐井郡の地名が残るこの地の名前から「磐渓」という号を称したと思われます。

さて大槻磐渓は、儒学者ですが、

後に長崎で蘭学を学び、黒船来航の際には、開国論を唱えていますが、

頼山陽とも交流があり、佐久間象山とはかなり親しく、

象山の弟子であり、義理の弟の吉田松陰とも交流があったようです。

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(中央大槻磐渓、右大槻文彦の写真)

土佐藩の藩主山内溶堂とは親しい付き合いながらも、

戊辰戦争時には、仙台藩が朝廷へ提出した建白書に関与したとして、

戊辰戦後一時投獄されたが、それには溶堂が磐渓を許さずの意向が大きく働いたようです。

江戸末期から幕末、維新へと大きく歴史の動いたこの時期に活躍した磐渓が

仙台藩の役職にあった頃に近くの平泉を訪れ、

盛者必衰の理に思いを深くする前掲の詩ほか、多くの詩を残している。

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(ペリー上陸)


2017/1/30  垓下の歌  項羽  漢詩

昨日は詩吟の仲間「清風会」の合同発表会でいつもの新小岩の活動センターに

11教場55名が集まり、一生懸命練習した吟を詠い、懇親会をして一日が詩吟の日でした。

中国の春秋戦国時代の中に出て来る「劉邦」「項羽」の垓下(がいか)に

於ける最後の戦いの場面である。

  垓下の歌  項羽

力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。

騅不逝兮可何,虞兮虞兮奈若何


 力 山を拔き  氣は 世を蓋(おほ)ふ

 時に 利あらず  騅(すゐ) 逝かず
 
 騅(すゐ)の 逝(ゆ)かざるを  奈何(いか)にすべき

 虞(ぐ)や虞(ぐ)や  若(なんぢ)を 何(いかん)せん


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私的和訳

楚の項羽と漢の劉邦が天下を争い、やがて垓下で項羽軍は敗れようとするが、

その最終段階で、項羽が滅亡を悟った時に歌ったのものとされる。

『史記・項羽本紀』や『古詩源』に遺されている。

烏江で項羽が亡ぶ前日、

四面四方の山々から故郷「楚」の歌声が響き渡った時、

項羽と虞姫が別れの杯を交わしたときの情景を歌ったものである。

四面楚歌の四文字熟語の語源と言われている。」 

騅(すゐ)とは項羽の愛馬の名前で負け戦の最中愛馬「騅(すゐ)」の歩は進まなかったのである。

虞姫は項羽の愛人の虞美人である。

虞姫も又項羽の後を追い自害するのですが

虞美人の流した血は烏江の川を真っ赤に染め、翌年にはその川の辺に真っ赤な花が

咲くようになったと言う。

これが虞美人草と言われる。(ポピーの花です)

詩の前半は山をも貫く項羽の勢いがあり、時に利なく愛馬進まず、天命を悟り

最後の地垓下で宴を催し虞姫を気にしながら自害するのです。

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※項羽:秦末の武将。後の西楚の覇王。

劉邦と天下の覇を争い、垓下で敗れ去る。

前232年〜前202年。項羽は、叔父の項梁とともに挙兵し、


漢王劉邦と呼応して西楚の覇王となる。

後、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下の戦いで大敗。

二千年前、楚の項羽と漢の劉邦が天下を争い、垓下で項羽軍は敗れた。

この烏江の地を落ち延び江東に逃れる道筋もあったが、

天の我を亡ぼさんとするに、我なんぞ(烏江を)渡らんか。と烏江で自害した。

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数ある漢詩の中でも好きな詩です。

今週末土曜日(4日)に千葉・茨城地区の詩吟の講習会があり、

小生も講師の一人として一時間の講義をする予定ですが、

その中で、この詩を題材として漢詩の講義を行う予定です。

戦国時代の強いものへの憧れ、また絶世の美女と言われた虞美人など

詩吟愛好家の好きな漢詩の一つです。

2017/1/30  垓下の歌  項羽  漢詩

昨日は詩吟の仲間「清風会」の合同発表会でいつもの新小岩の活動センターに

11教場55名が集まり、一生懸命練習した吟を詠い、懇親会をして一日が詩吟の日でした。

中国の春秋戦国時代の中に出て来る「劉邦」「項羽」の垓下(がいか)に

於ける最後の戦いの場面である。

  垓下の歌  項羽

力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。

騅不逝兮可何,虞兮虞兮奈若何


 力 山を拔き  氣は 世を蓋(おほ)ふ

 時に 利あらず  騅(すゐ) 逝かず
 
 騅(すゐ)の 逝(ゆ)かざるを  奈何(いか)にすべき

 虞(ぐ)や虞(ぐ)や  若(なんぢ)を 何(いかん)せん


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私的和訳

楚の項羽と漢の劉邦が天下を争い、やがて垓下で項羽軍は敗れようとするが、

その最終段階で、項羽が滅亡を悟った時に歌ったのものとされる。

『史記・項羽本紀』や『古詩源』に遺されている。

烏江で項羽が亡ぶ前日、

四面四方の山々から故郷「楚」の歌声が響き渡った時、

項羽と虞姫が別れの杯を交わしたときの情景を歌ったものである。

四面楚歌の四文字熟語の語源と言われている。」 

騅(すゐ)とは項羽の愛馬の名前で負け戦の最中愛馬「騅(すゐ)」の歩は進まなかったのである。

虞姫は項羽の愛人の虞美人である。

虞姫も又項羽の後を追い自害するのですが

虞美人の流した血は烏江の川を真っ赤に染め、翌年にはその川の辺に真っ赤な花が

咲くようになったと言う。

これが虞美人草と言われる。(ポピーの花です)

詩の前半は山をも貫く項羽の勢いがあり、時に利なく愛馬進まず、天命を悟り

最後の地垓下で宴を催し虞姫を気にしながら自害するのです。

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※項羽:秦末の武将。後の西楚の覇王。

劉邦と天下の覇を争い、垓下で敗れ去る。

前232年〜前202年。項羽は、叔父の項梁とともに挙兵し、


漢王劉邦と呼応して西楚の覇王となる。

後、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下の戦いで大敗。

二千年前、楚の項羽と漢の劉邦が天下を争い、垓下で項羽軍は敗れた。

この烏江の地を落ち延び江東に逃れる道筋もあったが、

天の我を亡ぼさんとするに、我なんぞ(烏江を)渡らんか。と烏江で自害した。

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数ある漢詩の中でも好きな詩です。

今週末土曜日(4日)に千葉・茨城地区の詩吟の講習会があり、

小生も講師の一人として一時間の講義をする予定ですが、

その中で、この詩を題材として漢詩の講義を行う予定です。

戦国時代の強いものへの憧れ、また絶世の美女と言われた虞美人など

詩吟愛好家の好きな漢詩の一つです。

2017/1/22  道真公の「天神縁起絵」見つかる  漢詩

学問の神様「菅原道真」を祀る湯島天神では恒例の梅花祭りが行われています。

今朝のニュースでは「天神縁起絵」の掛け軸が、福岡県小郡市で見つかったそうです。

菅原道真の生涯や死後の怨霊となる場面などを絵にしたもので

その掛け軸は縦185センチ、幅64センチの2幅セットで

絵の顔料などから江戸時代後期の作品とみられるが保存状態がよく、

1幅に道真の不遇の生涯、

もう1幅には道真の死後に都で起きた天変地異と

それを鎮めるために北野天満宮(京都市)が建てられた話や老松神社が記され、

2幅で計46の場面が描かれている

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やはり「菅原道真」の詩を思い出される

845年から903年の人ですから平安時代の人ですが、

今なお学問の神様として若い人たちにも慕われているのは、

道真公の醍醐天皇への忠誠心や大宰府に左遷された不運な境遇や道真の祟りとして怖れられた

雷神の魂を鎮めるために建てられた全国の多くの天満宮の為でしょうか。

 * 東風吹かば思い起こせよ梅の花

       あるじなしとて春な忘れそ


(大宰府天満宮正面の飛び梅伝説として伝えられている梅の木)

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(同飛び梅の秋の風情)

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平清盛の時代背景より200年ほど前の頃ですが、

宇多天皇の時代から信任の厚かった

菅原道真は醍醐天皇の右大臣として権勢を誇っていた。

重陽後一日の九月十日、

清涼殿では醍醐天皇の主催する詩を作る宴が開かれていた。

その時の醍醐天皇の出された[題」は「秋思」・・・。

居並ぶ重臣が日がな一日、詩を作り、

それを発表して一日を送る優雅な貴族文化だった・・。

そこで作った道真の[秋思」の詩に醍醐天皇は痛く感動し、

ご自身の召されていた衣を脱いで道真に褒美として下されたという。

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    秋思 菅原道真

  丞相年を度って幾度か楽思す 今宵物に触れて自然に悲し 

  声は寒し絡緯風吹くの処 葉は落つ梧桐雨打つの時 

  君春秋に富み臣漸く老ゆ 恩に涯無く報猶お遅し知らず  

  此の意何かに安慰せん 酒を飲み琴を聴き又詩を詠ず


詩の心・・・自分は多年のわたり、天皇の御恩を授かり、

お蔭でもって、幸運な生活を送ることができた。

今宵は、秋の風に触れ、感傷的になり、悲しくなってきました。

虫の声は寒々としており、吹き渡る風の中に、桐の葉に雨が落ちる音が聞こえ、

それが益々、孤独感を強めていきます。

天皇はは、まだ若く、これからの未来に楽しみもいっぱいあろうかと思いますが、

臣である私共は、既に老境を越えるところにあります。

それゆえ、陛下へのご恩に対して報いるには、時間がないことを悲しみます。

このようなどうしようもない状況で、自分の心を慰める術が見当たりません。

せいぜい、酒を飲み、琴を聴き、詩を詠じて、気を紛らわすしかない状況です。

私が十分にご奉公できないことをお許しください・・と

道真の素直な心境を詩に託したもの。

今の社会と変わらないような、同僚のねたみ、嫉みから、道真は天皇に左遷され

九州大宰府に流され、門を一歩も出ることなく蟄居の暮らしの中、

悲嘆のうちに2年後になくなるのですが、

その後の都で道真を陥れた左大臣藤原時平親子、

天皇一家が非業の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちたり、都には疫病が流行り・・・

道真の祟りと怖れられ、道真の霊を慰めるために天満宮がもうけられ、

代々の学問所の出身である道真を学問の神様として祀り、

全国に天満宮が出来たという。

さて、道真の左遷の理由ですが

「醍醐天皇を廃して、道真の娘が嫁いだ斎世親王(醍醐天皇の弟)の擁立を企てている」

というもので、道真には一言の弁解も許されなかったというのが、通説のようです。

そして、大宰府に流された道真が二年後に作った詩とされるのが

詩吟の最初の頁に出てくる「九月十日」である

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      九月十日 菅原道真

   去年の今夜清涼に待す 秋思の詩編独り断腸
 
   恩賜の御衣今此に在り 捧持して毎日余香を拝す


詩の心・・・思えば昨年の今夜、重陽後の宴に召され、

 清涼殿で陛下のおそばに侍べっていた。

 秋思の題を賜り、諸臣それぞれ詩を作ったが、

 ひとり自分の詩だけが悲しみに満ちたものになってしまった。

しかるに、陛下は大層おほめになり、御手みずから御衣をぬいで賜った。

それをいまも大切に持参している。

毎日その御衣を捧げては、その移り香を拝しているのである。

冤罪にてこうして太宰府に流されているのに、少しも君を怨むことはない。

重陽とは五節句の一つで、9月9日のことで、

旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気をはらい

小高い山に登って豊作を祝い、宴を催す習慣があったと言う・・・

平安の貴族もこれに習いさまざまな宴を催したのだそうです。




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